どうかその人の支えに
それから数日、オーロラはミハイルやマシューとともに執務室に籠り、次から次へと手渡される東方の諸言語の資料を辞書を片手にどんどん翻訳していくという作業に没頭した。
“未翻訳”と書かれた書類箱が目の前にどん!と置かれた時は侯爵夫人にあるまじき音が口から漏れたが、腹を括って1件目に手をつけて以降はただひたすら書類に向き合い続けた。
東方の諸言語で書かれた物語や伝記、伝承本などは手に入るものを片っ端から読んできたオーロラだが、契約や事業案の書類に使われる専門用語は辞書と、過去の翻訳資料を参考にしないとさすがに厳しかった。だが、生来の読書好きも手伝って夢中で作業を進めるのはさほど苦ではなかった。作業の途中で交わすミハイルとの議論や雑談も思いのほか楽しい。
「お嬢様、そろそろ休憩なさっては?」
「あ、もうこんな時間…?」
昔から文字を追っていると時間を忘れるのはもともとよくあったが、横からメイが軽食を差し出してくれるまで食事の時間を過ぎているのに気づかなかった。
どうやらそれは隣の机で書類を睨んでいるミハイルも同じらしく、マシューがサンドイッチの皿を手に困り果てているのが見えた。
「ミハイル」
「なん……んむっ!?」
声に顔を上げたミハイルの口元にオーロラがサンドイッチを一つ押し付けたのだ。
彼は少し恨めし気に睨んでくるが、オーロラはそんな顔したって怖くないですよと逆に笑い返した。
「食べないと、身体が保ちません。
空腹だと集中力も落ちますし、仕事の精度も下がります」
「………」
書類とペンから手は離さず、それでも観念したようにミハイルは大人しくオーロラの手で差し出されたサンドイッチを食べた。もぐもぐと整った口元が動くのを、やれやれという思いでマシューと一緒に見つめる。やっぱり腹は減っていたようだ。
小さな頃、オーロラ以上に本の虫だったフォルツの口に、同じように食べ物を放り込んでやった覚えがあったなとなんだか懐かしくなった。ちなみにオーロラ自身は本に夢中になっても食事に遅れたことはないと両親が言っていた。
(食いしん坊だったから、と付け加えられてムッとしたけど事実だから言い返せなかったのよね)
咀嚼しこくんと飲み込んだところまで見届けて、あとは自分でとオーロラが言おうとしたら、ミハイルが無言でぱかりと口を開けた。食べさせろ、ということらしい。
「えぇー?自分で食べてくださいよー」
「手が離せん」
「……お坊ちゃまは甘えん坊?」
「なんとでも。次はローストビーフのやつがいい」
「はいはい」
結局最後の一つまで、オーロラが親鳥のようにサンドイッチをミハイルの口に運ぶことになった。
挨拶回りの旅行出発以降ずっと、同じ空間にいることに慣れて以前よりずっと気安くなった二人を、マシューがお茶の準備をしながら微笑ましく見守っていた。
「さすがにお茶は自分で飲んでくださいよ!?」
「ん」
すっかり空になった皿を安堵した表情のマシューに渡し、餌付けするみたいでちょっと楽しかったと思うのは内緒にしておこうと思いながら、オーロラも自分の翻訳作業に戻ったのだった。
そんなことがありつつもさらに数日を過ごし、山のようだった”未翻訳”の書箱がついに空になった。
「終わったぁぁ……」
「お疲れ」
歓喜の声とともに伸びをしたオーロラを、目頭を揉みながらミハイルが労う。
こちらもだいぶ疲れがたまっている。ミハイルは王都帰還からずっと働きづめだ、無理もない。
「これ、どんな契約内容だったろうか………マシュー、これの中身を開示してくれ」
「かしこまりました」
ミハイルが書類の間で見つけた記録結晶片をマシューに差し出した。それを受け取ったマシューが、手首にはめていたブレスレットの宝石部を翳した。すると、結晶片が光り、中に封じられた契約の内容がぱっと表示された。
「わっ、なんです? それ」
なんとなく、二人のやりとりが気になって見ていたオーロラがマシューの傍まできて手首を指差して訊いた。
「これは、『開示鍵』という魔道具です。これについた魔晶石には、契約内容の開示を行うための鑑定術式が入っています。もちろん内容を書き換えたりすることは出来ませんが、契約条件などの情報を契約者以外でもこうして確認することができます」
「へえ〜」
「秘匿性が高く開示・閲覧に制限を設けたい契約内容もありますので、記録結晶ごとに秘匿レベルが設定されております。開示鍵側にも開示可能な秘匿レベルが定められていますが、わたくしの持つこれは王家が使うような最高機密レベルを除き、ほぼ全ての結晶片の情報を開示可能です」
「わぁ、すごいです…ね……?」
素直に感嘆の声を上げるオーロラに向け、顔色を変えたミハイルがマシューの背後に回り込んで身体の前で大きくバツを作りながらブンブンと首を横に振って何かをアピールしていた。何?と一瞬怪訝な表情になりかけたオーロラだったが、ミハイルが声に出さずに口の動きだけで伝えている言葉を読み取りハッとなった。
―――ゆ、び、わ!
