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ストーリー

作者: 佐藤瑞枝

 一般入試よりも一足早く行われる公募推薦入試は、毎年ユニークな学生がやってくる。美大ならなおさらだ。これまでも奇抜なファッションで派手なパフォーマンスを披露したり、自分の髪の毛で描いたという絵を持ってきた学生もいた。

「今年はどんな子が来ますかね」

 私が言うと、学部長の和田は首をひねった。

「あんまり個性が強すぎてもね」

「学部長の言う通りですよ。受験生はアーティストである前にまず学生ですから」

 江崎が言った。受験生に対する辛口なコメントで有名な教授だ。私たちは、用意された教室に並んで座り、やってくる学生の面接を次々とこなしていった。

 平千映美は、その日最後にやってきた学生だった。どこか古風な感じのする子で、提出する作品も持ち手のついたプラスチックケースではなく、風呂敷包みで持ってきていた。

「では、作品を見せてくれるかね」

 和田が言うと、千映美はしゃがんで風呂敷の結び目をほどいた。やわらかい布がめくれた瞬間、千映美がはっと息をのんだ。手が止まり、表情が曇る。

「どうしたのかね。早く作品を見せてくれないか」

 和田が言った。江崎は貧乏ゆすりをはじめ、イライラを隠せないでいる。千映美はおずおずとパネルを差し出した。

「これは」

 和田が顔をしかめた。明らかに未完成の作品だった。森や柵のある建物が描かれていたが、ぽっかりと穴があいたように白い部分が目立った。丁寧に描けているのに、もったいない。怒った江崎が顔を真っ赤にして叫んだ。

「君は我々を馬鹿にしに来たのか。こんな中途半端なもの。失格だよ、失格」

 千映美は首をふり、頭をかかえている。夕べまで必死に描いていたのだろう。けれど、絵を仕上げることができなかった。かわいそうに。未完成の作品を持って今日ここへ来るかどうかも相当迷ったはずだ。

「それで、君は、何を描いたんだね」

 和田が言った。退場するしかないと思っていたところにそんな話をふられたものだから、千映美は驚いた表情で顔を上げた。

「動物園の絵を描きました」

 千映美は言った。

「でも、終わらなかった。そういうことだね」

 和田は残念そうだった。未完成と言うこと以外、千映美の絵は文句なしにうまかった。色づかいも、筆の運びも、こまかいところまで丁寧に描けている。

「いいえ。夕べ確かに描き上げました。ここにはキリンがいたし、こっちにはペンギンも描きました。この一番広いエリアにはライオンがいまして」

「ほう」

 和田が言った。江崎はわなわなと唇を震わせている。

「でも、みんないなくなりました」

 そう言った千映美は凛としていて、冗談を言っているようには見えなかった。

「わたしが思うに」

 千映美が静かに話し始めた。


1.キリンの話

 キリンはサバンナの草原を夢見ていました。キリンは何不自由なく動物園で暮らしていましたが、ふとさびしさにおそわれる瞬間がありました。たとえば夕暮れ時、昆虫館のむこうに半分だけ見える夕日が沈むのを見ているとき、さびしさはやってきました。キリンはふるさとを思い出しているのでした。真っ赤に燃えるサバンナの夕日は、まるくて大きくて、生命を讃えているかのようです。けれど、いくら首を伸ばしたところで動物園の檻から祖国アフリカの草原は見えません。キリンは涙を流しました。

 飼育員は、キリンがどこか遠くを見るような目をして涙を浮かべている理由をわかっていました。なにしろキリンが子供の頃から世話をしているのです。飼育員は、キリンの願いをかなえてやりたいと思いました。ある晩のこと、飼育員は檻からキリンを出してやりました。星が降ってきそうな寒い冬の夜のことでした。

「さあ、お行き」

 飼育員に背中を押され、キリンはサバンナの草原を目指して走りました。飼育員と過ごした日々がキリンの頭の中をかけめぐりました。キリンが食べやすいようにアカシアの枝をそっと傾けてくれたことも、「きれいだ」と言って長い首を撫でてくれたことも。飼育員の顔を見てしまったらくじけてしまいそうで、キリンは飼育員を一度も振り返ることはありませんでした。


