契約を終わらせましょう
最終話です。
よろしくお願いします。
「君と結んだ契約を、終わらせたい」
ミハイルが告げ、オーロラも背を預けていた枕から起き上がり、真っ直ぐに彼の青い目を見つめ返した。
「………はい」
オーロラの答えにひとつ頷くと、ミハイルがウエストコートの内ポケットから揃いの二つの指輪を取り出した。
契約結婚の魔法契約を封じた記録結晶片が姿を変えた、青水晶の指輪。片方は、侯爵邸を出るときにオーロラがマシュー執事長に預けてきたものだ。
「『保存形態を解除』」
ミハイルの手の上で、二つの指輪が光を放ちながら一つになり、その姿を元の結晶片へと変えた。
魔法契約締結の際には、結晶片に契約者が触れて魔力を流し、『契約完了』と詠唱する。
逆に、契約者が魔力を流しながら『契約解除』と告げて結晶片を割れば、魔法契約は消滅する。
光を乱反射して様々な色に変わる結晶片を見ながら、オーロラは終わりの時が来たのだと悟る。
貴族院への離婚申請はこれから書面などで行っていくことになるだろうが、こうして一足先に契約結婚を終わらせることになるなら気持ちの上でもいい区切りになるかもしれない。
オーロラは意を決し、差し出された結晶片に触れて魔力を流した。
「『契約変更術式起動
契約者 甲 ミハイル・リンデルト
契約者 乙』」
「オーロラ・リンデルト 旧姓バーリエ」
「『契約内容を表示』」
二人の眼前に契約結婚の内容が開示される。
『甲と乙は、本契約において次の項目を順守することとする。
一、甲と乙は対外的に仲睦まじい侯爵夫妻として振る舞うこと。
二、契約期間中は互いを唯一の伴侶とし、他者と情を交わすことがないこと。
三、婚姻継続中も子を成す必要はない。よって、夫婦間の肉体的接触は社交上の必要最低限のみとし、またこれを強要しない。
四、甲は乙の侯爵夫人としての体面を維持するための費用を全面的に負担すること。
かつ別途、甲は乙に契約の対価として日額金貨10枚を支払うこと。
また、必要に応じ、乙の生家であるバーリエ伯爵家への援助を行うこと。
五、本契約は、甲が侯爵位を譲る時、ないし甲が正式な伴侶を妻として迎えるまでを期限とすること。
六、『約束の令嬢』本人が見つかった場合、本契約による婚姻関係は速やかに解消すること。
上記項目に甲が違反した場合、違約金として契約終了時に渡す金額を即金で支払うこととする』
空間に映し出された、契約結婚についての条項。
最初にこれを目にしたのはほんの二カ月ちょっと前なのに、もっと遠い記憶のように感じる。
あとはミハイルの『契約解除』の言葉と同時に、ほんの少し力を込めただけで結晶片は真っ二つになるはずだ。
これで本当に、何もかも元の状態に戻る。
貧乏伯爵家の娘と、大富豪侯爵家当主の仮初の繋がりは、跡形もなく霧散する。
オーロラが契約内容から目を逸らすと、柔らかな笑みを湛えたミハイルと視線がぶつかった。
オーロラを見つめて微笑んだミハイルが告げる。
「『契約条件の第六項を削除』」
その言葉通り、目の前の契約内容から六番目の項目が消えた。
短くなってしまった契約内容に、オーロラは困惑する。
そもそも何故ミハイルは、契約解除するのではなく、契約内容の一部を削除したのだろう。
「侯爵様……?」
「私は………君を、正式に妻として迎えたい」
「は…い……?」
「だから、この契約を現時点で終了したいと思う」
正式に妻として迎える。
ミハイルの言葉に、オーロラは息を呑んだ。
つまりミハイルは、オーロラを“正式な伴侶”とするから、第五項に従って契約を終了したいと言っているのだ。
驚きすぎて結晶片に触れているオーロラの手から力が抜けそうになるが、それをミハイルがもう一方の手を添えて支えた。
「もしも、今の時点で私の伴侶となるのが嫌なら、そうなってもいいと君が思えるまで、いつまでも待つ。
本でも、宝石でも、ドレスでも、君が望むなら好きなだけ取り寄せよう。
他にも、私が持っている物ならなんでも差し出す」
「そんなことを軽々しく仰っては…」
「君の傍にいられるなら、そのためなら、どんな対価も惜しくない。
だからどうか、私を選んでくれ。
私を、君の夫のままでいさせてほしい」
ミハイルが結晶片ごと両手で包み込んだオーロラの右手をしっかりと握り、真っ直ぐに目を見つめた。
「これからも君と、一緒に生きていきたいんだ」
ミハイルの手から、伝わる熱。
一緒に生きていきたいという言葉と、真摯な眼差し。
その根っこにある気持ちが自分が抱えているのと同じ想いかをちゃんと確かめたくて、オーロラも勇気を出してみる。
「お傍にいるだけで、いいのですか?
