味気ない食卓お断り
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大富豪の邸宅にある食卓というと、「いったい何人が並んで食事できるんだ?」というような長いテーブルを想像するかもしれない。
だがリンデルト侯爵家本邸にあるそれは、意外にも、端と端に座った者同士でも普通の声量で充分会話ができる程度の大きさである。邸全体の規模から考えると誠に慎ましやかに見えるが、王都に暮らすリンデルト家の家族だけで使うのだからこの位が普通に丁度いい。
今でこそ事業を多数構える大金持ちの貴族というイメージが大きくなってしまったリンデルト家だが、もともとは、東の勇ブレーリオ東方辺境伯家とともに東海の荒くれ者共から国を守ってきた武門の家系。彼等の中には、質実剛健で無駄を嫌う合理主義が、今もしっかり根付いている。
現当主ミハイルが侯爵位を継ぎ、先代が夫人と共に領地に下ってから約10年。現在王都に暮らしているのは当主と騎士団勤めの次男の二人だけになった。その彼らもそれぞれの仕事で忙しい日々を送るようになると、揃って食卓に着くことはめっきり減ってしまった。そもそもの話、いくら仲のいい兄弟でも大人になった男二人が毎日食卓で顔を合わせたとしてもそれほど会話が弾むわけもないのだから、それは自然な流れであった。
だがここ最近は、急遽決まった当主の婚姻に伴う様々な変化により、侯爵邸の食事風景はずいぶん様変わりした。
若き侯爵とその新妻、騎士団の勤務が非番の時よく顔を出すようになった侯爵家次男、そして訳あって同居している侯爵夫人の双子の弟たち。彼らの集う食卓は、侯爵家の兄弟が幼かった頃よりも賑やかなものになっていた―――はずであった。
今現在、侯爵家次男オーブリー・リンデルトは、食卓の両端へと交互に視線を遣りながら、味のしない食べ物をただ黙々と口に運んでいた。向かいに並んで座っている双子の少年たちも、たぶん気持ちは同じだと思われる。
原因は、彼らの左と右の席に向かいあって座っている、侯爵夫妻の醸し出す重たい空気のせいである。
ほんの数日前まで、前日の他愛の無い出来事を和気あいあいと話す、実に楽しげな朝食風景だったはずだ。だが、おそらく家族旅行の話をした日あたりから様子が変わってしまった。
その日、オーブリーが騎士団に行って邸にいない間に、海外の貴族家に嫁いだちょっと変わり者の叔母が突然訪ねて来たらしい。どうもそのあたりに原因があるのではと有能な次男坊は推察している。
兄夫婦は、特に言い争いをしているわけでも、互いを避けているわけでもないのだが、かといって言葉を交わすことも目を合わせることもない。ただ互いの様子をそっと窺っている気配だけはあるという、場に巻き込まれた側の弟たちにすると大変迷惑な状況である。
これは大変よろしくない、とオーブリーは思う。一日の始まりの大切な食事の席が、こんな重い空気の中であっていいはずがない。
ましてや、あとひと月もしたら皆で旅行に行く計画だと兄は言っていたではないか。新婚夫婦に挟まれた旅行もちょっとどうかと思うが、こんな重い空気をまき散らす二人と一緒に逃げ場のない飛行艇の旅なんてもっと御免である。
なんとかしないとなぁと思っていた矢先、オーブリーは執事たちが話をしているのを聞いた。
「たった今、今日の商談に同席するはずだったナーハ語の通訳が、体調を崩して急に来れなくなったと連絡が入りました」
「マルンス語ならまだしも、ナーハ語とは……今から代わりの通訳など、間に合うかどうか……」
そこでオーブリーは思いついた。
「義姉上に行ってもらったらどうかな??」
それを聞いたマシューが名案だと言って兄夫婦の元へと急いで歩いていくのを見送りながら、オーブリーはやれやれこれでどうにか仲直りのきっかけになるだろう、と内心胸を撫で下ろしていた。
喧嘩(かどうかも不明)の理由は分からないが、二人きりになれば有能な兄の事、きっと今の状況をよい方向へと変えてくれるに違いない。兄だって、義姉との仲がぎくしゃくしたままでいいと思っているはずがないのだから。
