悪役令嬢と呼ばれても
「クリストフェル殿下に、必要以上に近づかないで」
アリシアは、紺碧の海のように鮮やかな青い瞳に、静かな怒りの炎を燃やしていた。さらりとしたプラチナブロンドの髪も、じわりと逆立っているように錯覚する。
目の前では、きょとんとした顔をしたエミリーがいた。
アリシアとエミリーは、ともに十六歳になる、このシグトゥーナ学園の生徒である。シグトゥーナ学園に通うのは、この国の王族貴族の子息子女であるが、平民の生徒が入学することもある。エミリーのように、魔力選抜試験で優秀な成績をおさめた生徒だ。
エミリーは今年になって、シグトゥーナ学園に編入してきた。栗色のふわりと柔らかい巻き毛と、明るい翡翠色の瞳をしたエミリーは、平民出身ではあるが、人形のような整った美貌に加え、並外れた魔力を持っていることで、編入当初からしばしば皆の注目を集めていた。彼女に好意を寄せている男子生徒も、少なくないと聞く。
エミリーは、貴族階級のアリシアとは違い、飾り気がなく、何にも縛られずに心のままに行動する。そういうところが、正直羨ましくもあった。だがアリシアの婚約者であるクリストフェルに、必要以上に馴れ馴れしくすることだけは、許せなかった。
クリストフェルはアリシアより二歳年上の、この国の第一王子である。彼とアリシアの婚約は、半年前に発表されたばかりだ。
エミリーは最近、常にクリストフェルの側にまとわりついている。アリシアは何度もそれを目撃しては、眉間のしわを深くしていた。
しばらく黙って見守っていたアリシアも、ついに我慢ができなくなって、渡り廊下でエミリーを呼び止めた。幸いなことに、渡り廊下にはひと気がなかった。
「クリストフェル殿下はお忙しいの。あなたがいつもいつも一緒にいられる方ではないのよ」
険を含んだ声で言ったアリシアに、しかしエミリーはくすりと笑った。
「アリシア様、余裕がないんですね」
「…………」
アリシアは目を見開いた。今、何と言った?
信じられない思いで沈黙するアリシアに、エミリーは口元に笑みを浮かべたまま、挑発的なまなざしを向けてくる。
「余裕がないならないで、もっとはっきり言ったらどうですか? 私の婚約者に近づかないでって」
言葉を失っていたアリシアは、ややして口を開いた。
「……クリストフェル殿下と私が婚約していることは、知っているのね」
エミリーは、イラついたような声で返してくる。
「馬鹿にしてるんですか? それくらい、知っています」
「だったら――」
「婚約者がいるからといって、お友達になってはいけない法律がありました?」
「……それは」
「アリシア様だって、ラーシュ殿下とはお友達ですよね?」
「…………」
ラーシュは隣国の第三王子で、二年前からこの国に留学中だ。クリストフェルと同年齢で昔から親交が深く、クリストフェルと縁のあったアリシアとも親しくしてくれている。
「クリストフェル殿下も、ラーシュ殿下も、シグトゥーナ学園の中では、あえて『普通』の生活を送るために、特別扱いはしないのがルールだと聞きました。アリシア様は良くて、私は駄目なんですか?」
「……駄目だとは言っていないわ。私は、必要以上に近づかないでとお願いしただけ」
「お願い?」
わざとらしく繰り返してエミリーは、おかしそうに笑った。
「そんな風に敵意を剥き出しにして、お願いだなんてよく言えますね」
「…………」
アリシアは何も言えなかった。怒りのあまり、だんだんと自分の顔から血の気が引いていくのが分かった。
エミリーは薄く笑いながら、今度は憐れむようなまなざしを向けてくる。
「ねえ、アリシア様。貴族の皆様は知らないかもしれないですが、最近は平民の間で、身分違いの恋をテーマにしたお話がはやっているんですよ。お話の中では大抵、恋を邪魔する悪役の令嬢が登場するんです」
「……悪役? まさか、それが私だと言いたいの?」
「ええ。私が主役の物語なら、アリシア様は悪役令嬢ですよね」
さらりと言われ、アリシアは絶句した。震えそうになる体をなんとか抑えようと、体の前で組んだ両手にぎゅっと力を入れる。
ややしてアリシアは、かすれた声で言った。
「……あなたはクリストフェル殿下を、お友達以上に思っているのね」
「お友達ですよ、今は。でも」
エミリーはぞくりとするほど美しいほほえみを見せた。
「私、初めてクリストフェル殿下を見た時、体が稲妻に打たれたようでした。クリストフェル殿下の周りだけが、いつも光り輝いて見えるんです」
