異世界
「では行くぞ」
足早に歩き出す月城ではあるが、何気にアイシング用のコールドパックを紀和に手渡していた。優秀なマネージャーだ。
「おう」
紀和は自分でも用意していたのであるが、それを取り出すのをやめて月城の用意したコールドパックを肩に当てる。愛だね、愛。
「放課後のメニューはできているのか」
とても優秀なマネージャーだ。
「ああ。大まかな練習計画と、一週間分のメニューを渡しておこう」
何やら大量の資料、恐らくは全て競泳あるいは水泳部に関わるものであるが、の中からいくつかを取り出して手渡した。シーズン通しての計画、練習の目的や効果、専門種目や選手のレベルに合わせたメニュー、技術的な練習法、総距離や強度バランスなどのデータがまとまっている。部長と言った役職についているわけではないのだが、練習計画・管理や指導など、特に競技に関わる部分については紀和が行っている。
月城はすばやく目を通し、シーズン全体での練習計画をさらっと確認し、今日のメニューを詳細に記憶する。選手は自分のメニューだけを確認すれば良いのであるが、マネージャーは担当するもの全てを頭においておかなければならない。とりわけマネージャーが一人であるこの部では文字通り全てである。ごっつい優秀なマネージャーである。
「ラクテートトーラレンスか。これは扱き甲斐がありそうだ」
耐乳酸トレーニング。とりあえず全力で泳いで砕け散る練習。きつい練習の代表格。
「ああ、宜しく頼む」
月城がマネージャーとして意欲的になっていることに喜んでいるのだろうか、紀和の口元が僅かに緩んでいるように見えた。
朝に来た時とは少し構造が違うのだが、再び細長い通路と無数の扉。
「朝とは違うところに行くのか?」
「いや、残念ながら同じ場所だ」
気持ち悪いのがいるところだ。
「俺の記憶している場所とは違うのだが」
「ああ、この場所は自動生成だからな」
ハイテクなんだよ。
「セキュリティのためか?」
「まあな。実際に扉の数だけ部屋があるわけではない。ほとんどの扉はもとの場所に戻るだけだ」
入り組んだ道を迷わず突き進む。詳細は企業秘密です。
「そうなのよー。おほほ」
扉の向こうに聞こえる、透き通った声。
「行くぞ」
勢い良く扉を開ける。
「あら、あかねちゃん、いらっしゃい」
人間離れした、コメントしづらい珍妙な微笑み。
「あかねちゃん言うな」
お約束。
「紀和君も」
「ああ」
「とりあえずお掛けになって下さる」
優雅な立ち振る舞いと違和感のある笑顔。
「他の世界をいくつか見ておくんだったわね。すぐにデータが用意できるのは基礎物理法則をいじっただけの世界だけだったの。ごめんなさいね。
人の感覚でどれだけ興味がもてるものかは分からないけどとりあえず目を通してちょうだい。時空次元が違うものだったり、時間発展の法則がそもそも違うものは直接見に行くわけにも行かないからデータだけになっちゃうけど」
力学系の基礎方程式、力学変数、時空次元等で分類されていて、それぞれの簡単な特徴がまとめられている。莫大な資料ではあるが、紀和にとってはたいした分量では内容で、ザックリ目を通すと、すかさず、
「安定な数値計算ができそうにないものも含まれているな」
話に食いつく紀和。足を組む月城。
「そうなのよ。でも、計算できるものなんてつまらないものが多いし、安定なものって驚くほど少ないのよ。中には技巧的なアルゴリズムで綺麗にシュミュレーション出来たものもあるけど・・・・・・」
興奮する気色が悪い河野。腕を組む月城。
「力技ということか?」
間を取らせることなく突っ込む紀和。指で肘の辺りを弄くる月城。
「そうね、結局はそうなるわ。凶悪な非線形性をもっていたり、性質の悪いものは、小細工を必死に積み重ねたわ。もはやシュミュレーションといえるかどうかも怪しいわ」
きゃっきゃっうふふの河野。足をゆする月城。
「ここで言う面白いあるいは新しいと言うことが一般的に解けないと言うことと類似している以上、そうなるのは仕方がないのだろう。実際にプログラムを組むほうは大変だろう」
まあねー、と言った表情の河野。舌打ちする月城。
「私が組んだものではないけれども、酷いものだったわ。その割りに大して面白いこともなかったけれども」
酷い顔の河野。そっぽを向く月城。
「しかし、基礎法則を新たに考えるとなると、目新しい現象が起きるようなものを創るのはかなり難しいであろう。見たところ、分類や解析もかなり進んでいるようだ。別のバージョンを考えたところでかなりマニアックなものになると思うのだが」