「!」
そう、オーロラの指に嵌っているのはただの婚姻の証ではなく、契約結婚の内容が入った動かぬ証拠である。記録結晶と指輪の結びつけ作業はミハイルが自ら行ったという。指輪自体はちゃんとしたものを選んで用意したようだから見た目で契約書とバレる心配はないはず。だが、指輪に込められている契約内容が表示されてしまったら話が変わってくる。最高機密レベルの石は流石のミハイルでも使ってないだろうから、もしあのブレスレットを指輪に翳して開示術式を起動されたら、2人の最大の秘密、契約婚に関する内容がバーンと表示されてしまう。
(了解ですミハイル!!)
「そんな便利な魔道具があるなんて驚きました。
分かり易い説明、ありがとう、マシュー」
「いえいえ。
仕事がら、私どもは多数の契約用結晶を管理しなければなりませんからね。まあ、この様に紙ばかりの執務室ではあまり出番はありませんが」
「そ、それもそうですねー」
マシューの背中越しにオーロラがさりげなく指輪を庇いつつ自席に戻り資料を片付け始めたのを見て、ミハイルは声を抑えながら深い溜め息を漏らした。
「旦那様?」
「っ! どうした?マシュー」
「旦那様も、今日のお仕事はここまでに。
少しお休みくださいませ、あまり顔色がよくございません」
「そうだな、わかった……」
マシューに言われ、ミハイルはバレてはなさそうだとホッとしながら執務机を離れ、ソファに倒れ込むように座った。
メイがお茶とお菓子を用意してくれていたのにつられて、オーロラも隣に腰を下ろす。
二人並んでミルクの入ったお茶と甘いお菓子に癒されながら、同時に「はぁあ~」とため息をついた。
「お疲れ様です、ミハイル」
「ああ、君もな」
「こんなに辞書片手に文字を書いたり読んだりしたの、学院高等部の卒業試験以来です……」
マシューが実務机の資料を整理して一旦退室し、続いてメイも出て行ったのを見て、オーロラは急いでミハイルに尋ねた。
「あんなヤバいものをマシューが身に着けてるなんて!早く教えといてくださいよっ」
「悪い……普段使ってるところをあんまり見ないから、さっき記録結晶の開示を頼むまで存在自体を忘れていた」
「紙至上主義ですもんね、ミハイルの執務室」
「………悪かったな」
「ミハイルは大丈夫なんです?常にマシューといっしょでしょう?」
「私はいつもだいたい手袋をしてるだろう?」
「そうですね、そういえば」
「これは魔法遮断素材を編み込んで作ってある。
だからマシューのアレも手袋の下の指輪には効かない」
「へぇ、特殊な手袋だったんですね」
「特別製だ。
あと追加機能で、防毒とか、防呪」
「じゅって……呪い!?」
「握手したりとか、手を触れるタイミングで良からぬものを仕込まれることもあるんだよ。
だからたいていいつも手袋をつけている」
「えぇえ………」
「怖いだろ?」
ミハイルは面白がるかのように軽く言っているが、オーロラからしたらただならぬ内容である。
大きな事業をいくつも抱えるリンデルト侯爵家の当主ともなれば、商談相手から悪意を向けられることもあるし、社交に出れば女性たちから過剰な愛情を向けられることもある、ということだろうか。
あらためて、オーロラが生きてきた世界とは違う場所に、ミハイルは身を置き続けてきたのだと実感した。
(ちょっと脅かしすぎたか?)