「…………」
「アリシア様。平民は、クリストフェル殿下に想いを寄せることさえ許されませんか?」
「……身分の話をしているのではないわ。クリストフェル殿下は私と婚約しています」
「婚約者がいる方を、好きになるだけで罪になるのですか?」
「…………」
「私はクリストフェル殿下と、デートをしたわけでも、抱き合ったわけでも、キスをしたわけでもありませんよ」
「あ、あたりまえよ! 何てことを言うの!?」
思わず声を荒げたアリシアに、ふふっと妖艶にエミリーは笑った。
「だったら、咎められることはありませんよね? ……アリシア様、嫉妬深い女って、鬱陶しくて嫌われちゃいますよ」
流し目を残してエミリーは去って行った。
あとには、蒼白になって震えるアリシアだけが残った。
◇ ◇ ◇
異変が起きたのは、翌日のことだった。
昼食をとるためにカフェテリアに入ったアリシアは、周囲の視線がいつもと違うことに気がつく。こちらを見てささやき合う生徒たち。アリシアがそちらを見れば、ぱっと視線を外す。
居心地が悪くて、アリシアは人の少ないテラスへ出て、テーブルについた。
「アリシア」
青い顔をしていたアリシアは、はっとして顔を上げた。
目の前にいたのは、同級生の友人、フリーダだった。豊かに波打つダークブロンドの髪を、ハーフアップにしている。くっきりと黒い瞳が、いつも凛としていて美しい。
「一体何があったの、アリシア。妙なうわさが広がっているわよ」
心配そうにアリシアを見つめながら、フリーダはアリシアの前に座った。
「フリーダ、私――」
「お嬢様方、一緒にいいかな」
二人そろってそちらを見れば、隣国の第三王子、ラーシュだった。蜂蜜色の髪と、淡い瑠璃色の瞳をしたラーシュは、中性的な容貌もあって、天使のようだと評判だった。太陽の光を背に、にこにこと柔らかくほほえんでいる。
アリシアとフリーダは立ちあがり、ラーシュが座るのを待ってから再び席についた。フリーダはアリシアの横に席を移している。
「ラーシュ殿下、お一人ですか? クリストフェル殿下はご一緒では?」
フリーダの質問に、ラーシュは小さく肩をすくめた。
「クリスは図書館で調べもの。攻撃魔法術の授業の課題を、少しでも進めたいって。……どうしたの、アリシア。顔色が悪いよ」
「いえ……」
アリシアは慌てて笑顔をつくろうとしたが、上手くいかなかった。ラーシュが眉をひそめる。
アリシアの隣でフリーダが、息をついてから言った。
「アリシアが、エミリーさんを泣かせたと、うわさになっています」
フリーダの言葉に、アリシアは血相を変えた。
「泣かせてなんて、いないわ!」
「……どういうこと?」
ますます怪訝な表情をしたラーシュが、アリシアとフリーダを交互に見つめる。
アリシアは少し視線を落として、おずおずと答えた。
「あの、最近、エミリーさんが、クリストフェル殿下と一緒にいるところを頻繁に見かけて、それで……」
「うん」
「……我慢ができなくて、必要以上に近づかないでと、言ってしまいました」
「そうなんだ」
身を小さくするアリシアの隣でフリーダは、アリシアをのぞきこんでくる。
「でもアリシアは、泣かせてなんていないのね」
「……ええ。彼女は泣くどころか、私のことを、『身分違いの恋を邪魔する悪役令嬢』だと言っていたわ」
フリーダは信じられないという顔をして、声を荒げた。
「何よそれ! つまり彼女は、クリストフェル殿下に恋をしているの?」
「……そうみたい」
「それをアリシアに宣言するとは、なかなか強気な性格だね」
ラーシュは困ったように苦笑していた。
「ラーシュ殿下、笑いごとではありません」
フリーダは、だん、とテーブルを拳でたたいた。アリシアが驚いてみれば、その目には、怒りが燃えたぎっていた。
「アリシアが悪役令嬢ですって……? よくもそんなことを言ったわね。お望みなら、私がその悪役令嬢とやらになって差し上げるわ」
「フリーダ、怖い怖い!」
顔を青くしたラーシュと一緒に、アリシアも慌ててフリーダを落ち着かせる。
「フリーダ、あなたまでそんなに怒らないで。ね?」
「…………」
押し黙って気を静めようとしているフリーダにほっとして、ラーシュが話を戻した。
「それで、アリシアは、クリスとは話したの?」
アリシアは小さく首を横に振った。
