【コミカライズ】婚約破棄されたから、悪役令息と契約結婚して悪女となりました
「ねえ、見て彼女。ほら、例の……」
「イングリッドさん、だったかしら?」
王宮の廊下の片隅を歩いていると、ヒソヒソ話をする声が耳に入ってきた。
「何でも下級貴族をいじめていたとか……」
「殿下に暴言を吐いたそうよ」
「見かけによらず、ひどい腹黒なんですってねぇ」
尾ひれの付いた噂で皆は盛り上がっている。私は「それは誤解です!」と言おうとした。けれど声が出ない。
そもそもここで言い返せるような性格だったら、今頃こんなことにはなっていなかったかもしれない。
私は数日前、舞踏会の最中に婚約者の王子から婚約破棄を言い渡された。
――お前のような地味で目立たなくてウジウジした奴は、我が妻にふさわしくない!
それが王子の言い分だった。その後の彼は、色々な女性の尻を追いかける生活を送っているらしい。要するに、私は彼の好みじゃなかったってことなんだろう。
王子はあんなことを仕出かしておいて、大したお咎めもなかったようだ。そういうところだけはちゃっかりしている。
結果的にひどい目に遭ったのは私だけ。満座の注目を集めながら婚約の解消を突きつけられた私は、それ以降、皆から同情と好奇の目で見られるようになっていたんだから。
「気の毒に。あれでは、次の婚約者探しも相当難航するでしょう」
そんなことありません、すぐにもっと素敵な男性を見つけてみせます!
……なんて啖呵を切れるなら苦労はしない。昔から少し内気で引っ込み思案の私は、どんな噂話にも心の中で言い返すのが精一杯だった。
このまま一生物笑いの種にされるのかと思うと心が塞がっていくけれど、だからといって何か行動を起こせるような気概は持ち合わせていなかったんだ。
奇跡でも起きない限りこの状況は変えられない。私はそんなふうに諦めていた。
****
しかし、その『奇跡』が起きてしまった。何と、私と結婚したいという人が現われたのだ。
皆から白い目を向けられている私を持て余していたお父様は大喜びだった。二つ返事で了承し、私は一番いいドレスを着せられ、さっそく相手のところへ挨拶に行かされる。
けれど、訪問先で私が聞いたのは、予想もしなかった一言だった。
「初めに言っておこう、イングリッド。この結婚は取引だ」
応接室の中で、私は求婚者と初めて顔を合わせていた。
彼の名前はゲオルクさん。私の家と同格の貴族の令息だ。とは言っても、彼の家とは大した付き合いがあったわけじゃないから、その人となりは全く知らなかったのだけれど。
「あの、『取引』とは?」
言われたことの意味が理解できず、私はポカンとする。ゲオルクさんは「僕と契約しろということだ」と返した。
「僕は結婚という形で君を保護する。変な噂から守ってやろう。その代わり、君も僕にそれ相応の対価を払って欲しい」
ゲオルクさんは理知的に淡々と話を進める。何だか商談をしている気分だ。私は膝の上で指をソワソワと動かしながら、「対価?」と聞き返す。
「でも……私、差し上げられるようなものなんて何も……。私と結婚しても、ゲオルクさんには利益なんてないと思うのですが……」
「ある。ありすぎるくらいにある」
ゲオルクさんは身を乗り出した。情熱的な目で見つめられ、ちょっとドキリとしてしまう。
「君と結婚したら、僕は悪役令嬢の最も近しい人になれるじゃないか!」
ゲオルクさんは感動で声を震わせていた。
しかし、私はそれに同調できない。何を言われたのかまったく分からなかった。悪役令嬢の最も近しい人……?