まさかこの数刻後、朝食のあの雰囲気以上に重い空気が二人の間に立ち込めようとは、その時のオーブリーは思いもしなかったのである。
* * *
マシューから報告を受け、ミハイルとも相談の上、オーロラは急遽通訳の代役をすることになった。
侯爵夫人の華美なドレスで同行するわけにもいかず、新しく衣装を準備する暇もなかったため、侯爵邸に連れてこられる直前に着ていた、家庭教師のための着古したドレスを急遽引っ張り出して着ることになった。
「なんだか、すごく懐かしく感じるな、それ」
「ほんのふた月前のことなんですけどね」
久しぶりに話した気がするミハイルにそう答えながら、仕事着姿のオーロラはぎこちなく笑顔を作った。
『余計な心配をするな』と言われたあの日以来、なんだかミハイルとの間に溝ができてしまって、オーロラはそれをどう埋めればいいのか、そもそも埋めるべきなのかもわからないまま過ごしていた。
一緒の馬車に乗り出かけるのは正直気が重かったが、仕事だと割り切って頑張ることにしたのだ。
そうして出かけた商談場所のリンデルト家別邸で、事件は起こった。
商談自体は順調に進み、初通訳の仕事も山場を越えてオーロラがほっとした時だった。
同席していたナーハ島の大氏族の首長だという人物が、末席にいた若い女性を呼び寄せ、自分の末娘だとミハイルに紹介した。
その時オーロラは、ミハイルのすぐ傍で彼らのナーハ語を通訳していたのだが、交渉内容に関係のないその流れを若干訝しく感じていた。それに、首長の娘がミハイルに向ける目が、ある種の熱を帯びているのにも不快感を覚えた。ただ、オーロラは侯爵夫人ではなく通訳としてその場にいたため、感情は一旦押し込め、首長がする娘の話を通訳してミハイルに伝えていた。
ところがである。紹介された娘がミハイルと握手をするために手を差し伸べ、白い手袋をした彼の手に触れたその途端、突然彼女が昏倒して倒れたのだ。
一体何事かと、商談会場になっていた応接室内は一時騒然となった。
だが、首長らが早口でナーハ語で話している内容をオーロラが聞き取ったところ、驚きの事態が発覚した。なんと、首長は娘の手に細工を施した指輪を嵌めさせ、その手で直接触れることでミハイルに呪術を掛けようしたのだ。幸い、彼は防毒・防呪、しかもそれらを反射する効果まである手袋(いつも身に着けているものに新機能を付与した改良版)をしていたので、呪術の効果が仕掛けた側の娘に返ったというわけだ。
彼らがナーハ語で言っていた内容をすぐさまオーロラがミハイルたちに伝え、護衛の騎士たちにより首長らナーハの氏族一行は拘束され、別室にて詳しく尋問が行われた。
仕込まれた呪術は媚薬と睡眠薬が混ざったような効果をもたらす独特のものだったらしい。ミハイルが呪術に掛かったところで娘に介抱させ、既成事実をでっちあげ侯爵家に娘を入れようという古典的な手段を取ろうとしたようだが、手袋の反射効果により呪術が返された挙句、睡眠効果が強く現れてしまい娘が昏倒してしまったというのが事の顛末だった。彼ら自身が連れて来た呪術師により、娘は解呪措置を受け回復したが、失敗に終わったとはいえ王国内で国の侯爵に危害を加えようとしたのではさすがに看過できない。かといって騎士団に引き渡したのでは国際問題に発展する。
そこで、ナーハ島の氏族からの多額の損害賠償を引き出す示談交渉がその場で行われ、成立した。当然、その日に行った商談はなかったことになった。
何らかの薬も同時に使われたかもしれないと、念のために別邸で衣服もすべて着替えてから再び馬車に乗り込んだミハイルたちだったが、その車内には朝食時の比ではないほどの重い空気が漂っていた。
こういったことが起きるから自衛のために常に手袋を身に着けているのだとミハイルから聞いてはいたが、目の前で実際に懸念していた事態が起きてしまい、オーロラはショックを隠し切れなかった。
今回はそれほど深刻な効果の呪術ではなかったが、これがもしも、死をもたらすような毒だったら?もしも手袋の効果に打ち勝ってしまうほどの強い呪詛だったら?