私の心はなくても?」
「無論、君の心だって欲しい。でも……今は、君の隣に居させてくれるだけでいい。
いつか、君から同じ気持ちが返してもらえるよう、これから精一杯、頑張るから」
握り合わせた手に、ミハイルが額をつけた。
「愛しているんだ……オーロラ」
聞こえてきたくぐもった呟きは祈りに似て、閉じかけていたオーロラの心に届いた。
名前を呼んで、それだけで涙が出るほどに好きな人が、自分を愛していると言ってくれる。
こんなにも特別なことがあるだろうか。
これ以上望みなどあるわけがない。
「ミハイル」
ミハイルが結晶片に触れている右手に、今度はオーロラの左手が添えられた。
「契約を、終わらせましょう。ミハイル」
「…っ!」
終わりという言葉に狼狽し、でも名前を呼ぶ柔らかい声音に驚いて、ミハイルが顔を上げた。
自分を映してくれた青い瞳を見つめ、オーロラは目に涙をいっぱい溜めながら嬉しそうに微笑んだ。
「宝石もドレスも、要りません」
「オーロラ…私は……」
「正式な妻に、してくださるのでしょう?
あなたの傍に居られるなら、他には何も要らないの」
驚きに目を瞠るミハイルにオーロラが眉尻を下げ笑う。彼女の目尻から溢れた雫が頬を伝った。
「それに、私を愛しているとおっしゃるなら、本当の夫婦なら…契約なんて、婚姻関係だけで充分でしょう?」
「……っ!」
ミハイルが一瞬息を飲み、それからクシャリと泣き笑いのような顔になって詠唱した。
「『契約解除』」
結び合わせた二人の手の中で、パキンと音がして結晶片が割れる。
開示されていた残り五つの契約項目も消え、契約書からただの指輪に戻った二つの青水晶がオーロラのベッドの上にぽすんと落ちてきた。
その一つ、輪の細い方を拾い上げ、ミハイルがオーロラの薬指にはめて青水晶にキスを落とした。
「愛している」
オーロラももう一方を拾い、ミハイルの左手薬指に。
そして少しやつれてしまった彼の頬に、一つキスを贈った。
「私も、貴方を愛しています、ミハイル。
侯爵位にある間も、貴方がいつかその地位をおりた後でも、貴方の傍にいてもいいですか?」
オーロラの問いかけに答える代わりに、ミハイルは彼女を抱き寄せた。久しぶりに彼の香りと体温を感じて、オーロラの目からもまた涙が零れた。
「君が、君だけが、私の妻だ」
「……はい」
今まで幾度もミハイルが伝えてきた言葉が聞こえた。これまではそのまま素直に受け取れなかったオーロラが、ようやくその言葉をちゃんと受け止めることができた。
「愛している」
* * *
雪が溶け、王都に春の花々が咲き誇る頃。
リンデルト侯爵家本邸において、若き侯爵家当主の婚姻をお披露目するために盛大な宴が催された。
宴に先駆けて執り行われた夫妻にとっては二度目の婚姻式では、新郎であるミハイル・リンデルト侯爵が新婦のオーロラ侯爵夫人の前に跪いて、誓いの耳飾りを捧げた。
光の加減で青にも緑にも輝く、天然のブルーオパールをあしらった耳飾りは、夫人の瞳の色に最も似たものを侯爵自らが選んだという。