「端的に言えば、僕と結婚する代わりに悪役令嬢になってくれということだな」
私が不可解そうな顔をしていたからなのか、ゲオルクさんは丁寧に説明してくれた。それでも湧き出てくる疑問は止まらない。「ええと……」と、私は視線をさ迷わせる。
「その……具体的には何をすれば……?」
「安心しろ、難しいことは何もない。ただ、自信満々に堂々と振る舞えばいいだけだ」
「じ、自信満々に堂々と……」
ハードル高過ぎじゃないですか? 少なくとも内気な私にとっては。
「その、ゲオルクさん、私……」
私はうつむきながらモソモソと声を出した。
契約の名の下に結婚するとか、悪役令嬢になれだとか、意味不明です。そんな変なお話はお受けできません。
……というのは心の声で、実際の私はというと、やっぱり何も言うことはできなかった。
婚約は破棄されるわ、おかしな噂は立つわ、この性格のせいで損ばかりだ。挙げ句、こうして変な人に目を付けられてしまった。
「……悔しくないのか、イングリッド」
あまりのふがいなさに泣きそうになる私の肩に、ゲオルクさんが手を置いてくる。思いもかけず温かな体温に、私は少しだけ慰められた気分になって顔を上げた。
「王子に好き勝手されて、皆からはあることないことを言われて……。何とも思わないのか?」
「そ、それは……思わないわけじゃ……」
「それなら立ち上がれ、イングリッド」
もう下を向かせまいとでも言うかのように、ゲオルクさんが私の顎を持ち上げた。
「大丈夫だ、僕がついてる。一緒に強く美しい悪役令嬢を目指そう? そうすれば、もう誰も君を笑えなくなる。生まれ変わった君を見せて、ギャフンと言わせることさえできるはずだ」
ゲオルクさんの表情はとても真剣だった。私はそこから垣間見える情熱に心を動かされずにはいられない。触れられているところが熱くて堪らなかった。
「や、やります……」
ゲオルクさんの熱意に突き動かされ、気が付けば私は彼の腕をしっかりと握っていた。自分でも驚くような心境の変化だ。
確かにこの人は変わり者だけど、そんなに悪い人じゃないと直感したせいかもしれない。
「私……悪役令嬢になります」
私だって今のままは嫌だ。この状況を変えたい。そのためには、ゲオルクさんの言うように立ち上がらないといけないんだろう。
内気な私だって、少しくらいは根性を見せないといけない時があるのかもしれなかった。きっと、その時が今なんだ。
「よろしく頼むぞ、未来の悪役令嬢イングリッド」
私の覚悟を感じ取ったかのように、ゲオルクさんは満足そうな笑みを浮かべていた。
****
ゲオルクさんと婚約を結んだ私は、式を挙げるまでの一ヶ月間、彼の屋敷へ通い詰めることになった。花嫁修業のためだ。でも、それは普通の修業とは全く違った内容だった。
「ほら、もっとキビキビと歩くんだ! 背筋を伸ばして前を向いて! 肩はそびやかす!」
大広間にゲオルクさんの指導の声が響く。私は言われた通りに振る舞おうと懸命に努力しながら、壁際で腕を組んでいる婚約者に困惑の眼差しを送った。
「あの……何故私は歩き方のレッスンを受けているのでしょう……?」
「もちろん、君から漂ってくるいじめられっ子のオーラを消すためだ。悪役令嬢は歩く姿さえ偉そうでなくてはならないのに! こんなことでは、勝負が始まる前から負けているも同然だ」
続いて、高笑いの練習と、相手の欠点をネチネチと責めていく特訓に入る。休む間もないくらいのスパルタだ。
覚悟していたとはいえ中々ハードな内容に、私はほとんどついていけなかった。内気な私が自信満々の女性に変わるなんて、一朝一夕には難しいのだろう。
けれど、ゲオルクさんは大して失望したふうでもない。
