この掌に残ったもの
主がいなくなった部屋に、新しく始まった日の朝の光が差し込む。
何もないまま、また一日が始まってしまうのを拒むように、ミハイルは差し込む光から己が身を避けカーテンの隙間を閉じた。
あれから二日、リンデルト侯爵家では未だにオーロラの行方を掴めていない。
貴族家を訪問する場合、通常なら事前に連絡を入れて当主または夫人に許可を得て、日程を把握した客のみを家人が招き入れる、という段取りになる。
オーロラが侯爵家を出たあの日。
もしも、アウローラ嬢が騎士を従えて武威をちらつかせて押しかけていたら、門衛や警備の騎士に阻まれていただろう。だが彼女は護衛は連れず、侍女らしき女性を一人連れただけだった。まさか、予定もないのに侯爵家に押し入る令嬢がいようなどと誰も思わなかった侯爵家使用人は、強引なアウローラ嬢相手にどう対応したものかと迷った。アウローラ嬢が「自分はミハイル様と約束した仲だ」と言っていたのも、彼らの迷いに拍車をかけたのだろう。しかも彼女は同格の侯爵家令嬢だと名乗っていたので、高位貴族家の令嬢相手に強引に止めるのはいかがなものかという使用人たちの困惑にもつけ込まれた。そうしてアウローラ嬢は使用人の制止も聞かず強引に侯爵夫人の私室前まで入り込み、オーロラに会ってしまったということだった。
警備の見直しは必至だなとミハイルは思う。広大なリンデルト侯爵家本邸に押しかけ中に入り込むだけでなく、アウローラ嬢は侯爵夫人の私室に迷わず真っ直ぐに向かっていた。これは間違いなく、内部に手引きして案内した者がいる。
(まだ分家筋の鼠が残っていたか)
ミハイルは歯噛みし、その時の各使用人の動きを精査するようマシューに命じた。
それに、直接会って話をしてアウローラという娘の厄介さを痛感した後では、彼女を止めきれなかったことについて使用人たちを怠慢だと一方的には責められなかった。
強引かつ思い込みが激しい質のアウローラ嬢の説得は、これまで様々な交渉をこなしてきたミハイルにとっても大変な労力を要するものだったのだ。
マシューに諭されたミハイルはアウローラ嬢に会い、これまで『約束の令嬢』という存在を都合よく利用してきたことを謝罪した。アウローラ嬢は今後は自分が本物として侯爵家に入ると言い張ってきかなかったが、ミハイルは自分はもうすでに婚姻を貴族院に認められた妻帯者であり、今の妻と離婚するつもりも妻以外を娶るつもりもないと言葉を尽くして説明した。何度も堂々巡りを繰り返した末、なんとか彼女を侯爵邸から立ち去らせた頃には、もう日がすっかり傾ききっていた。
オーロラに付けた騎士たちからは、マシューの指示どおりに定期的に連絡が来ていたが、学院に入ったまま、オーロラも、双子も、門から外へ出てきていないという内容に変化はなかった。
王立学院は学舎と研究棟、授業に使うための様々な特殊設備棟、そして学生寮が同じ敷地内に収められ、その周囲をぐるりと魔法防壁で囲まれている。出入りできるのは通常は正門だけで、そこを通ることができるのは学院の生徒と、事前に申請して受理された者のみ。特に騎士階級の者については、たとえ貴族の護衛騎士であろうと、厳正な審査を行い許可された場合でなければ敷地に足を踏み入れることはできない。すべては、学院に通う生徒の安全を守るためだ。
あの日、急遽学院に向かうことになったオーロラと二人の侯爵家の騎士は、当然事前の申請はしていなかったわけで、敷地に入ることはできずに門の外で双子が帰宅するために学院から出てくるのを待っていた。
ようやく姿を現した弟たちは、最近学院の登下校に同行してくれている騎士だけでなくいっしょに姉の姿もあったこと、さらにその頬の傷を見つけて大変驚いたという。
何があったのか説明したいが、正門前という場所で二人も騎士を従えた上に豪奢な馬車まで待たせた状況は悪目立ちが過ぎた。