考え出したら、震えが止まらなくなった。
ミハイルの方も、安易な解決策に飛びついて、オーロラを交渉の場に同席させたことをひどく後悔していた。
立場上、様々な危険に巻き込まれることを想定し、護衛の騎士も連れているし、護身術に長けたトレバンを常に横に置いて、よほどでない限り一人きりで誰かと会うことはないようにしている。その場で出るお茶や食事にはできるだけ手は付けず、口にするとしてもトレバンの鑑定魔法で問題がないもののみにしているのだ。
それだけ徹底して自衛していても、こうした事態はごくたまに起きてしまうのだが、よりによってオーロラが同席している時に起こるとは。もっと事前調査をするべきだったと、ミハイルは悔やんでも悔やみきれない。
「オーロラ、大丈夫か……?」
「私は、大丈夫です。ミハイルこそ……」
「私は、慣れているから」
そう聞いて、オーロラの表情がさらに曇る。
慰めようとして口にした”慣れている”という言葉が、余計にオーロラの不安を煽ってしまったのに気が付いたミハイルだが、言ってしまったことはもう戻せない。
なんとか気分を変えようと考えて、提案した。
「商談が終わったら話して驚かせようと思っていたのだが、叔母上が以前訳した本を一式、手配してくれたんだ。ここから遠くない、外国書籍を多く扱っている商会にあるそうだから、立ち寄ってみよう。
他にも何か気になる本が見つかるかもしれないぞ」
ミハイルの気遣いにオーロラもなんとか沈んだ気持ちを持ち直そうと頷いた。
程なくして、馬車は目的地の商会の前に停まった。
ミハイルが差し出してくれた手に掴まり馬車を降りると、通りに居合わせた通行人から感嘆の声が漏れた。念のためにと用意していた二人の衣装は、リンデルト家の青い瞳の色を取り入れ、夫妻でデザインを揃えたものだったから余計に人目を引いたのだろう。そういえば、出会って以降こんな風に王都内へと二人で外出したのは、挨拶回りの旅の過程で通過した以外初めてだったとオーロラは思い至り、周囲から寄せられる視線になんだか気恥ずかしくなった。
ミハイルに促され商会の建物へと向かおうとしたときだった。
「オーロラ…?」
通行人の人垣の中からオーロラの名を呼ぶ声が聞こえた。
声がする方にオーロラが視線を遣ると、見覚えがある男女がこちらを見て目を見開いていた。
「ナイゼル?(と、その婚約者さん?)」
人垣を分けて進み出て来た人物は、かつてオーロラの婚約者であった幼馴染と、例の泥棒猫事件のときの令嬢だった。もう婚姻は済ませたろうから、子爵家の若夫妻ということになるのだろうか。
「久しぶりだね、オーロラ。
まさか王都で会うことになるなんて。元気だったかい?」
ずんずんと近づいてきた彼らにざわりと警戒心が湧いて、オーロラの身体が無意識に強張った。
困惑しながら何と答えたものかと考えているオーロラをミハイルが引き寄せ、庇うようにして彼らとの間に自らを割り込ませてきた。オーロラを腕の中に抱くミハイルの前には、執事兼護衛のトレバンと、さらに数名の護衛騎士が立ちはだかり、子爵家の若い二人が侯爵夫妻にそれ以上接近するのを阻んだ。
お下がりくださいという騎士の声と周りのざわめき、それから「何をするんだ」と抗議する幼馴染の声を、オーロラはミハイルの腕に庇われながら聞いた。
「ナイゼル・ショア子爵令息、で間違いないかな?」
すぐ間近で、ミハイルの今まで聞いたことのないような冷たい声音がした。
その声の圧に押されたナイゼルは、今更だが相手が高位貴族であることを察して「左様でございます」と答えていた。
「私は、リンデルト侯爵家当主、ミハイル・リンデルト。オーロラの夫だ。
君も貴族なら、目上の者への礼節は学んだであろう。
君とオーロラは幼馴染であったかもしれないが、彼女は今は私の妻で、リンデルト侯爵夫人だ。
彼女の気持ちを慮り今回の行動については不問にするが、今後は気安く声を掛けていい相手ではないことを理解したまえ」
「……はい、肝に、銘じます。
大変申し訳ございませんでした…」
ナイゼルと目を合わすこともないまま、オーロラはミハイルに半ば抱えられるようにして先ほど降りたばかりの馬車に再び乗り込んだ。
「今日はもう戻ろう。本は、トレバンに受け取ってくるように頼むから」
「はい……」
そうしてまた一段と重い空気を乗せ、馬車が動き出した。馬の蹄の音を聴きながらしばらく無言のまま馬車に揺られていた二人だったが、先に沈黙を破ったのはミハイルだった。
「すまなかった、オーロラ」
「……ミハイルが謝るようなことなんて、何もないでしょう?」
「安易に君を交渉の場に連れ出したりして、危険な目に遭わせた。
驚いたし、怖かっただろう」
「私は………そこにいただけですから」
「いや………怖い思いをさせすまなかった。
が、ナーハ語に堪能な君がいてくれたからいち早く事態の把握ができた。
感謝している」
「…………」
「それに、先ほどの、彼への私の態度も謝らねばならない。
不快感から、子供のように意地の悪い言い方をしてしまった。すまない」
「あんなことの後ですもの、いつもより過剰な反応になるのも仕方ないですよ」
別邸での事件の影響で侯爵夫妻の警護が通常より厳しくなるのは仕方ないことだ。オーロラ自身も急に現れ近づいてくるかつての婚約者に警戒心が湧いたから。
そこまで考えたところで、ん?となった。
「意地悪、だったんですか?先ほどの。
警戒されたのではなく?」
「警戒も、もちろんした。
さっきあんなことがあったばかりだ、これ以上君を危険な目に遭わせる訳にはいかないからな。
それに、あの二人との間にあったという、以前の事件の顛末も聞いていたし。
………だがそれ以上に、幼馴染の彼が君に親しげに近づいてくるのが、不快だったんだ」
少し目を伏せ、呟くようにそう告白したミハイルに、オーロラは驚きを隠せなかった。
以前、婚約解消直後にあった珍事のことを話してしまったから心配もしてくれたのだろう。だがそれ以上にナイゼルがオーロラに近づくのが不快だったと、彼は言った。
その感情は、先ほど別邸で、頬を薔薇色に染めながらミハイルを見ていた娘に対しオーロラが感じたのと同種のものだろうか?
