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MEMORIES 或いは、巨大な蛇の巣の中で舞い踊る胡蝶が散らした鱗粉のマルソー

作者: ゆくり

夏のホラー2020 テーマ『駅』の参加作品です。

後書きまでがオチなので、後書きも読んで頂けたら幸いです。

 最終電車で寝てしまった。 終着駅で駅員に肩を叩かれるまで、まどろみの中で幸せな夢を見ていた。


「お客さん、終点ですよ。」


 鉛で出来ているかのように重い瞼をゆっくりと開くと、眼前を、ふわりと何かが横切った。

 蝶?

 それは美しい蝶だった。虹色の翅が薄く光を纏っているかのような光沢を放ち、鼻先に散らす麟粉すらも気品に溢れた香りを立てている。

 なんて綺麗な蝶なんだ。私はまだ夢の中にいるのだろうか?

 寝ぼけ眼を擦り、もう一度目を開くと、蝶は始めから何処にも居なかったかのように姿を消した。


「おはよう。……じゃなかった。すまらい。あいがとう。」


 酒で少し呂律の回らない口で駅員に礼をして、覚束ない足取りで地下鉄のホームに降りる。

 今夜は飲み過ぎた。電車が着いてからも暫く寝ていたのだろう。ホームには一人の人影も無い。私が最後の乗客のようだ。


 私の寝床だった電車が案内板を『回送』に変え、コンクリートで覆われた大穴の闇に向かってゆっくりと動き出す。

 最後尾の車両には、先程、私の眼前を横切った蝶が飛んでいた。車内灯をステージライトに乱高下のダンスを舞い踊っている。

 徐々に加速する電車が、蝶と伴に何処までも続いていそうな闇の中に消えて行く。まるで獲物を丸呑みにして腹を満たした大蛇が巣穴にでも帰るかのように……。


 少し酔いを醒ますためにベンチに腰掛け、先程の夢の続きを見ようと目を閉じるが、どんな夢を見ていたのか欠片も思い出せなかった。ただただ幸せな夢だった気がする。最高に幸せな夢だ。

 それでも私は、その幸せな夢の続きが見られない事を全く惜しいとも思わなかった。


「さて、帰りますか。」


 最高に気分の良い夜だった。どんな夢よりも現実の私の方が幸せだ。

 家庭を持って丸二年になる私は、もうすぐ父親になるのだ。男の子だろうか?女の子だろうか?二通りの幸せな妄想に、どっぷりと浸っていたかった。どうせ現実は私の妄想など軽く越えてくるに違いないのだ。あと一月もすれば幸せの渦に飲まれる私がいる。ならば、それまでは今しか味わえない妄想を精一杯噛み締めようではないか。


 学生の頃からの友人達に報告をしたところ、しこたま飲まされてしまった。

 日常的に使う自宅の最寄り駅はこの駅の一つ前だ。普段なら、電車が折り返すまでそのまま乗っていればいい。運動不足の解消に、わざとこの駅から歩く事もある。

 最終電車だった事と飲み過ぎた事を除けば、今の状況は日常の一幕といえるだろう。


 妻には先に休んでいるように連絡してある。

 もう寝ているだろうから今夜は彼女の寝顔を見よう。最後に妻の寝顔を見たのは何時の事だったか?なんだか遠い昔のような気がする。事実、私は結婚以来、毎朝、彼女の作る朝食の匂いと共に目覚めの朝を迎え、彼女と伴に床に就く生活を乱した事はない。