2.ペンギンの話

 ペンギンは南極に帰りたいと思っていました。なぜなら卵を産んだまま置いてきてしまったからです。夫はたくましくて面倒見のよいペンギンですから、卵をちゃんとあたためてくれるはずだし、ヒョウアザラシがおそってきても体をはって卵を守ってくれるでしょう。ペンギンが残してきた赤ん坊は、もうとっくに生まれて、よちよち歩きをはじめているかもしれません。

 自分の産んだ子に会えないというのは、言葉で言い尽くせないほどせつなくて悲しいことです。ペンギンが産んだ卵は、それは大きくて立派な卵でしたので、夫に似て強くてがまん強い子が生まれてくるにちがいありません。ああ、母親を知らずに大人になるなんて、どんなにさびしい思いをすることでしょう。ペンギンの胸はつぶれそうでした。ひとめでいいから我が子に会いたい。自分がお母さんだと伝えたい。ペンギンは、南極とつながっている道を探していました。

 南極から来たのだから、動物園のどこかに南極とつながっている場所があるはずです。岩の後ろをのぞいたり、池の底にもぐって目をこらしたり、ペンギンは必死で探しました。そしてとうとう池の中に小さな穴を見つけたのです。この穴こそ南極の海につながっているにちがいありません。ペンギンは思い切って穴に飛び込みました。あとには池の水面がキラキラと光ってゆれていました。


3.ライオンの話

 ライオンは動物園で一番の人気者でした。王者の丘とよばれているライオンの飼育エリアには毎日人だかりができ、ライオンがあくびをしただけで大きな歓声があがりました。 

 自分は王者なのだから、王者らしくしなければならないとライオンは思っていました。ライオンは、どんなときも気高く凛々しくあるために、立ち居振る舞いには大変気をつけていました。たてがみをなびかせ、体の筋肉が美しく見えるようゆったりと体をゆらしながら歩きました。風邪をひいても決してだらしなく寝そべった姿をお客さんの前に見せませんでした。

 ところがある日、王者の丘にやってきたカラスは、ライオンに言ったのです。

「まったく世間を知らないっていうのはおそろしいことだね。ずいぶん気取っているようだけど、所詮あんたは動物園のライオンだ。本物の王者は、アフリカにいるライオンのことだよ。もっともあんたなんか手も足も出ないだろうけどね」

 怒ったライオンはカラスに飛びかかりましたが、カラスはいとも簡単に羽を広げ、逃げて行ってしまいました。その日から、ライオンはおかしくなりました。暗く沈んだ表情のままぐったりしていたかと思うと、いきなり荒れ狂ったように大声で吠え、お客さんを怖がらせました。おなかの底からこみあげてくる熱い怒りの塊は、ライオンを苦しめました。いつか祖国アフリカの王者になる。ライオンはそう心に決めていました。

 満月の夜のことです。ライオンは王者の丘に立ち、クォーン、クォーンと声をあげて鳴いていました。月がスポットライトのように降り注ぎ、ライオンの身体は黄金に輝いて見えました。その時、ライオンの身体がふわりと浮かび上がりました。

 気づいたときには、ライオンは広いアフリカの大地に寝そべっていました。


 そう話すと、千映美はていねいにお辞儀をし、面接会場を出ていった。

「興味深い話だったな」

 和田がうなった。

「作品ができなかった言い訳ですよ。質が悪い」

 江崎はふんぞりかえっている。面接試験がすべて終わり、私は受験生から預かった作品を第三アトリエに保管するように言われ、まだ学校に残っていた油画科の学生を呼んだ。台車で運び、二人で作品をひとつずつ並べていく。作品の数だけ面接をしたのだと思うと、よく働いたと思う。

「先生」

 呼ばれて振り返る。

「この絵、すごい。生きているみたい」

 千映美の絵だった。未完成のはずだった千映美の絵には、キリンもペンギンもライオンもちゃんと描かれていて、白いところなどひとつもなくなっていた。動物の毛並みや表情まで精巧に描かれており、まるで生きているみたいだ。耳をすませば、動物たちの息づかいまで聞こえてきそうだ。