「ここはステップゼロから始めるべきか……。人は制服の通りの人間になると言うし……」
そんなことをブツブツと呟きながら、ゲオルクさんは私を衣裳部屋に連れ込む。そして、派手なドレスを次々に渡してきた。
「も、もしかして、これを着るんですか?」
私は目を見開いた。
「すごい露出度……。胸とか脚とか丸見えですよ? 私、スタイルには自信が……」
「体型は関係ない。こういうのは着た者勝ちだ。それに君は悪役令嬢なんだ。だったら寄せて上げても許される。それかパッドでも入れておけ」
「どういう理屈なんですか、それ……」
「理屈も捏ねた者勝ちだ。さあ、早く脱げ!」
「ひっ! け、けだものっ!」
理解が追いつかないままに服を引ん剥かれそうになり、私は思わずゲオルクさんを突き飛ばしてしまった。床に尻もちをついた彼を見てまっ青になる。
「ご、ごめんなさ……」
「素晴らしい! なんと見事な転ばせ方だ!」
謝ろうとした私は、ゲオルクさんが目を輝かせているのに気付いて唖然となった。
「……怒ってないんですか?」
「どうして怒る必要があるんだ。悪役令嬢に反抗心は必須だ」
……変な人。
初対面からずっと思っていたけど、やっぱりこの人はどこかズレている。悪役令嬢に対するこの執着心は一体何なのだろう。
「……本当にお好きなんですね」
「悪役令嬢が、か? 当然だ。ほら、これが僕のバイブルだ」
そう言ってゲオルクさんは懐から一冊の本を取り出した。
「あ……それ、知ってますよ。有名な児童書ですよね」
私も小さい頃に読んだ記憶がある。多分、今でも家の本棚に置いてあるだろう。
「平民の女の子が偶然出会った王子に恋をするお話……でしたっけ?」
「その通り。僕は幼い頃、この話に出てくる王子の婚約者――主人公のライバルの令嬢に心を動かされたんだ」
ゲオルクさんはうっとりと本の表紙を撫でる。
「何度主人公の妨害に失敗しても諦めない芯の強さ! 姑息な手を使うことも厭わない思い切りの良さ! 物語上では悪役だが、僕は彼女に激しく憧れ、こんなふうになりたいと熱望したんだ」
だが一つ問題が、とゲオルクさんは顔に影を落とす。
「僕は男! 逆立ちしたって悪役『令嬢』にはなれない! たとえ父を形ばかりの当主の座に追いやって自分が実質的に家のトップに君臨しようが、あらゆる貴族の弱みを握って手駒にしようが、ただの『悪役』になるだけ! なんて虚しいんだ……」
……この人、そんなとんでもないことをしてたの? もうそれじゃあ、悪役令嬢じゃなくても立派な悪役令息ですよ……。
「僕は自分が悪役令嬢になることは断腸の思いで諦めた。その代わり、どこかにいるであろう理想の悪役令嬢とお近づきになりたいと思ったんだ。……だが、滅多に会えないものなんだな。しかし、そこに君が現われた」
ゲオルクさんは私を熱のこもった目で見つめた。
「公の場での婚約破棄! この話を聞いた時にピンときた。君こそが僕の求めていた悪役令嬢なのだ、と。なにせあの本の悪役令嬢も全く同じ目に遭っていたのだから。こんな偶然、他にないだろう?」
最大の謎が解けた気分だった。ゲオルクさんが私に求婚した理由が、今やっと分かった。
夕方になり、帰宅した私は本棚に向かう。手にした例の児童書から、ライバル令嬢が出てくるシーンを拾い読みした。
彼女のことは小さい頃は主人公をいじめる嫌な女の子としか思わなかったけど、今読み返してみたら、味のあるいい悪役だという見方も分かるような気がした。
ゲオルクさん、こんな素敵な人に私を重ねてくれていたなんて……。
胸が熱くなるのを感じる。
昔から内気だった私は、目立つのを好まなかった。そのためか、華々しい期待をされずに育ってきたんだ。
