前侯爵夫人の願いと現侯爵夫人の決意(前)
微妙に長くなったので半分に分けました。
その後、席を用意したとのことで、城館の見事な庭園を眺めながらのお茶会となった。
ミハイル曰く、前侯爵夫妻は女の子が欲しかったそうで、兄弟のお嫁さんが来てくれる日をずっと心待ちにしていたそうだ。
「いいねぇ夫人、娘ができたみたいだ」
「ほんとねぇ、大切にしてあげなきゃね、閣下」
拍子抜けするほどの歓迎っぷりである。
オーロラは『期間限定契約妻なんですごめんなさい』と内心ずっと手を合わせて平謝りしていた。
やがて、侯爵領の仕事に行かなければならなくなった前侯爵閣下が後ろ髪を引かれながら退席なさり、残った三人は引き続きお茶とお菓子を楽しむことになった。
「“リンデルトの青”ね」
「……え?」
美しい顔に上機嫌な笑みを浮かべた夫人が唐突に言ったのはオーロラには初耳な単語だった。
「婚姻の証のその指輪にある石のことよ。
リンデルト家に生まれた者は例外なく、夏空のような澄んだ青の瞳を持つの。
我が領地で産出する青水晶のうちでその瞳の色に特に酷似している物を“リンデルトの青”と呼び区別しているの。
私の指輪にも、ほら」
見れば夫人が見せてくれた左手には、確かに同じ色味の青水晶が光っていた。
実はオーロラは以前、指輪を見たらこれが契約書だとバレたりしないかと不安になりミハイルに訊いたことがある。ミハイルが言うには、記録結晶片と契約完了時の形態である物品の間で結び付け術式を付与することで形態変化する記録結晶片が出来上がるらしい。そして、この指輪型契約書の術式を付与したのはミハイル自身なのでこれが契約書だということは自分達以外誰も知らないと言っていた。魔晶石とそれから作る記録結晶などの魔道具はリンデルトのいわば特産品で、さらに魔法術式を石に刻む加工技術はお家芸なのだそうだ。
指輪自体は特別なものをあらかじめ用意しておいたから、これが婚姻の証だという点はまず疑われないと自慢げに言っていたのは、指輪の台座に据えられた石が理由のひとつだったのだろう。
(契約書を婚姻の証にだなんて適当が過ぎると思ったけど、これって普通にちゃんと特別な指輪じゃない?
ていうかこれ、もしかしたら本当の『約束の令嬢』のために用意したもの?)
隣のミハイルは何も言わず涼しい顔でお茶を飲んでいる。契約書だからというだけじゃなく、これはますます失くさないよう気をつけなければとオーロラは心に誓いながら、自分もひと口お茶を含んだ。
「所作が本当に美しいわ、オーロラさん」
「ありがとうございます。
厳しく教えてくださった恩師に感謝したいと思います」
「差し支えなければ、どなたに習ったのか聞いても?」
「マーガレット・ワイスナー前子爵夫人です」
ビクッ!
ずっと無言のまま優雅に茶を飲んでいたミハイルの肩が揺れた。
同時に、前侯爵夫人が『まぁ!』と両手を合わせながら感嘆の声を上げた。
「ワイスナー前子爵夫人なら、当家でもお世話になっていたのよ!