「ね、すごいでしょう。あたしは高校生の時、こんなにうまく描けなかったなあ。この子、どこの学科志望なんだろう」

 一体何が起きたのだろう。もう一度、千映美に会わなければならない。会って、話を聞かなければならない。私は、あわててジャケットのポケットから携帯を取り出し、和田に連絡し、千映美を呼び出した。


 電話をかけてきた女性はやけにあわてていた。女性は今日の面接官だった。提出した作品について詳しく説明してほしい。今すぐ大学に来るように。そう言われた。もう夕方の六時をすぎている。あの絵について、これ以上何を説明すればいいのだろう。試験会場であの絵を見たとき驚いた。消えていたのだ。夕べ完成させたはずのキリンも、ペンギンも、ライオンも、わたしが心をこめて描いたすべてが、だ。

 面接で話をしたことは本当だ。全部が本当ではないかもしれないけれど、絵を描いているとき、キリンはどこか遠く焦がれる様な目をしていたし、ペンギンは愛情深い表情を浮かべていた。ライオンは頭からつま先まで隙がないくらい完璧なのに、飢えたような叫び声が聞こえてきそうな顔つきをしていた。だから、とっさに絵のことを聞かれ、あんな話をしてしまった。左端の面接官が終始イライラして何度もわたしを睨みつけてきたが、学部長と女性の面接官はわたしの物語をじっと聞いてくれた。それだけでもありがたいと思わなければいけない。未完成だと判定されてしまった以上合格の望みはない。二月にある一般入試で受けなおしたいが、今回の入試で悪い印象を持たれてしまい、落とされてしまうかと思うと不安だ。

 叱られるのだろうと思った。未完成の作品を提出し、嘘の物語を語ったことは、大学側からきちんと高校に知らせなければならない。きっとそう言われるために、わたしは呼ばれたのだ。

 緊張しながら教室へ入る。三人の面接官がまったく同じポジションで並んでいて、いやな記憶がフラッシュバックしそうになった。

「どういうことか説明してくれるかね」

 学部長が言った。テーブルの上に絵が置かれていた。思わずはっと声が出そうになった。絵の中に、キリンがいた。ペンギンも、ライオンも。まじまじと絵を見ていると、動物たちの言葉が聞こえた。絵を描いているときも聞こえた、あの声だ。

「帰ってきたんだと思います」

 わたしは言った。

「わたしが思うに」

 左端の面接官が刺すようなまなざしでわたしを睨みつけていたが、かまわなかった。動物たちの声に耳を傾け、わたしは物語の続きを話し始めた。


4.キリンの話

 サバンナの草原で、キリンは燃えるような夕日を見ていました。なんてきれいなんだろう。キリンは、思いました。ここへ来て本当によかった。昼はアカシアの木の葉を食べ、夜は満天の星空の下で群れのキリンたちと一緒に眠る。キリンは幸せでした。それなのに、キリンは時折どこかに忘れ物をしてきてしまったような、心のどこかが欠けてしまったような言い知れぬ不安におそわれるのでした。たとえば、アカシアの木の葉を口にするとき、キリンはやさしく枝をたむけてくれた飼育員のことを思い出しました。真っ赤な夕日にとっぷりと暮れていく空を見ていても、思い出されるのは飼育員のことばかりです。帰りたい。そう思うと、瞳から大粒の涙がこぼれました。キリンはもう飼育員に会いたくて仕方がないのでした。キリンは、動物園に帰ることに決めました。


5.ペンギンの話

 ペンギンは氷の陰から南極のペンギンたちを見ていました。あの子だ。ペンギンは、数えきれないほどたくさんいるペンギンの中から自分の産んだ子をちゃんと見分けることができるのでした。まだ羽毛がうすいグレーの、ひときわ可愛らしい小さなペンギン。今すぐ駆け寄っていって抱きしめてやりたいとペンギンは思いました。

 けれど、ペンギンはそうしませんでした。氷の陰から息子を見守るだけです。あの子は母親を知らないで大きくなったのです。今さら自分がお母さんだよと名乗り出たところでどうなるというのでしょう。それに、あの子もいつかひとり立ちしなければなりません。あの子には、父親のように強くたくましく生きてほしい。ペンギンが願うのはそれだけです。