「最近はあまり話す機会がなくて……。クリストフェル殿下は二十四時間お忙しいですから。通常授業の他にも、王宮から教師が派遣されて、忙しく過ごされています」
「いや二十四時間は忙しくないよ。寝てるから、さすがに。アリシアが言えば、睡眠時間の一時間くらいは削ってくれるよ」
「そんなことをしては、クリストフェル殿下のお体に障ります……」
すると怒りをおさめたフリーダが、優しくアリシアの肩に手を置いた。
「アリシアはクリストフェル殿下の婚約者よ。堂々としていなさいよ」
「……そうね。でも、エミリーさんは魅力的だから」
「何を言っているの? アリシアの方が魅力的に決まっているでしょう!?」
「フリーダったら……」
再び怒ったような顔で、真剣にそう言ってくれるフリーダに、アリシアは弱々しい笑みをつくる。どん底まで落ちていた気持ちが、少し浮上した。
「馬鹿げたうわさは放っておくに限るわ。むきになって否定すれば、余計に面白がる人がいるもの。信じてくれる人もきっといる。だからアリシア、気にしないで。つらくなったら私のところに来るのよ。守ってあげるから」
「フリーダ……。ありがとう」
「僕のところでもいいよ、アリシア」
ラーシュもフリーダと同じように優しく言ってくれたのだが、それをフリーダがきりりとした目で断った。
「ラーシュ殿下は駄目です」
「ええー……」
「今度はアリシアがラーシュ殿下に想いを寄せている、なんてうわさを広められたら大変です。ラーシュ殿下がアリシアにお話しされるのは、必ず私がいるときにしてください」
しょんぼりした顔をしていたラーシュだが、すぐに天使のような笑顔に戻った。
「分かったよ。……フリーダって本当にしっかりしてるよね。時々怖いけど。僕のお嫁さんにならない?」
「お断りします。ラーシュ殿下はいずれお国に戻ります。アリシアの側を離れるのは嫌ですから。それから怖いは余計です」
「アリシアに負けたぁ……」
相変わらず仲の良い二人のやりとりに、アリシアは今日初めて、心から笑った。
◇ ◇ ◇
図書館に行ってみれば、クリストフェルに会えるかもしれないと、ラーシュとフリーダと別れたアリシアは、足早に図書館に向かった。
広い建物の中を探し歩き、書架の間の閲覧席で、クリストフェルの姿を見つけた。
だがアリシアは、見つけた瞬間に書架の間に身を隠す。クリストフェルと彼を囲む数人の生徒たち。その中に、当然のようにエミリーがいた。しかも、クリストフェルの隣だ。
話しかけるべきか、出直すべきか。逡巡しながらアリシアは、そこから動けずにいた。
聞き耳を立てる気はなかったのだが、異常に良く通るエミリーの声が、耳に届いた。
「――じゃあ、クリストフェル殿下にとっては、アリシア様が一番じゃないんですね」
「そうだな」
「そうなんですかぁ」
嬉しそうなエミリーの声。アリシアはうつむいて、その場から立ち去った。
◇ ◇ ◇
それからアリシアはどうやって午後の授業を過ごし、その後どうやって寮の自室に戻ったのかを覚えていない。自室に入った途端、ベッドに突っ伏して泣いて、いつの間にか疲れて眠ってしまった。
翌朝、アリシアは重い頭でなんとか起き上った。鏡を見れば、あまりにひどい顔をしていたので、今日は自室から出たくはなかった。だが、熱もないのに登校しないわけにはいかず、アリシアは顔色の悪さを化粧でごまかして、とぼとぼと教室へ向かった。
状況は、昨日よりも悪化していた。非難めいた視線がアリシアに集まる。遠巻きにアリシアを見て、顔をしかめている周囲の様子は伝わってきたが、アリシアには、どう対応すれば良いのか分からなかった。
それでも、せめてうつむかずにいようと、アリシアは姿勢良く着座したまま、一人でじっと時間が過ぎていくのを耐えていた。馬鹿げたうわさは放っておくに限るとフリーダは言ってくれた。残念ながら、フリーダとは教室が別だ。
ようやく、午前の授業が終了する時間になって、アリシアは立ちあがる。フリーダを探すか、見つからなければどこか人のいないところに行こうと思っていた時、出入り口から入ってきた人の姿に、思わず息が止まりそうになった。
「アリシア」
「……クリストフェル殿下」
黒い艶やかな髪と、知性的で鋭い金色の目。アリシアより頭ひとつ分ほど背が高く、隙のない精悍な風貌をした、アリシアの愛しい人。
「おいで」
良く通る落ち着いた声で呼ばれ、アリシアは引き寄せられるようにクリストフェルの元へ行く。