青褪めているオーロラを気遣い、ミハイルが話題を変えた。
「それにしても君は本当にすごいな、こんなに早く円滑に翻訳作業が進むなんて思ってもみなかった。
東方諸島の言語、それもこれほどの多種な言語を、どこで覚えたんだ?」
「きっかけは、マーガレット先生ですよ。
将来何かの役に立つって、マルンス語で書かれた本をプレゼントしてくださって」
「マルンス語の?南大陸の言語とかの方が、学ぶ外国語としては一般的じゃないか?」
「南大陸の方は、北大陸の共通語を半分公用語にしている国が多くて、わざわざ南大陸の言語を覚えなくても割と通じるんだそうです。
それにバーリエ領も、元婚約者の子爵領も北方ですので、南大陸よりはまだ東の方からくる商人と関わる可能性の方が高いだろうって」
「……なるほどな」
「それで、手始めにと本を2冊ほどくださったんですが」
「恋愛小説、とか、昔話とかか?」
「いえ、東の海を知り尽くした男っていう航海日誌を盛り込んだ伝記ものと、ご当地料理のレシピ本でした」
「え……女児に対して何だそのチョイス」
「ね。でも、当時の私の好奇心にクリーンヒットしまして。
その二冊のうちでも特に伝記ものの方が」
「くくっ……実に君らしいな」
「五月蠅いですよ。
東の海の島々のことがたくさん書いてあって、とっても興味深かったのです。
それで、東方から入って来る訳本を片っ端から読んで、ついには原本にも手を出すように」
「なるほどな。そのワイスナー夫人の慧眼のおかげで、今現在私は大助かりだが」
「お役に立てているなら、何よりです」
給金分は難しいかもしれない(そもそも一日金貨10枚が破格すぎる)が、少しは役に立てているかなと、オーロラはほっとする。隣を窺うとミハイルが大きな欠伸をしていた。
「お部屋に戻って横になってこられては?」
「いや…まだやることが残っている。
それに……」
「……?」
言葉の途切れたミハイルを訝しく思っていると、肩にゆっくりと重みが掛かってきた。
うつら、とした目のミハイルが凭れ掛かって来たのだ。
「ミハイル?」
「……少し眠る」
「やっぱりお部屋に……」
「ここがいい」
「なら、私はどきますから、せめて横になってください」
「…このままがいい」
呟くように言った後すぐ、すぅすぅと寝息が聞こえてきた。
(本当にぎりぎりだったのね)
マシューが取り出してきた毛布をミハイルの身体に掛けながら、慈愛に満ちた目で見守っている。
頑張りすぎる主人を、いつもこの執事長は時には叱咤しながらも支え続けてきたのだろう。
「ありがとうございます、奥様」
「ほんと、私が持ってる知識が役に立ってよかったです。仕事を手伝うって言ったものの何ができるんだか不安だったので」
「翻訳の件ももちろんですが。
旦那様を選びこうして当家に嫁いできて下さったこと、本当に感謝しております」
「いや、選んだのは………」
選んだのはミハイルで、あくまで契約結婚の相手に最適だからという理由です、とは言えない。
「このように、他のどなたかに甘える旦那様を見たのは、初めてでございます」
「あ……」
7歳まで、ミハイルは両親と離れ使用人たちに囲まれて育ったという。
それでも大事にしてもらったのだと、本人は言っていたのに。
「マシューやトレバンたちのことも、ミハイルはずっと頼りにしているでしょう?」
「私共はあくまで使用人でございますので。
それに、信頼を寄せるのと甘えるのとは、違いますでしょう?」
「信頼と、甘え……」
「相手の能力を認め、信じ任せ共に何かを成すのが信頼なら、自らの労力を惜しみ他者に任せる、もしくは相手の許容できる範囲を超えていると分かっていつつも自分の要求のために相手に寄りかかるのが甘えではないでしょうか。旦那様は労力を惜しむということはもちろんなさいませんが、もう一方の甘えも全くなさったことがありません。
旦那様は幼き頃からすでに、一人で立つことに慣れてしまっておいででした。
使用人個々の能力もよく理解し使いこなし、時には無理をおっしゃることはございましたが、あくまで信頼の域を超えないもの。幼なき子が当たり前にするように、我々に甘えを見せられたことは、一度もございませんでした。
成長するに従って甘えることが許されない場面も増えていくもの。ですが時には弱さを見せ、甘えることも、人には必要かと存じます。
旦那様が甘えることができる方、支えてくれる方がいてくださるならと、ずっと願っておりました。
ですから奥様、幼き頃よりミハイル様にお仕えしてきた身として、この方と共に歩んでくださることに心から感謝を申し上げます」
優しく微笑む老執事長に何と答えたらいいのか、オーロラは咄嗟に言葉を見つけられなかった。
「とはいえそのままでは奥様がおつらいでしょう。
旦那様を寝室までお連れするよう、トレバンを呼んでまいります」
ぱたんと静かに閉まった執務室の扉を見つめ、オーロラはため息をつく。
確かに今は物理的に支えているけれど、ただの枕だし。
婚姻は事実だけれど、本当の夫婦ではないし。
「なんて言えば、よかったのかしらね……」
思わず呟いた声に、隣のミハイルがぴくりと反応を見せた。
閉じていた瞼を押し上げ、まだ眠そうな青が、彷徨う視界の中にオーロラを見つけてふわりと微笑んだ。
「え……」
毛布の中から伸びてきた彼の手がオーロラの頬にそっと触れた次の瞬間、唇に吐息と、柔らかな感触が掠めた。
「どこにもいかない……君がいる、ここがいい……」
眠りに落ちる直前の会話の続きだろうか。
オーロラの頬から離れた彼の手がぱたりと毛布の上に落ち、再び肩に重みがかかって静かな寝息が聞こえてきた。
ミハイルのプラチナブロンドが頬に触れるのを感じながら、頭が真っ白になったオーロラは今何が起きたのか理解できずにいた。