ミハイルと、ミハイルが学院入りするまではオーブリーもいっしょにね」
「え? マナー講師として、ですか?」
「それとダンスのレッスンね」
なんという偶然か。
オーロラとミハイルは同じご婦人に師事していたらしい。
マーガレット先生は、オーロラの母の知己だという初老の未亡人で、オーロラと、数年空けて双子たちもお世話になっていた。あらためて古い記憶を辿ってみたら、バーリエ領にやってくる前は王都の貴族家で教えていた、と言っていた気がする。
同じ人物から習ったのなら、リンデルト家の兄弟とダンスの息があれほど合ったのも頷けるというものだ。
「驚きました」
「ほんとねぇ、すごい偶然だわ」
嬉しそうな前侯爵夫人とは対照的に、ミハイルは少し憮然とした表情である。
怪訝そうなオーロラの視線に気づいたのか、前侯爵夫人はころころと笑う。
「侯爵家嫡男として、だーいぶしごかれたものねぇ、ミハイルは」
「………お世話になりましたし、ワイスナー夫人の教えは正直に申し上げて大変役立っています。
が、レッスン時のことはあまり思い出したくはありませんね」
「そこまで…?」
確かに、厳しい教えを施す先生だったが、ただただ厳しいというのではなくちゃんとそうする理由が伝わってくる指導だった、と思うのだが。
女児相手と男児相手の指導は、違ったのかもしれない。
「言うなれば兄妹弟子だったのですね、私たち」
「……そのようだな」
「(事前調査をしたのに)ミハイルもご存知なかった?」
「ああ、それは知らなかった」
「……お兄様、とお呼びしても?」
「……やめなさい」
珍しく揶揄う側になって楽しいオーロラに、ミハイルはさらに憮然とする。だが、オーロラの楽しそうな顔につられ、すぐにまた困ったように笑った。
その様子を見た前侯爵夫人も「仲良しねぇ」とにっこり笑う。
母親の生暖かい視線に耐え切れなくなり、ミハイルが席を立った。
「……父上のところに行って参ります」
(ちょっと揶揄いすぎた?)
そそくさと去っていくミハイルの後ろ姿を見送りながらオーロラは思ったが、困り笑いを浮かべたミハイルの顔を思い出し、まあ大丈夫かなと思い直した。
ミハイルの姿が見えなくなったのを見計らったように、前侯爵夫人がオーロラに尋ねた。
「もうオーブリーには会ったのかしら?」
「はい。あの若さで第四師団副師団長をお務めだとか。すごいですね」
「そうね………では、ミハイルがオーブリーに爵位を譲りたいと思っていることも?」
「……はい、伺っています」
「そう………」
さやさやと緩い風が吹いて、茶器の上に落ちた木々の影が揺れる。
じっと手許のお茶に風が薄く紋を作るのを見ていたレイチェル夫人が、自嘲するような笑みを浮かべながら重い口を開いた。
「あの子が、ミハイルが自分を過小評価するのは、たぶん私達のせいなのよ」
「と、おっしゃいますと……?」
「オーブリーはね、小さい頃ものすごく体が弱かったの」
「えっ…!? オーブリー様が、ですか??」
「ね? 今のオーブリーを知ってる人はだぁれも信じないわ。
でも本当なの。
すぐ熱を出すし、食も細くて痩せっぽちで……主治医には10歳までは生きられないだろうって、言われてたの。
藁にもすがる思いで、伝手を使って高位の魔法使い様に診ていただいて、自身の魔力によって魔力酔いを起こしているとわかったの。
強すぎる自分の魔力に身体の方が対応できてないって。
それからは、魔力を抑える護符を持たせたり、魔力を制御する方法を訓練させたりしたおかげで、みるみる健康になったのだけどね。
でも、どうしても私は領地でオーブリーにつきっきりになることが多かったからミハイルは閣下と一緒に王都の邸宅にいて、家庭教師や乳母に育てられたの。その閣下すら、週末にはリンデルト領に帰ることもあって……
ミハイルは幼い頃から本当に優秀で、何でもできる子だった。とてもとても、いい子だったのよ。
でも、あの子が聞き分けがいい子だったのをいいことに、オーブリーと二つしか違わないあの子を、私達は一人で王都に。ミハイルからしたら自分は家族の輪の中には入れないと、思ったこともあったでしょうね」
「………」
そんなことないですよ、とは言えなかった。
オーロラ自身も八つ離れた双子の姉で、彼らが生まれた当時は似たような悩みを抱えた覚えがあったからだ。