 今夜の事態は特別なのだ。


 早く妻に会いたい。

 寝ている彼女を起こさないように優しくキスをしよう。私とまだ見ぬ子との最初の秘密を作ろう。そのキスはお母さんには秘密のキスだ。

 でも、きっと妻のお腹の中にいる君も寝ているだろうな。やっぱり私だけの秘密になりそうだ。


 私は逸る気持ちを抑える気もなく、ベンチから立ち上がり歩き出した。


「タクシー、捕まるかな?」


 地上に繋がる上り階段に向かって歩を進めると、思っていたよりも酔いが足に来ている事に気が付く。

 自宅まで歩くのが億劫だった。

 見上げれば、天国まで続いているかのような階段が、私の行く手を阻むように鎮座している。

 ふと、視線を横にずらすと、終わりの見えない大穴が闇をたたえていた。


「地獄まで続いていそうだ。」


 闇を……、そして、闇のその先に目を凝らす。


 初めて地下鉄に乗ったのは、私がまだ幼い少年の頃だった。その時も、連なる金属の箱の群れに、暗闇の大穴を蠢く巨大な蛇を妄想したのを憶えている。

 子供だった頃の私は、大蛇の姿をした魔王に立ち向かう勇者でもなく、魔王にかしずく配下でもなく、ただ魔王に生贄として喰われる村人である事を好んで夢想した。

 丁度、あの蝶のように、贄として魔王に捧げるダンスを踊って叱られたっけ。


 光を……、地上へと続く階段のその先を見つめる。


 ああ、億劫だ。

 今の私には、この階段こそが魔王だ。しかも魔王の後にも家路は続く。真のラスボスは素面で30分の道のりだ。酒という毒に侵された薬草も持たない村人にはキツイ試練だ。最後の乗客である私に、タクシーはすぐには捕まえられないだろう。


「なんで終電で寝過ごすかね?」


 自分のミスを呪う。

 いつもなら、あの回送電車は戻りの電車で、そのまま降りずに乗ったまま一駅戻るだけなのだ。停車時間も含めて、ほんの15分程度の犠牲で補えるミスのはずだった。

 だが、今の覚束ない千鳥足で地上を歩けば普段の倍以上の時間を要するだろう。

 一時間の徒歩が絶望的な拷問に思えた。


「この穴を抜ければ直ぐなのにな……。」


 口に出たその言葉は私自身が発したものか、それとも私の口を使って発せられた悪魔の囁きか?

 振り返ってホームを見ると私を起こした駅員の姿も見当たらない。

 私は独りだ。


 闇を見詰める。


 前の駅までおそらく1キロ程度だろう。千鳥足でも直線なら10分と掛からない。普段なら、こんな馬鹿げた事、迷う事すらなく選択肢にすら入れていない。

 この夜は本当に特別だった。

 私は見詰めた闇のその先に、あの美しい蝶を見つけてしまったのだ。回送電車に連れ去られたはずの蝶が、どうしてだか闇の中で生贄のダンスを舞い踊っている。


 あの美しい蝶を救う勇者になろう。

 何故そんな事を思ってしまったのだろう?どうして私を止める者が誰もいなかったのだろう?そんな単純な疑問すらも浮かばなかった。

 素面なら絶対に選ばない選択肢だ。


 ホームから線路に下りる。

 視線の高さが変わっただけで世界が全く違うものに見えた。正面から見据える大穴は何処までも深く、濃く、地の奥底まで続いている。圧倒的な闇がそこにはあった。


 闇の中を迷子の蝶が飛んでいる。闇に向かって蝶が飛ぶなどあり得ない。素面なら気付くおかしな事象も、この時の私には些事でしかなかった。酔っていたのだ。


 巨大な暗黒が蝶を喰らおうとしている。

 儚くも弱々しい蝶が、もうすぐ親になる私の父性を強く刺激する。幼い頃に自分の親がそうしてくれたように、もうすぐ私も守る側の親になる。守る者がいる勇者に、私はならなければいけないのだ。

 あの蝶は少年だった頃の私だ。


 真っ暗な巨大な穴にふわりふわりと蝶が舞う。

 気が付いたら薄っすらと光を纏う、怪しくも美しい蝶を追って暗闇の中を歩いていた。


「何処に行くんだ?」


 キラキラと闇に散る鱗粉を指標に、ふらふらと覚束ない足取りで蝶を追う。


「なんてキレイなんだろう。」


 捕まえようと伸ばした手が蝶をすり抜け闇を切り、私はバランスを崩して転倒してしまった。私の頭に強烈な衝撃を与えたのは鉄のレールだろうか、それともコンクリートの枕石だろうか?意識が飛んで視界に火花が散り跳ねた。