そこでオーロラは、学院の敷地内にあるカフェを話し合いの場にするため門衛に掛け合い中に入れてもらえるよう緊急の申請をさせてもらうことにした。幸い、現在学院に通っている双子が彼女を姉であると申請書に書いたこと、そしてオーロラ自身も数年前には学院の生徒であり、魔力紋の登録が学院側に残っていたため”オーロラ・バーリエ本人である”という確認が速やかに行えたことで、特別許可が下りた。
ただ、当然だが騎士たちは同行が認められなかったので、オーロラはここでもう馬車を侯爵邸に戻して、騎士たちにも帰って執事長に復命してほしい旨を伝えた。
しかし、マシューにより「オーロラに張り付いて離れるな」と厳命されていた騎士たちは、門前で待つと答えた。門が閉ざされるまでまだ時間もある。話し合いが終わるまでここで待ち、今日の宿泊先まで護衛として同行する、と。
オーロラは、弟たちもいることだから護衛は無くて大丈夫だと言ったのだが、騎士たちは頑として聞き入れなかったため、門前で待つことを了承し、双子と一緒に学院内へと入っていった。
そしてそのまま、学院が夜間で閉鎖されても、オーロラも双子も門から出てくることはなかったのだ。
騎士たちから閉門まで待ってもオーロラたちが出てこなかったという連絡が来て、ミハイルはすぐさま緊急性があると訴えて、敷地内にオーロラ・リンデルト侯爵夫人がいるか学院側に所在の確認を申し入れた。すると驚いたことに、オーロラ本人は夕刻前には学院の敷地から出たという記録を確認した、という回答があったのだ。騎士たちは持ち場を離れず門前で待ち続けていたが、彼女が門から出てきたのは確認できていないというのにだ。
いったいどうやって、オーロラは学院の敷地から去ったというのか。
真っ先に浮かんだのは、オーブリー達第四師団が現在最優先で捜査しているあの連続行方不明事件だった。バーリエ姉弟は3人とも、父のグリフィス・バーリエ伯爵譲りの金髪である。だが足取りが消えたのが王立学院であることで、その可能性は低いだろうと思い直した。それでも、彼女の行方が分からなくなったのだけは確実だ。
ミハイルはまんじりともしないまま夜を過ごし、朝になり学院側が問い合わせを受け付けてくれる時間が来るのを待ってもう一度確認の連絡を入れた。今度はオーロラではなく、現在学院に籍を置いているフォルツとリントの兄弟の所在を確かめるために。学院を出る前に最後にオーロラに会ったのは彼らだ。一番彼女につながる手掛かりになるのは、フォルツとリントの双子に間違いない。
かくして学院からは、バーリエ伯爵家の双子は学院敷地内にいるとの返答があった。
使いの者を出そうというマシューを振り切り、ミハイルは自ら学院に向かった。
面会の申請をして会うことになり、会談場所として用意された学院事務局の一室にやってきたミハイルを迎えたフォルツとリントの兄弟は、初めて出会った時ほどではないものの対応は冷ややかだった。
聞けば双子は昨日から学院敷地内の寮に入っていたという。事前に申請はしていたらしく、昨日オーロラ立ち会いの元で正式に入寮手続きをしたということだった。
ミハイルがオーロラの所在が分からないと尋ねると、二人で目を合わせた後、静かに答えてくれた。
「僕たちも、姉が今どこにいるかははっきりとは知りません」
「どういうことだ…!?」
「でも、知り合いの方のところで安全に過ごしているというのは、連絡を受けています」
「知り合い…とは、いったい誰のことだ…?」
疑問だらけのミハイルの顔を表情を失くしたフォルツがじっと見る。
「もう、それを侯爵様にお伝えする義務は、なくなったということなのですよね?」
「!?」
フォルツが言った言葉に、ミハイルの表情が固まった。
リントの方はフォルツよりわかりやすく、ミハイルのことを睨むように見ていた。
「全部聞きました、姉から」