「やがて健康になったオーブリーが、魔法騎士としての能力が非常に高いということが分かってね。
わが侯爵家に魔法騎士の素養があるものが生まれたと、周囲はとても喜んだ。
ミハイルの方も、学院の中等部、高等部で常に首席をキープするほどの優秀さで。何とも頼もしい跡取りよと、閣下もよく社交の場で周囲の貴族家ご当主方からも世辞抜きで誉めていただいたりしたみたい。
二人とも本当に、私たちの自慢の息子だった。
だから閣下が『このまま早々に息子に爵位を渡して事業を継承し、自分は隠居して領地経営に専念しよう』とお決めになった時も、なんにも不安はなかった。ミハイルは学院時代から閣下の仕事を傍で見て学んで、着実に当主への道を歩んでいたからなんにも問題はないって。
でも、ミハイルが高等部を卒業と同時に爵位を継承、そしてオーブリーが騎士科高等部に進学するというそのタイミングで、あの子が突然言い出したの。
自分は弟より先に生まれたというだけだから、父が引退したいというならオーブリーが成人するまでは爵位は預かるが彼が成人したら弟に爵位を譲るつもりだ、と。
もう本当に、閣下にも私にも青天の霹靂で、なにがどうなってそんな考えになったのか理解できなかった。
後になって聞いたら、ミハイルは学院に入学するより前には大きくなったら独り立ちしようと思っていたようなの。天才肌の弟に比べ自分は凡庸だから、当主はオーブリーが引き継ぎ自分は傍で弟を支えよう、でももしも弟の邪魔になるようなら侯爵家を出ようって。
最初は騎士になることも考えたけど、それには力量が足りないとめきめき実力をつける弟を見て思ったらしいわ。そしてその頃から、ミハイルは剣の稽古をそれまでのように熱心にはしなくなって、代わりに学問の方に力を入れるようになった」
「侯爵家を継ぐために?」
「正確には、後々、オーブリーに侯爵位を渡すまでの中継ぎになるために」
「そんな……!」
「もちろん私も閣下も、ミハイルにそんなことをさせようなんて思ってはいないし、言ったことだってない。
オーブリー本人だってそう、大好きな兄様の座を奪って侯爵になろうなんてこれっぽっちも思っていない。
ミハイルは優秀よ。継ぐべくして侯爵位を継いだの。
あの子自身は自分は凡庸だって思っているみたいだけど、そんなことはない。
若くして引き継いだ侯爵の仕事を立派に、いえそれ以上に成果を出していっているんだもの」
「はい」
「今思えば、ミハイルのこと、ちゃんと褒めたり、出した成果を認めたりっていう大切な過程を、私たち親がおざなりにしてしまっていた気がするわ。
生まれたてのオーブリーの脆弱さがなかなかイメージから払拭できなくて、オーブリーが何かできるたび大げさに褒めてたのも否定できないし。
ミハイルが優秀だからって、最初からなんでもできたわけでも、あの子が努力をしていないわけでも、ないのにね。私たちが、自分に対してはさも出来て当たり前だと思っているような、そんな印象を子供心にミハイルは持っていたのかもしれないわ」
夫人の頬に、つぅ、と滑り落ちていく涙を見て、オーロラがそっとハンカチを差し出す。
ありがとう、と声を詰まらせるその姿に、オーロラもうっすらと涙が滲むのを感じた。
「不甲斐ない親で、本当にごめんなさい」
「そんなこと……ミハイルは今はちゃんと、ご両親のこともオーブリー様のことも、大切に思ってらっしゃいますよ?」
零れ落ちる涙をハンカチで受け止めながら、小さく嗚咽を漏らす夫人を、オーロラは立ち上がって背中をさすりながらただただ見守るしかなかった。
しばらくの間、肩を震わせていた前侯爵夫人も、やがて少し落ち着きを取り戻しまだ潤んだままの瞳で傍に立つオーロラを見上げて微笑んだ。
「ありがとう、オーロラさん。
こんな風に、あの子の一番傍にいて、貴方はそのままで充分優秀だとあの子自身が思えるように、支えてあげてほしいの」
「お義母さま…」
「あの子を、ミハイルをお願いね」
そろそろ戻りましょうか、というレイチェル夫人の言葉で茶会はお開きになった。
メイのあとについて神妙な面持ちで割り当てられた客間に向かおうとして、木に背を預けて佇む人影を見つけた。
途中で席を立ったまま最後まで戻ってこなかった、ミハイルだった。