昨年の秋の初めの電撃結婚の報と、それから程なく夫人が拉致されたらしいという噂が流れたことで、貴族の間では夫妻に関して様々な憶測が飛び交っていた。実はただのお飾り妻にするだけの婚姻だとか、はては拐われたという夫人の不名誉な噂まで。
だが、誓いの耳飾りを贈り合った直後に侯爵が夫人を抱きしめて熱烈な口付けをしたことで、噂の大半は何処かに吹き飛んでいった。
リンデルト侯爵家本邸の大広間の中心で、青と金の揃いの衣装を纏い、息ぴったりにダンスを披露する二人の仲睦まじい姿を見せつけられて、誰もが彼らが本当に愛し合う夫婦だと確信した。
「あの耳飾り、侯爵様自ら意匠をデザインされたのですって」
「王国中の宝石商すべてにお声掛けして、奥様の瞳に一番色味が近いものを選ばれたらしいわ」
「素敵ねぇ」
「王国中の宝石商すべてを脅して、の間違いじゃないでしょうね………?」
女性陣のする噂話を耳にして、ぽそりとフォルツが呟く。
「まさかぁ。
石の種類と希望する大きさ、色味の特徴を伝えて、侯爵家当主の印を押した手紙を送っただけだよ。
金属製の部分は兄上が描いたデザイン画を元にリンデルトの職人が超速攻で作り上げて、それを兄上の選んだ石を所蔵してる宝石商に持ち込んで、完成まで仕上げてもらったんだって」
「それ、石の依頼から完成までどれくらいの期間で?」
「実家への挨拶回りから帰ってすぐデザイン画をうちの工房に送りつつ、宝石商宛に手紙を送って、東海から戻ったら受け取れる段取りにしてたって言ってたから………20日くらいってとこかな」
「普通に無茶振りがすぎるでしょ………」
「権力持った金持ち、怖ぇ~」
オーブリーの説明に双子が半ば呆れながら言う。
弟たちがそんな会話をしながら見守る中、ミハイルがオーロラをふわりと抱き上げた。
「今は水たまりないのにねー」とオーブリーが笑いながら、いつかのような氷の睡蓮を会場中に作り出した。
二人がオーブリーの方を見て同時に笑いかける。
「あ、こっち見た。
次は俺と踊ろうねぇ、義姉上~」
ひらひらと手を振るオーブリーからオーロラを隠すようにターンして、ミハイルがにやりと笑う。
それを見た三人の弟たちから同時に「あぁ~」と声が漏れた。
「あれ、僕達には順番なんて回ってこないやつだよね?」
「大人げねー。
姉さん、ほんとヤバイ人に掴まったよな」
「仲良しだなぁ。ま、婚姻披露宴なんだからしかたないさ」
ミハイルの独占欲の強さに弟たちが笑う中、一曲目が終わり会場中に拍手が巻き起こった。
オーブリーがそれに合わせ、睡蓮を高く持ち上げて弾けさせ、細かい氷の粒子に変えた。
鳴りやまない拍手とキラキラと光る無数の氷片の中で、互いに互いを選んだ二人は見つめ合う。
結び合わせた手には、リンデルトの青の指輪。
そしてそれぞれの右耳にはオーロラ色に輝く揃いの耳飾りが輝いていた。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございます。
ブクマといいねも嬉しかったです、ありがとうございました。