そんな環境にいたものだから、私はずっと自分のことをダメな奴だと思っていた。けれど、ゲオルクさんは私に可能性を見出してくれていたんだ。悪役令嬢に――強くて素敵な女性になれる可能性を。
誰かの期待に応えたい、とこんなに強く願ったのは初めてだ。ゲオルクさんのために頑張りたい、と。
その日の私は本を抱いて眠った。そうして見た夢の中で、私は例の悪役令嬢になっている。
翌朝の私は、これを夢の中だけの出来事にはしないと誓ったのだった。
****
次の日からも私は気合いを入れて悪役令嬢ヘの変身メニューをこなす。恥ずかしいのを我慢して派手なドレスを着て、猫背で歩くのも止めた。
私は決して物覚えのいい生徒ではなかったけれど、ゲオルクさんは見捨てないで付き合ってくれた。そして、少しでも悪役令嬢らしく振る舞えるようになると、手放しで褒めてくれる。私は彼に認めてもらおうと、ますます修業に熱を入れた。
厳しい特訓に精を出したお陰で、私は昔よりも少しだけ自信のある態度を取れるようになっていった。その努力が実ったのを実感したのは、ついにやってきた結婚式の後のことだった。
「イングリッド、君が悪役令嬢になるという契約で僕たちは結婚した」
夫婦になって迎える初めての夜。寝室へやって来て、ベッドに腰を落としたゲオルクさんがそう言った。
これから起こることへの緊張で体を固くしていた私は、まさか寝所でもこんな話題を持ち出されると思っていなかったので、少し意外に思ってしまう。
「君は今まで本当によく頑張ったと思う。君が変身していくところに立ち会えて光栄だ。だから見せてくれ、修業の成果を……」
ゲオルクさんが私に向かって手を伸ばしてくる。呆けていた私は急いで心の準備を整え、ギュッと目を瞑りながら掠れた声を出した。
「は、初めてなので、優しくお願いします……!」
カチコチになりながら私は寝間着を握りしめる。けれど、ゲオルクさんが触れてくる気配が一向に感じられない。何だか変だと思った私は、恐る恐る目を開けた。
そこにあったのは、ゲオルクさんのガッカリした顔だった。どうやら何か粗相をしてしまったらしいと悟り、私は焦る。
「イングリッド……しっかりしてくれ」
ゲオルクさんはふてくされたように腕組みした。
「悪役令嬢ならこういう時は、『汚い手で私に触らないでくださる?』と言うものだ。それなのに『優しくお願いします』とは……。まさか煽っているつもりだったのか?」
「い、いえ、そんなことは……! ええと……き、汚い手で……」
「待て」
慌てて取り繕おうとしたけれど、言い終わる前にゲオルクさんに制止されてしまった。
「イングリッド、これは最終テストみたいなものだ。ただのモノマネは禁止だ」
「そ、そんな……」
私は戸惑いを隠せない。
だって今までの私は、ゲオルクさんの指導の下に悪役令嬢になっていたんだ。言わば、彼の言われた通りに振る舞っていた状態だ。
それなのに、急に『マネをするな』と言われるなんて……。
「……イングリッド、僕は君を信じている」
困り果てていると、ゲオルクさんが励ましの言葉をかけてくれた。
「君は強い女性だ。文句一つ言わずに修業をこなす姿、素敵だった。あの物語の悪役令嬢のような頑張り屋だ。そんな人と出会えて本当によかったと心から思っている。……それなのに君が最終テストをパスできずに契約内容に違反して離婚なんて、僕は嫌だからな」
「ゲオルクさん……」
それって……契約なんかなくても、私と結婚したいってことなのでは?
そう気付くと、不思議と力がみなぎってきた。物語の悪役令嬢が執拗に主人公の妨害をしたのは、想い人と結ばれたかったからだ。つまり、恋が彼女に力を与えていたんだ。
だったら私も同じことができるはず。好きな人のために、最後の試練を乗り越えなければ!