アリシアが目の前まで来ると、クリストフェルは周囲にさっと視線を送る。
「この教室を使いたい。誰か残る必要がある者は?」
その言葉に、成り行きを眺めようとしていた生徒たちは、はっとして出入り口に急ぐ。クリストフェルの言葉に逆らう者がいるはずがなかった。
程なくして二人きりになり、アリシアはこくりと息を呑んだ。
うわさは、クリストフェルの耳にも届いているだろう。エミリーのことを問われたら、何と言えば良いのだろうか。……責められは、しないだろうか。
アリシアの胸は張り裂けそうに痛み、感情に任せてあんな行動をしたことを、激しく後悔していた。
「クリストフェル殿下、あの、私……」
言いかけて、何を言っていいのか分からず、アリシアは口ごもった。
クリストフェルは静かにアリシアを見下ろし、ゆっくりと言った。
「エミリーとの件は、ラーシュから聞いた」
「……はい。申し訳ありません」
アリシアは消え入るような声で答えた。
「なぜ謝る? きみが彼女を一方的に泣かせたという話になっているが、真実ではないのだろう?」
「は、はい」
慌てて首を縦に振ると、クリストフェルはうなずいた。
「俺はきみを疑ったりはしていない。なのに、なぜ謝る?」
「それは……」
言いよどんで、それでもアリシアは眉を下げたままクリストフェルの瞳を見上げていた。
「泣かせたわけではありませんが、感情的な言葉をぶつけてしまいました……」
「何と言った?」
「……クリストフェル殿下に、必要以上に近付かないでと」
アリシアは思わず視線を足元に落としていた。申し訳なさと恥ずかしさで、かっと顔が赤くなる。どうしてあの時、感情の高ぶりを抑えることができなかったのだろう。
「アリシア」
名を呼ばれ、アリシアはおずおずと顔を上げる。クリストフェルの冷静なまなざしが、今は怖くも感じた。
「エミリーはきみと同学年だが、攻撃魔法術の授業は、俺やラーシュと同じ授業を受けている。彼女の魔力が学園で最高クラスなのは事実だ。彼女には、今後の活躍が期待されている」
「……はい」
「だからといって、俺は彼女を特別扱いなどはしていない。魔力の高さは買っているが、彼女に国のために尽くす気持ちがあるかどうかも分からない。彼女は誰に対しても、距離感などまったく気にしていないし、規則に縛られず自由に行動する。人の気を惹くのも上手いのだろう。こんな馬鹿げたうわさが、広がってしまうくらいには」
「……そう、ですね」
弱々しく答えたアリシアに、クリストフェルは小さく息をついた。
「学園にいるうちはそれでもいいだろう。だが卒業したらどうなる。規則に縛られ、自由に振る舞えないことなどいくらでもある。愛嬌だけで許される場合もそう多くはないだろう。周りの人間も、馬鹿ばかりじゃない。そういうことを、知ろうともしない人間に、教えてやる必要はないと思っている。力があるのならなおさら、品格と礼節が必要になる。自分が他人からどう見られ、どんな影響を与えるのか。いつまでもそれを考えようとしないのならば、それだけの人物だ。先はない」
冷徹な声で言い切ったクリストフェルに、アリシアは思わず息を呑んだ。クリストフェルは今、エミリーという人物が、国にとって有益であるかどうかを見極めているのだ。だから自由にさせている。もしも必要ないと判断すれば、容赦なく切り捨てる。そんな予感がした。
「……あの、本当に申し訳ありません。嫉妬のあまり愚かな行動をしてしまいました」
クリストフェルに嫌われたくない。必要ないと思われたくない。アリシアはその一心だった。
おそらくは必死の顔をしていたアリシアの手を、クリストフェルは優しく取った。
「きみが不安に思ったのなら、俺が悪いのだろう」
「い、いいえ! そんな――」
言葉の途中で、アリシアは手を引かれてクリストフェルの腕の中だった。優しく抱かれ、髪を梳くようにして撫でられる。アリシアは一瞬何が起こったのか理解できなかった。
「クリストフェル殿下……」
「クリスでいい。前にもそう言っただろう?」
「……はい、でも」
「うわさは、すぐに消える。毅然としていればいい」
「はい……」
心臓は激しく鼓動し、頭は熱が出たように、ぼうっとなる。力が抜けてしまい、姿勢良く立っていられなくて、アリシアはクリストフェルのたくましい胸に体重を預けた。
「閣僚から推薦された婚約者候補から、俺はきみを選んだ。努力家で、人の心の内を推し量ることができる人だと思ったからだ」
