アップルパイと次の約束
バーリエ伯に促されて伯爵邸の裏庭へとついて行ったミハイルの目の前で、ドレスの裾を大きめの洗濯ばさみで軽く止めて梯子に登りリンゴを収穫する貴婦人、という信じられない事態が現在進行形で展開されていた。
伯爵邸までの道中で見かけた果樹園のリンゴの木は、人が手を伸ばせば収穫出来そうな位置に実がなるくらいの大きさだったが、ここにある木は2階ほどの高さまで成長した大木だ。
「最近はフォルツかリントが採ってくれてたから、オーロラは久しぶりだなぁ」
などとグリフィスが笑っているところを見ると、バーリエ家ではままあることのようだが初見の者にはなかなかインパクトがある光景である。
梯子の上に器用に腰掛けた状態で手を伸ばしてリンゴをもいでは下にいる使用人に声を掛けて投げ落とす、を繰り返すオーロラをしばし唖然として見た後、ミハイルは無言でつかつかと梯子の下まで歩み寄った。
「オーロラ」
「あら、ミハイル。男同士のお話は終わりましたか?」
「ん」
「ん?」
短い返事に、オーロラが次にもごうとしているリンゴから梯子の下へと視線を移すと、真剣な顔のミハイルが自分に向かって両手を広げているのが見えた。
「ん」
「へ?」
「降りておいで」
「え? でもまだ……」
「降りなさい。」
彼の有無を言わさぬ様子に諦めたオーロラが、一段一段ゆっくりと梯子を降りる。
最後の数段は、両手を広げて待っていたミハイルに支えられるようにして抱き上げられ、地面に降ろされた。
「慣れていますから、大丈夫ですよ?」
「君が大丈夫でも、周りはそうじゃない。
後ろの彼女たちの顔色を見てみなさい」
「あ………」
振り返ると、侯爵家から連れてきたメイと、傍仕えとして幼少から世話をしてくれていた伯爵家使用人のノーラが、まだあわあわしながらこちらを見ていた。
オーロラが梯子に上がっている時からずっと、そんなふうだったのだろう。
「ごめんなさい……」
「まったく…」
怒られてしゅんとしたオーロラの手に、バサリと上着が渡された。
「え…」
見れば、上着を脱いだミハイルが、シャツのカフスボタンを外して腕まくりをしている。
「ミハイル!? まさか、登られるおつもりですか!?」
「君が登るよりは危なっかしくない」
「え、でもっっ」
オーロラが止めるのも聞かず、ミハイルは高価そうな革靴のままでとんとんと梯子を登って行ってしまった。
それを見ていたノーラ他伯爵家の使用人は、青ざめるを通り越して顔色が白くなるほど驚いている。
(私が登ってる時よりよっぽど心理的負担が大きそうなんだけど!?)
文句を言おうとするオーロラのことなど知らんぷりで、ミハイルが一つ目のリンゴをもぎ取った。
投げてください、という意味を込めて両手を広げると、ミハイルの手を離れたリンゴがふわりと浮き上がり、ゆっくりと高度を下げてからぽすんとオーロラの手の中に納まった。
よく見れば、次にもいだリンゴを手放す前にミハイルが小声で何か唱えている。すると手を放してもリンゴは空中に留まり、またふわふわとひとりでにオーロラのいる方に降りてきた。
「風魔法? も、使えるのですか??」
「ん? ああ。
水魔法と同じで大した力はないが、リンゴを浮かべるくらいなら造作もない」
「わぁお」
ふわりふわりと列を成してリンゴが次々降りてくるのを見上げながら、それでも十分すごいとオーロラは感心する。
あっという間に手の届く範囲のリンゴを採り終え、ミハイルは梯子を降りて来た。
「もっと採るか?」
「いえ、もうこのくらいで。
これだけあればアップルパイには充分すぎるくらいです」
「オーロラが作ると聞いたんだが」
「はい。久々に作ってみようかなと。
王都では、ここまで新鮮なリンゴは高くて手が出なかったので。
ほんとはパイ皮も自分で作るんですが、今回は時間がないので料理長が用意してくれてるものを使います」
「ふむ」
リンゴのいっぱい入った籠をミハイルが抱え、呼吸するのを思い出したノーラ達ともども厨房へと移動する。
リンゴを洗って水分をふき取っている間もミハイルはオーロラと一緒に自然に作業に加わっていた。
そこまではまぁギリギリ流れに任せていたのだが、手を洗ったミハイルが包丁を片手に持って
「皮を剥けばいいか?」
と聞いてきた時は、さすがのオーロラも慌てて止めた。
「ミハイル!? そこまでしなくていいですよ!