だとしたら―――
「おあいこですね」
「………あいこ?」
「私もさっき、別邸で若くて可愛い娘さんがミハイルに近づくの、嫌でしたもの」
「………そう、だったのか?
ならば、あの場ではっきり言ってくれて構わなかったのに」
「私はあの場に通訳として居たんですよ?」
「それでも君は………」
そこで一度言葉を切り、ミハイルは白い手袋を外しながら座席を降り、オーロラの前に跪いた。
奇しくも、前回気まずくなる要因になった話をした時と同じ体勢になったなと思いながら、ミハイルは慎重に言葉を選んだ。
「君は、ただ一人の私の妻だ。オーロラ」
「ミハイル……」
「君がもし少しでも不快に思うことがあったなら、いつ、どんなときでも、そう言って構わない。
それに、君が妻としていてくれる間は、私は君以外の女性に触れることも、心を寄せることもしない。
君だけが、私の妻なのだから」
手袋を外した手で直接触れて、彼女の両の手を掬い上げ、ミハイルはゆっくりと告げた。
光を湛えた深い青の瞳が、真っ直ぐににオーロラを見つめていた。
(そんなこと言ってたら、正式な伴侶なんて見つからないですよ?)
そう思いはしたが、オーロラがそれを口にすることはなかった。
ここ数日のミハイルとの気まずい雰囲気は、オーロラにとってもつらいものがあった。
契約直後の関係に戻っただけだともいえるが、一度は心理的距離が近づいてしまったことと、オーロラ自身がその近さを好意的に受け止めていたのもあり、再び開いてしまった心の距離はなかなか精神的にくるものがあった。
今こうして、もう一度ミハイルが歩み寄りを見せてくれている状況で、また突き放すような言い方はしたくなかったのだ。
オーロラがこくりと頷いて笑むと、ミハイルも優しい笑顔を浮かべた。触れた手にミハイルがキスを落とす。久しぶりに近くなった距離が嬉しくて、また二人で微笑み合った。
すぐ目の前で自分の手を取り跪いている彼に、オーロラはまるでプロポーズされたみたいだと今更ながらにドキドキしてきた。
頬に朱が差してしまうのを誤魔化そうと、隣に座りますかという言葉といつもの悪態とが混ざって―――
「お膝に、座りますか?」
―――盛大に間違えた。
「………………は?」
「ち、違う!間違いました!
お話しするなら床ではなく隣に座りますか? です!
お膝には座りません!!!」
間違いを必死で訂正するオーロラの姿に、ミハイルは一瞬ぽかんとし、次にぶわっと赤くなり、その次にぶはっと噴き出して笑った。
「ふっ…はははっ」
「ほんとに間違えたんです!
ああ、私ったらどうしてこんな時に………っ
もう笑わないでください……!」
「くく……あはははははは」
「ミハイル!」
床に座ってオーロラの手を握ったまま、その手に額を付けるようにして大笑いした後、ミハイルは目尻の涙を指でぬぐいながらオーロラの隣の席へと滑り込むように座った。
「君は本当に、くくっ、最高だな……!」
「う……もう勘弁してくださいっ」
耳も首元も真っ赤になって顔を覆っているオーロラの肩にミハイルが頬を付けて寄り添うように凭れ掛かった。
この距離に覚えがある、と伝わってくるオーロラの体温と香りに一瞬朧げな記憶が過る。ミハイルはその記憶がいつのものだったか辿ろうとしたが、それよりも今そばにいてくれるオーロラに集中しようと思った。
オーロラの肩に頭を凭れ掛からせたまま、まだまだ赤みが引かない彼女の耳元に唇を寄せて囁いた。
「とても魅力的な提案だがもうすぐ本邸に着いてしまうから、膝に乗ってもらうのは次の機会にするよ」
「っ!……乗りませんからっっ」
「ははっ」
ミハイルにより握られていたままのオーロラの手は、侯爵邸に着くまでの間、放されることはなかった。
その次の日から。
「ミハイル、今日の会談もまた同じ別邸ですか?」
「ちょっと場所を変えようと思っている。
昨日届いた本はどうだった?」
「とっても面白いです!!」
「そうか、よかったな」
和やかに会話する朝の食卓が戻り、弟たちはほっと胸を撫で下ろしたのだった。