「痛ってぇ……。」


 すぐに頭を押さえ、傷の確認をする。出血はしていないみたいだ。

 立ち上がって蝶を探す。暗闇の中、視線を周囲に巡らすが、ただひたすら暗黒だけが広がっていた。


「まただ。また消えた。」


 蝶を探して何度も四方八方でたらめに視線を動かしたことで、進むべき方向を見失ってしまった。


「どっちだ?どっちに進めばいい?」


 レールに触れて選択肢を絞るが、どちらから来たのか、どちらに向かっていたのか分からなくなっていた。


 あの蝶は何処に消えたのだろう?手をすり抜けたような気もするし、ただ単に暗闇の中で見当違いな場所に手を伸ばしただけのような気もする。


 蝶という指標を失い、進むべき道が分からなくなったという事実だけが残った。


 暗闇の中で私の息遣いが小さく木霊する。闇が質量を持って全身を纏わりつくように圧迫する。そうして初めて、私は今、自分がとんでもない事をしでかしていると思い至ったのだ。

 酔いなど、すっかり醒めてしまった。


 どれ程の時間、自身に呆れていただろうか?一瞬だったような気もすれば、無限の時を過ごした気もする。

 暗闇に感覚を狂わされていた。暗く深い闇に呑まれそうだ。暗黒が私の精神を蝕み浸食していく。


 私は、私を喰らおうとする闇に抗うために、もう寝ているだろう妻の寝顔を思い浮かべるが上手く思い出せない。もう二年以上も見ていないからだ。ここ何か月もの間、日課になっている子供の名前を考えてみるが、何も思い付かない。漆黒の闇の中で考える名前など碌なものではないからだ。


 とにかく現状を打開せねばと壁まで歩いて手を添える。コンクリートの壁は私が準備していた私の想像と違って、生暖かく少し湿っていた。その感触が巨大な蛇の巣穴にいる村人という妄想へと、私を一気に傾けた。

 もう勇者ではいたくない。勇者ではいられない。

 闇に飲まれた私は、それでも闇を抜けるために壁に触れ、必死に光を求めて足を進めた。方向などどちらでも良かった。ただ光を求めて無心で歩いた。


 しばらくすると闇の先に蛍光灯の明かりが目に入る。私の心を染めた漆黒の闇が少しづつ晴れていく。

 あの駅は私が目指した駅だろうか?それとも私は戻ってきただけなのだろうか?どちらでもいい。地上へ。今の私には空が必要なのだ。


 

 見慣れた駅に胸を撫で下ろす。

 ホームには、まばらながらも何人も人が居た。地下鉄の大穴から歩いて出てきた私に近くの数人が驚愕の顔で後ずさるが、私には、もうどうでも良かった。ただ早く地上へ、空を!その時は、それしか頭になかったのだ。


 改札口で定期券を出そうとして財布がない事に気が付いた。

 どこで失くしたのだろう?いつから無かったのだろう?ともかく、今は空だ。


「えっと、財布を失くしたみたいで外に出たいんですが……。」


 面倒臭そうに手動で改札を開く駅員を尻目に、私は地上への階段を駆けた。

 駅を抜け、外に出ると、朝焼けに薄白く染まり始めた仄暗い空が広がっていた。


「はぁ?」


 心を染めた闇は晴れたが、替わりに混沌と混乱が深く、色濃く、私を染め上げていく。


「なんで?朝?」


 振り返れば、駅の背後にはまだ星々が煌めいている。

 こんな瞬間をなんて言うんだっけ?……思い出せない。

 そんな事よりも家に帰ろう。妻が起きる前に帰らなくては……。

 私は家路へと急いだ。


 あの時かもしれない。蝶を捕まえようとして転倒した時に、頭を打って意識が飛んだ。ほんの一瞬だと思ったが、多分、何時間も気を失っていたのだ。

 財布もその時に落とした可能性が高い。電車に乗っているので、スリにでも遭っていないのなら、あの時しか考えられない。乗るときには当然、財布はあったのだから。

 今は、おそらく始発が動き出す直前の時間だ。地下鉄に轢かれずに生きている私がいる。ホームにいた人達は始発待ちなのだろう。駅員が何も言わずに改札を抜けさせてくれたのも、まだ電車が動いてないからだ。