あちらでお茶でも飲んで待っていてください」
「? リンゴの皮くらい剥けるぞ?」
厨房スタッフの心の安寧のためにもやめてあげてと言ったのだが、相手はミハイル、止まる様子はない。
それに、意外にも慣れた手つきでするするとリンゴの皮が剥かれていくので、オーロラは心底驚いた。
「包丁、お上手ですね……」
「学院時代は寮に入っていたからな、一通りはできる、
一応料理の経験もあるが、味は保証しない」
「驚きました……
それに、王都に豪邸を構えた侯爵家のご長男が、寮生活だったのですか?」
「社会勉強の一環だと言われて、中等部の三年間は寮に入っていた。
同じく社会勉強と称し、身分を隠した状態でトレバンと二人、王都と南都を往復する商隊に放り込まれたこともあったな」
「ス、スパルタ侯爵家……」
「高等部に入ってからは侯爵家の仕事を覚えるために本邸に戻り、父の執務を手伝いながら学院に通っていた」
「ミハイルは少年時代から何でも出来たのですね」
「そんなことはない」
会話をしながらもミハイルにより次々リンゴが剥かれていく。それをオーロラが受け取って、芯を取り適当な大きさに刻んでいった。
貴族の女性は、趣味で料理をする人もいるが、基本厨房には入らない。
嗜みとしてお茶を淹れる練習はするが、たいていは自分ではやらず、使用人に任せるものだ。
高位貴族ならなおさらで、さらに男性に至っては全く厨房に足を踏み入れないのが普通だ。
バーリエ伯爵家は父も母も平気で厨房に立つが、それは例外中の例外でここがド田舎だから。
―――というのがオーロラの中での貴族に対する認識だったのだが。
「なんだか、バーリエ領に来てからミハイルの意外な一面ばかり見てる気がします」
「惚れ直したろう?」
「エエ、ハイ、ソウデスネー」
「心が籠っていないな」
切ったリンゴを鍋に入れ、砂糖と一緒に甘く煮込んでフィリングを作る。
用意しておいてもらったパイ皮を延ばし、型に敷き込んでフィリングを詰め、余った生地で上面を飾り卵黄を塗る。
オーブンに入れて焼くことしばし―――
「うん、旨い」
「オーロラのアップルパイ、久しぶりね。
美味しいわ」
出来上がったアップルパイを食べながら皆でお茶を飲む。
いつも笑顔溢れるバーリエ伯爵邸だが、そこにミハイルがいる、というこの状況に、オーロラはあらためて不思議な感覚を覚えていた。
オーロラ自ら皿に取り分けて手渡したアップルパイを口に含み、ミハイルが目を瞠る。
「ほんとに、すごく旨い」
「ミハイルがたくさん手伝ってくださったおかげです」
舌が肥えているであろうミハイルの口にも合ったようでオーロラはほっとする。
採れたて万歳、である。
「新鮮なリンゴなのもいいのか?
酸味と甘みがちょうどいい」
「リンゴはバーリエ領の特産品ですから」
「王都では販売していないのですか? バーリエ伯」
「そうですね、馬車での輸送中に傷んでしまうものも結構あり、どうしても高価になってしまいがちでなかなか販路は拡大しませんね。
天候により数年前のように大変な不作になることもままありますし……」
「輸送については、揺れの少ない大容量の馬車を侯爵家傘下の事業で作っているから提供できる。
天候に収穫量が左右されにくい工夫ができないか、農業関係の専門職に意見を聞いてみよう」
「それは、たいへんありがたいです」
「あとはそうだな、作付け面積を増やして収量を確保して、それから―――――」
ミハイルと父が楽しそうに事業の話をしているのも、なんだか嬉しかった。
「楽しい時間をありがとうございました」
料理長渾身の夕食を終え、二人は伯爵邸を辞去することになった。
泊っていってくださればよろしいのに、という伯爵夫妻に、ミハイルは微笑んで謝罪する。
「そうしたいのは山々なのですが、次の宿泊予定地に今日中に着いておかないと、日程に支障がでるのです。今回は急ぎ日程を空けて両家を回るつもりですので」
本当の事をいえば日程的には二泊するくらいは調整可能だった。
だが、宿泊施設なら別部屋を手配するが、伯爵家に留まるとなると当然部屋は夫婦で一部屋を宛がわれるはず。それは二人とも流石にゆっくり眠れる気がしない。それに、宿泊して滞在時間が延びれば延びるほどいろいろとボロが出る可能性が高まりそうで、日程的に厳しく宿泊はお断りしますと事前に連絡を入れておいたのだ。
「次に来るときは是非、お言葉に甘えたいと思います。
義父上、義母上」
そう言われ、伯爵夫妻は感極まったように破顔した。
「こんなあばら家ですが、いつでも、気兼ねなくいらしてください」
「娘を、どうかよろしくお願いいたします」
バーリエ伯爵家一同に見送られ、侯爵家一行は次の宿泊予定地を目指して急ぎ馬車を走らせた。
急いでいても揺れの少ない侯爵家の馬車に、この技術があればリンゴを傷めずに王都に運べるのかなとオーロラは思う。領地のみんなの生活が、今より少しでも楽になればと。
「ありがとうございました、ミハイル」
「なにがだ?」
「なにもかも、いろいろです。
両親も、嬉しそうでしたし」
「いい、ご両親だったな。
君や双子がまっすぐな性格に育っているのも、納得だ」
「照れくさいですが、嬉しいお言葉です」
「次は、双子の休みに四人で立ち寄るとしよう」
ミハイルの口から自然な口調で『次』と言われ、オーロラは少し戸惑った。
契約結婚した妻の実家への訪問に、社交辞令ではなく『次』があるのかと。
「ああでも、オーブリーも付いて来ると言いそうだから五人になるかもしれん。あまり多人数だと迷惑だろうか。
冬には雪で道が埋まるのか?」
「そこまで北国では、ないですよ」
考え事のせいでぎこちない返事になったオーロラを、ミハイルが怪訝な顔をして覗き込んだ。
「オーロラ? どうかしたか?
やはり泊まらせていただけばよかったか?」
「あっ、いえ……」
なんでもないです、と慌てて否定しながらも、戸惑いを見せるオーロラにミハイルがまた次を口にする。
「今度はもっと余裕をもって訪れることにしよう」
「…そうですね」
(たぶん実家を離れるのを寂しがっていると思われ、慰めるために出た約束だろう、そうに違いない)
土産にと包んでくれたアップルパイが入った箱をきゅっと持ちながら、オーロラはミハイルの真意を図りかねていた。