「姉との婚姻を聞いた時、僕たちが信じられないと言った、本当はそのままの状況だったのですね」
全部聞いたというのは、おそらく二人の婚姻が契約上の取引であったことだろう。
そしてその中にあった条件に従い、契約を終了してオーロラは侯爵家を出てしまったことも。
そういう契約だったからと、こんなにも簡単に彼女は侯爵家から消えた。
ミハイルと過ごした日々も、彼の気持ちも、全部置き去りにして。
胸が締め付けられ、ミハイルは膝の上で組んだ両の手を震えるほど強く握りしめた。
侯爵邸で過ごしている時に見ていた彼とはあまりにもかけ離れた姿に、双子は戸惑いつつも、昨日の姉の寂しそうな笑顔を思い出す。
「思えば最初から有り得ない話だった、と、姉はそう言っていました」
「元の状態に戻るだけだ、と」
双子が順に語ったオーロラ自身の言葉に、目の前の男の肩が小さく揺れた。「あぁ……」と小さく呟いて、ミハイルは目を固く閉ざし、血管が浮くほどさらに強く拳を握った。それは侯爵家当主としての立場も矜持も全部取っ払った一人の男、後悔と自責の念につぶされそうになっている、ただの男の姿だった。
彼の中の想いがどういう変化をして、今こうして姉の不在を嘆いているのかは、双子達には詳しくはわからない。
恋愛ごとにあれほど淡泊だった姉がどうしてあれほど悲しそうな表情を見せることになったのかも、わからない。
それでも、侯爵邸で共に過ごしたふた月ほどの間、自分たちの前で見せていた二人の姿が、全て嘘ではないのなら。
「俺たちは、侯爵様が本当に姉を好いているか、最初はとても信じられなかったです」
「でも、僕たちが侯爵家で過ごすうちに見た二人は、信頼を寄せあう、いい関係には見えました。
本当の夫婦でなかったと聞いた今、それを踏まえて振り返って考えても、姉のあの笑顔が嘘だったようには……思えません」
「だから今、まだ俺たちも混乱してるし、とても残念に思ってます」
「侯爵様や、オーブリー様と過ごした日々がすごく楽しかった分、こうなってしまったことが本当に、残念です」
残念だという、それが今の双子の本心だった。
疑いながらも始めた居候生活は、今思えば思ったより楽しくて、予想外に暖かな日々だった。
それが幻でもう戻らないのが、彼らはとても寂しかったのだ。
俯く侯爵の姿を見ているに忍びなくなって、これ以上話せることが無くなった双子が同時に応接椅子から立ち上がった。一礼して立ち去ろうとする彼らの背中を、顔を上げ立ち上がったミハイルが意を決して呼び止めた。
「フォルツは、学院を卒業して、バーリエ領に戻るのだったな?」
「……はい」
「御父上と、リンゴの販路拡大のための手伝いをする約束をしている。
春になったら、専門職等を連れ伺うつもりでいるから、そう伝えておいてもらいたい」
「………父の意向を、聞いておきます」
「ありがとう。
それからリントは、高等部の騎士科に進むと聞いた。卒業後は王立騎士団に入る予定なのか?」
「…それが第一希望ですが、無理ならどこかの貴族家の護衛騎士にという道もあるかなと」
「ならば………もしどこかの貴族家に行くつもりなら、リンデルトの騎士団をその候補に入れてくれないか。
侯爵夫人の護衛も、騎士団員の仕事の内だ。可能なら君に、戻って来た彼女の護衛を頼みたい」
戻って来た彼女、というのが誰を差すのか考えて、双子はそのそっくりな顔を見合わせ、同時に眉を顰めた。
「………なんで? まだ諦めてないとでも?」
「契約は終わったと、姉は申しておりましたが?」
「契約など、関係ない。
私は、彼女を絶対に諦めない」
自分の口から出た言葉が、ミハイル自身に返ってきた。
悲嘆と動揺はしていても、迷いなく心にあった決意があらためてミハイルの中に刻まれた。
「リンデルト騎士団に入れば、大好きな姉上の傍にずっといられるぞ?リント」
「そこまでシスコンじゃねぇし……」