体は自然と動いていた。ゲオルクさんに全体重をかけ、シーツの上に押し倒す。その頬をゆっくりと撫でた。
「ゲオルクさん、何か勘違いしてないですか?」
私は親指でゲオルクさんの唇の輪郭をなぞる。
「食べられるのはあなたの方ですよ?」
恐らく、あまりにも予測不能な展開だったのだろう。ゲオルクさんはうっすらと口を開けて硬直してしまった。
けれど、たちまちの内にその頬が桃色に染まる。目元が潤んで、肌もじっとりと汗ばんできたようだ。
「は、初めてなので、優しくお願いします……」
ものすごく乙女な反応に戸惑っていると、ゲオルクさんは先ほどの私と全く同じセリフを吐いた。
私は苦笑する。確かにこれは煽っていると思われても不思議はなかった。
****
私は王宮の廊下のど真ん中を、肩で風を切って歩いていた。その目が見据えているのは、若い女性の一団と、彼女たちに鼻の下を伸ばしている青年だ。
「もう、殿下ったら!」
「お上手なんですからぁ」
「いやいや、本当のことだ。お前たちは本当にうつく……ぐへっ」
わざと肩をぶつけてやると、青年は無様に床に転がった。マヌケな悲鳴も聞こえてくる。
「な、何だ貴様! 俺が誰か知って……」
起き上がろうとする青年の胸を、私は高いヒールのついた靴で思い切り踏みつけた。まさかの蛮行に、青年も辺りの女性たちも固まっている。
「もちろんよく知っていますよ、殿下」
私はニコリと笑ってみせた。
「元婚約者の顔ですもの。そう簡単には忘れませんよ」
「なっ……お前、イングリッドか!?」
青年――私の元婚約者の王子は目を丸くした。
それも当然の反応だろう。布地の少ないドレスに派手なメイク。そして何よりその堂々とした態度。どれも以前の私にはなかったものだ。
「一体どうしたんだ……」
王子はポカンとしつつも、その視線はしっかりと私の胸や脚に注がれている。
今私が着ているのは、胸元がばっさりとV字に開き、腰まで届きそうな深いスリットが入ったドレスだ。
こういう格好は彼の好みなんだろう。しかも、胸は特大のパッドで盛りまくってあるので、見かけ上はかなり大きく感じられるはずだ。
「もしかして、俺の気を引きたくて雰囲気を変えたのか?」
おめでたい王子は、早速締まりのない顔になる。なんて現金な人なんだろうと、私は心底呆れ返ってしまった。
「意外と可愛いところもあるじゃないか。ぐふふ……お前がどう変わったのか、もっとじっくり見てやらないとな……」
「あら、殿下ったら……」
私は艶のある笑みを浮かべ、誘惑するように体をくねらせた。王子の鼻の穴が膨らんでいく。
しかし次の瞬間には、私は笑顔を引っ込めていた。
「汚らわしい! 発情期の豚に触らせる肌なんてあるとお思いですか!?」
私は脚を撫で回そうとしていた王子の手のひらをヒールで踏みつけてやった。王子は情けない悲鳴を上げる。辺りにいた女性たちは、どうやらこれ以上ここに留まるのは得策ではないと判断して、そそくさと逃げていった。
「あいにくと、私はもう結婚してるんです。殿下なんかより何倍も素晴らしい方と。今日はちょっとした伝言があって来ました。あなたと離れられてせいせいしてると言いたかったんです」
「イングリッド、豚とのお別れは済んだか?」
近くの柱の陰から、待ってましたとばかりにゲオルクさんが登場した。私は夫の手を取って微笑む。
「帰りましょう、ゲオルクさん。汚いものをうっかり踏んでしまったので、靴が汚れました」
「それは大変だ。すぐに新しいものを用意させよう」
ゲオルクさんが私の腰を引き寄せた。それを見た王子は、私に踏まれた手を押さえながらヨタヨタと取り縋ろうとしてくる。
「お、おい、待てイングリッド。結婚していても愛人になら……」
「ごめんなさい、殿下。豚の言葉は分かりませんので」
迫ってくる王子から守るようにゲオルクさんが私を横抱きにする。私は彼の首筋に腕を絡ませた。
私が高笑いを飛ばすのと同時にゲオルクさんが駆け出す。追いかけてこようとした王子は、足がもつれてまたしても転んでしまった。
そんな私たち三人を、周りにいた貴族たちが何事だろうという目で見ている。けれど、完全にゲオルクさんと二人だけの世界に入っていた私には、そんなものは気にならない。
「格好よかったぞ、イングリッド」
ゲオルクさんが熱っぽい声で耳元に囁いてくる。
「流石は僕の悪役令嬢だ」
愛おしそうな声。私はそれに対し、「当然です」と不敵な笑顔で応じたのだった。