 小さなペンギンは、泳ぎの練習をはじめていました。さっきから何度も海の水をのぞいてはあともどりを繰り返しています。がんばれ。ペンギンは心の中で応援しました。他のペンギンたちが次々と海に飛び込んでいっても、息子だけは氷の上にいて、不安そうに首をぶるぶるとふるわせていました。

「がんばれ」

 ペンギンの心の声にこだまするように聞こえたのは夫の声でした。夫は厳しくもあたたかく息子を見守っているのでした。その時、小さなペンギンが海に飛び込んだのです。うっかり滑ってしまったかのようにおしりから海に落ちていったので、ペンギンは思わず笑ってしまいました。いったいどんなふうに泳いでいるのだろう。ペンギンは、はらはらしながら見ていましたが、やがて息子が氷の上にはいあがってきたので、ほっと胸をなでおろしました。もう大丈夫だ。あの子はちゃんと成長している。安心したペンギンは、もと来た海を泳いで帰っていきました。


6.ライオンの話

 この広大な土地で、世界の頂点に立つためにはどうしたらいいかライオンは考えました。夜も眠らずに必死で考えました。答えはただひとつ。王者を倒し、王位を奪うことでした。隙を狙って王者に襲いかかり、王者を倒す。息も絶え絶えになった王者の上に馬乗りになった自分を想像すると、ライオンは鳥肌がたちました。

 神々しい星空の下を王者の大地にむかってライオンは歩きました。あの高台に王者が眠っていると思うと、ライオンは興奮しました。そっと忍び込み、眠っている王者に飛びかかり、声もあげられないうちに一息で王者を仕留めるのです。

「何しに来た」

 王者は眠ってなどいませんでした。ライオンの姿に気づくと、大きな声で吠えたのです。ここでひるんだら恰好がつきません。ライオンはできるだけ低い声で答えました。

「王位の座を奪いに来た」

 一瞬たりとも猶予がありません。ライオンは王者に飛びかかりました。無我夢中でした。とがった爪で王者の皮膚を引き裂き、やわらかい肩にかぶりつき、息の根を止めようとしました。

 けれど、王者はびくともしませんでした。いくらでもライオンを傷つけることだってできたはずなのに、王者は立ったままただじっとライオンを見つめていました。

「誰なんだ」

 突然そう言われ、ライオンは答えにつまってしまいました。いとも簡単にライオンは王者に組み伏せられてしまいました。

「俺はこの土地の王者だ。お前はいったい誰なんだ」

 王者の顔がライオンにぐっと近づきました。その顔にはいくつもの傷が刻まれていました。これまでも王者は幾度となく危険な目にさらされ、戦ってきたのでしょう。すべてはこの土地を守るためでした。

 冷たい地面につっぷしていると、なぜか動物園のことが思い出されました。ライオンのいない王者の丘は、今ごろどうなっているでしょうか。ライオンは動物園の一番人気でした。その王者が不在なのだから、お客さんはさぞかしがっかりしているにちがいありません。その時、ライオンはやっと自分の役目に気づいたのでした。

 夜の草原をライオンは一目散に走りました。たてがみを風になびかせ、ライオンは走り続けました。いつしかライオンはやさしい月の光に包まれて、すうっとすいこまれていきました。ライオンの耳に、子供たちの歓声が聞こえたような気がしました。


 千映美がすべてを話し終えると、動物たちの声も聞こえなくなった。みんな帰ってきたのだ。絵の中に帰ってきてくれたのだ。千映美はほっとしていた。叱られるかと思ったのに、学部長は拍手をしてくれた。女性の面接官もにこやかに笑っている。左端の面接官だけは腑に落ちない顔をして、口をへの字に曲げたままだったけれど、千映美自身この絵に起きたことをうまく説明できないのだからもっともなことだ。

 ていねいにおじぎをして、千映美は大学をあとにした。面接が終わってからもキリンやペンギン、ライオンのことが頭から離れなかった。

「わたしは彼らの物語をちゃんと語ることができたのだろうか」

 千映美はそう考えていた。日はとっくに暮れ、見上げた空には、冬の星座が広がっていた。星座をつないで物語を紡いだといういにしえの人達のことを千映美は思っていた。


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