泳ぎ神
僅かな熱気を帯びた身体はゆるく柔らかに揺れ動き、調律のとれた神経系が心地よい緊張と共に初期微動を伝わせる。深く穏やかな呼吸に応じて高鳴る心音は微かな雑音を含みつつも魂の鼓動を伝え静かに轟く。
威圧する広大な空間、高みを覆う壮大な天井、天地を活する穏やかな水面。その場所は静寂を保ち、一切の動を感じさせない。その無防備で堂々とした様が心臓を裸にして躍らせる。誰より先に沈黙を破り、己の存在の全てを知らしめたい。
無力で心に響く声援、親しみにあふれる最悪の敵、隅っこからわずかに入り込む下心。意外にもこの瞬間に気付いたことは自分が幸せであったことだ。気が散っている感じとは違うのであるが、ただ素直に、まっすぐに、恥ずかしがることなく、否、他人に聞かれたら恥ずかしいけれど、そんな思いがどこからともなく溢れてくる。
最悪だ。
俺はこの瞬間のために生きてきた。否、俺はこの瞬間はじめて生きることができる。こんな時に何かを考えることがそもそも不要な行為だ。思い考えることなど俺には必要ない。最も正しく最も役に立たない評価も、人の感覚程度に粗視化した時に見える尤もらしい主張も、人知を超えた崇高らしい悟りも、何もかもが邪魔者である。必要なのは探求し極めることではなく目を瞑り集中することだ。
考えるな。
思うな。
従え。
ただ服従せよ、集いし猛者を縛る掟に、道を示し道を限る本能に、精巧な偽りと真の構造物たる魂に。服従せよ、妄信せよ、肯定せよ。思い、考え、極め、失うよりも、ただ仮初の上に立つ真実を全力全開で駆け抜けよ。
考えようによってはとても貴重な雑念を振り払い、人として大切なものを放り投げ、重大な真実に目を背けたとき、己の欲した世界が姿を表す。
覚悟せよ。
そこで俺の記憶は途絶えていた。