「でも私は嫉妬を……」
「そうだな。できるだけ、感情には振り回されないほうがいい。だが、何も初めから完璧である必要はない。まだ婚約して半年だ。二人で一緒に成長していこう」
「……ありがとうございます」
二人で一緒に。その言葉に、アリシアは胸がいっぱいになった。
「クリストフェル殿下……」
「クリス、と。堅苦しい呼び方もしなくていい」
「……クリス、様」
「何だ、アリシア」
クリストフェルは優しくアリシアの髪を撫で続けている。ふわふわと夢心地のまま、アリシアは胸の内から湧き上がってくる気持ちを口にしていた。
「お慕いしております」
するとクリストフェルはアリシアの肩を押してその身を少し離すと、アリシアの瞳をのぞきこむ。
「俺の、どこを?」
「……日々、たゆまぬ努力を続けていらっしゃるのに、それをおくびにも出されません。誇り高いお覚悟を、心から尊敬し、お慕いしております」
「覚悟か。……そうだ、俺には命よりも大切なものがある」
そう言われて、アリシアは思い出した。あの図書館での会話を。
『――じゃあ、クリストフェル殿下にとっては、アリシア様が一番じゃないんですね』
『そうだな』
アリシアを見つめる金色の瞳が捉えているもの。もうアリシアには答えが分かっていた。
「クリス様にとって、何よりも一番に大切なもの。……それは、この国です」
するとクリストフェルは、優雅にゆっくりとほほえんだ。
「ああ。俺は全人生を、この国にささげると誓った。きみのことだけを、一番にしてやれないのは悪いと思っている」
「いいえ! 畏れ多いことです」
アリシアは必死に首を横に振った。
「微力ながら、私はクリス様をお側で支えることができれば、それで幸せです」
「きみは婚約の時もそう言ってくれた。責務を果たす俺の支えとなり、直接的でなくても、国のために尽くしたいと」
「はい。その気持ちは、今も変わっていません」
「……俺も、時には疲れる。きみの隣で疲れを癒したい。そう思っているのはきみだけだ。アリシア、俺を癒してくれるか?」
アリシアの答えを待つ前に、クリストフェルはアリシアの頬に手を当て、顔を傾けてくる。
そっと唇が重なったその瞬間。言葉だけでは伝わらない想いが、二人の心を結んだ。
クリストフェルはすぐに唇を離したが、アリシアの顔はすっかり真っ赤になってしまっていた。
「こんな場所で……。いくらなんでも、誰かに見られてしまいます」
「婚約者同士だ。誰に見られても問題ない」
「クリス様……」
「……アリシア、不安は解消したか?」
そう問われ、クリストフェルが本当はアリシアを癒すためにキスをしてくれたのだと知る。アリシアはクリストフェルへの気持ちで胸をいっぱいにしながら、こくりとうなずいた。泣いてしまわないように、必死の思いだった。
「もしもまた不安になった時には、ちゃんと俺に言うんだ」
そう言ってもう一度、クリストフェルは、堪えきれず少しだけ涙を浮かべたアリシアの目元に唇を落とした。
◇ ◇ ◇
「あら、アリシア様」
「……エミリーさん」
「お一人ですか?」
クリストフェルを探していたのだろうか。廊下で出会ったエミリーは、じろじろと不躾な視線をアリシアに向けてくる。
「今日は、怒っていらっしゃらないのね」
「……私があなたを泣かせたとうわさになっているようだけれど、皆さんあなたのどこを見て、そんな嘘を信じるのかしらね」
「まあ、本当ですか? 誰がそんなことを言ったんでしょう」
わざとらしく言ってエミリーは、ふふっと艶やかに笑う。
アリシアは気にせず、エミリーをまっすぐに見つめて、はっきりとした口調で言った。
「先日は、感情的になって悪かったわ。ごめんなさいね」
「……え?」
突然のことに、エミリーは小さく目を見開いていた。先日とは逆に、今度はアリシアが流し目を残してエミリーの側を通り過ぎる。
「あなたにとっての私が、恋を邪魔する悪役令嬢ならそれでも結構よ」
ただしこの恋は、譲りはしないから。アリシアは心の中でつぶやいた。
アリシアは、思っていたよりもずっとちっぽけな自分を知った。自信をなくしていた。だがクリストフェルが言ってくれた。二人で一緒に成長していこうと。クリストフェルを信じている。クリストフェルの信頼を裏切りたくない。これからもう一度、クリストフェルにふさわしい女性として、本当の自信をつけてみせる。
アリシアは、まっすぐに前を向いて歩き続けた。
(THE END)