一瞬目をそらしたものの、無表情の紀和。退屈する月城。
「そうね、ちょっとオタクっぽいところがあるかもしれないわね。でも、それはそれで・・・・・・」
ニヤニヤ厭らしい河野。眠る月城。
「確かにマニアックと言うだけでネガティブに評価することはないであろうが、しかし、月城の好みではないようだ。あくまで彼女の創る世界であり、俺はその協力者に過ぎないのからな」
軽く目線を送る紀和。眠った振りをしつつ、チラッと目を開いて答える月城。
「でも、紀和君は好きなんじゃないの? あなたが言えばあかねちゃんだって・・・・・・」
あかねちゃん言うな、とすら言わない月城。
「嫌いではないが、好きでもない。むしろ興味がないと言う言い方が適切かもしれない。俺が好きなのは今俺が住む世界であり、願わくば、今は(異世界に対して)開いてしまっているが、その事実上閉じた世界の中で、その制御力のもとで、競泳選手として生きていければそれで良い。それが一番良い。世界を創ることに全く興味がないとは言わないが、それと比較すれば興味がないに等しい。
俺は月城の協力者だ。どこまで意見することができるか、あるいは、何をもって意見と言うか、と言ったことは曖昧なものではあるが、少なくとも俺の方から陽に、しかも自分の嗜好で、主張するべきではないと考えている」
今日一番の反応速度とおしゃべりスピード。少しでも早かったら、言葉がかぶさったり、聞き取りづらかったりしたであろう限界ギリギリのタイミングとスピード。
語調が心持ち強かったせいか、話が途切れ沈黙が垣間見える。河野は若干しょんぼりしている。しょんぼり顔が驚くほど似合っている。それに気を利かせることなく紀和が話を続ける。
「もう少し高位の概念や現象を扱ったものはないのか?」
河野は再びニヤニヤする。月城はネムネムする。
「そうね、力学変数が特殊ではじめから原子や分子のような構造をもたせる様なものがあったかしら。マクロ変数が複雑な情報構造を作れるようにしなければならないからセットアップは慎重にしないといけないけれども、生物と言ってもいいくらい複雑な系も作れるものがあるわ。その系で支配的なエナジースケールはものによって大きく変わるけれど。
さらに上位の概念を扱うものになるとすぐには用意できないので今度になるわね。直接その世界に行ってもらったほうが良いものもあるから」
河野はイキイキしている。月城はグーグーしている。
「それは例えば、より複雑な化合物のパターンがあると言ったことか?」
「そうね、情報量と言うか、場合の数が多いものにするとそこで起こる現象はより複雑になるわね。でも、あまり量を増やしすぎても構造としてより複雑なものになるとは限らないわ。ケミカルな特性を変化させるにはパラメタをちょっといじるほうが簡単な場合の方が意外と多いの。いずれにせよ、ちゃんとより複雑と言えるものを作るにはある程度根気良く実験する必要があるわね」
河野はハヒハヒだ。月城はスヤスヤだ。
「そうか。予言能力が十分でない場合、それができないからこそ創るのかも知れないが、ある程度テストを行っておいたほうがいいだろう。ものによってはかなり時間がかかると思うのだが、どれくらいの時間をかけるつもりなんだ?」
「生きている間にできれば良い」
月城久しぶりの発言。
「そこまで時間がかかることなのか」
あんまりダラダラしたくないよね。
「早くできればそれでもかまわない。ものによってはヒトの寿命では短すぎるので神として延命されたり、不死になったりするものもいる。心配するな、そこまで手間をかけさせる気はない」
「それはありがたい。さすがに人でなくなっては人としてフェアな立場で競技に参加できなくなるからな」
どこまでも競泳中心。
「お前が頑張れば良いだけのことだ」
そんな無茶な。
「了解した」
これぞ紀和クオリティ。
「結局異世界訪問はいつ出来る様になるんじゃ?」
今までの話はどうでもいいからさっさとしやがれ、と言わんばかりの月城。
「ごめんなさい、ちょっと手続きに手間取っているの。週末くらいになるかしら。それまでに訪問先の神様には一回くらい会っておくと良いわ」
「分かっておる」
そう言いながら時計に目をやる。
「そろそろか」
紀和も恐らく時間を気にしているのであろう。
「あら、もうそんな時間? 残念ね」
午後の授業は2時間ほどしかありません。
そんなこんなで、2人はプールへと向かった。