まだ弱弱しさが残るが、いつもの調子でミハイルが揶揄うのに、リントが口をとがらせる。
二人の遣り取りにほっとしながらも、フォルツは少し考えてからミハイルに告げた。
「姉の居場所は、本当に僕たちもはっきりとは知らされていません。
身を寄せている方から、侯爵家からの問い合わせがあっても姉の居場所は伏せておくようにと厳しく言われていますので」
「……自力で探せということだな」
「もしくは、姉の心の整理がつくまで待てということかと」
「……心の整理など、つけさせない。見つけてみせる」
諦めない。
絶対に諦めない。
彼女を、オーロラを、諦めない。
繰り返し念じて、決意を誓いに変えた。
そうしてようやく、いつものミハイル・リンデルトを取り戻すことができた。
彼の表情が変わったのを見て、双子は顔を見合わせ苦笑した。
「なんか、姉さんやばい人に捕まったなぁとは思ってたけど、その印象にも間違いはなかったみたいだな」
「酷い言い草だな、リント。
でも、何と言われても構わない」
「侯爵様、姉を、ちゃんと大切にしてくださいますか?」
フォルツが問い、笑いを引っ込めたリントも真っ直ぐにミハイルを見据えた。
「……ああ、誓おう」
双子の翡翠の瞳を交互に見ながら、胸に手を当ててミハイルが誓う。
一礼し、今度こそ部屋を出ていった双子を見送り、ミハイルはすぐさま侯爵邸へと取って返した。
学院からオーロラは何らかの方法で外へ出た。これは確実だ。
学院から敷地外へ出ることができるのは正門のみ。裏門は存在するが、その日裏門から外へ出た人間がいないのは学院から正式に回答が来ている。
そして、正門にはリンデルト家の騎士二人が張り付いて、その出入りを見ていた。
学院から出るのは徒歩か馬車。乗り合い馬車は学院の敷地外に停留所があるから、馬車ならば貴族の馬車だ。
さすがのリンデルト侯爵家お抱え騎士でも門を通る馬車の中までは確認できはしない。だが、貴族の馬車ならば、なんらかの紋章が刻まれていたはず。
手掛かりは、騎士たちの記憶の中にあるはずだ。
ミハイルは侯爵家に戻るとすぐ、オーロラに付けていた護衛の騎士二人を呼び、覚えている限りの情報を聞き出すことにした。二人が見かけた馬車のうちのどれかに、オーロラが乗っていたのに違いないと信じて。
しんと静まり返った侯爵夫人の私室の中、ミハイルはひとり、手の中の小さな箱を見つめていた。
東海に行く前に、王都内の宝石店に依頼していた品で、帰港後すぐに受け取って持ち帰ったもの。
ルシアン・フェアノスティ王太子が王太子妃と将来を誓った際に、その約束の証にと耳飾りの片方ずつを再会の時まで肌身離さず身に着け続けたという逸話があり、婚約者や夫婦の間で同じように耳飾りを分け合って付けるというのが流行した。
指輪はもうあるので、それ以外の装飾品を贈るなら何がいいかを叔母に相談したら勧められたのが耳飾りだった。
彼女の、青にも緑にも見えるあの美しい瞳に限りなく近い発色の石を選んでしつらえた、本当に特別なもの。
リンデルトの青が乗ってればいいだろうとそれらしく見える意匠で選んだだけの指輪でも、契約を持ちかけたあの日に用意していた碧眼というだけで選んだよくある宝石がついた装飾品でもなく、彼女のためだけに作った特別な品だ。
時間が経ち、オーロラの不在を知ったときにこみ上げた様々な負の感情はだんだん引いていき、今、ミハイルの中に一番強く残っているのは————
「君に、会いたい」
声にした気持ちと一緒に、雫が一つ手の中の箱に落ちて跳ねた。
ぎゅっともう一度箱を握りしめたミハイルの耳に、扉を叩く音が飛び込んできた。
「旦那様!わかりました!
オーロラ様が乗り込んだと思われる、貴族家の馬車が……!」
マシューの声に弾かれたように顔を上げ、ミハイルは大事な品を握りしめたまま立ち上がって扉へ向かった。