 それが正解なのか分からないが段々と状況が掴めてきた。

 体中が痛い。どれ程の時間を、あの暗闇の中で過ごしていたのか。

 頭が痛い。二日酔いの鈍痛が脳神経を逆撫でする。


「ああ、吐きそう。」


 口に出た言葉とは裏腹に、混乱からくる不安で、いつの間にか全力で走っていた。

 あの角を曲がれば直ぐに自宅が見える。あの角を曲がれば……。


 見慣れたT字路を曲がって、最初に視界に飛び込んできたのは玄関先でキスをする男女だった。知らない男が女にキスをしていた。女は妻ではない。私の妻は町で一番の美女だ。あんな女なんて知らない。だが、あそこは私の家だ。あいつ等がキスをしているは私の家だ。

 人の家の玄関先で何してやがる!

 怒りで震える足をなんとか動かし、門前にたどり着いた瞬間に嘔吐した。


「なんだ、この酔っ払い!朝っぱらから他人の家の玄関先でゲロ吐きやがって!誰が片付けんだよ?てめぇが片付けるのか?このクソホームレスが!こっちは今から仕事だぞ!気持ちよく出勤しようって時に、何てことしやがる!」


「え?あっ、すみません。」


 男の剣幕に思わず謝ってしまった。怒っているのは私の方なのに。

 他人の家の玄関先?ここは私の家だぞ?クソホームレス?私は今、仕事から帰宅したばかりだ。


 自分の身なりを確認する。

 地下鉄のトンネルで転倒し何時間も線路で寝ていた私は、確かに薄汚れていた。ホームレスに見えなくもない。


 男は女を守るように家の中に匿った。そのあまりに自然な所作に目眩がして、また吐き気を催す。


「うっ……。」


「おい、大丈夫か?」


「……はい。」


「いや、大丈夫じゃないだろ?これ、使えよ。ひでぇ顔してるぜ。」


 男が差し出したハンカチを受け取る。不意に向けられた優しさに怒りが霧散していく。

 この家は、本当に彼の家なのだろう。そして彼は本当は優しい善良な人間なのだろう。

 今、私の陥っている事態は本当に混沌としていて、私自身も訳がわからないが、そのことに関して彼に少しの責任もない事だけは分かる。


「汚して、すみませんでした。」


「まぁ、しょうがねぇな。俺も朝っぱらからキレたくねぇし、嫁の胎教にも悪いしな。」


「奥さん、妊娠してるんですか?」


「ああ、来月、出産なんだ。だから、あんまり不安にさせたくねぇ。悪ぃけど、あんた、もうここらをうろつかねぇでくれ。」


「……。」


 なんと返していいか分からず、俯いたまま無言で踵を返した。

 男は私の吐しゃ物を片付けるために掃除道具を取りにいったようだ。彼は良い旦那なのだろう。幸せなのだろう。分かるぞ。私には彼の気持ちが分かる。誰が何と言おうとも私には分かるんだ。私には分かるん……。


 涙が頬を伝って流れた。気付いたら泣いていて、気付いてしまったら止める事が出来なかった。堰を切った様に流れ出た涙が、ぽたぽたと地面を濡らす。

 いや、違う。本当に私が気付いたのは涙なんかじゃない。それに気付いたから涙が出たのだ。

 男から受け取ったハンカチを見る。

 白く清潔な正方形の布地の端に『SATO』の刺繍。彼の名前だろう。


 そして私は……、私は……、私は……、誰だ?


 自分の名前が分からない。思い出せない。

 愛する妻の顔を思い浮かべるが、その顔は靄がかってボヤけてしまう。彼女の名前は……、思い出せない。

 昨夜、一緒に飲んだ友人たち、誰一人として顔も名前も思い出せない!思い出せない!!思い出せない!!!


 自分の人生は思い出せる。思い出はある。どんな子供だったか、どんな時にどんな事を思い、どんな事をしたか、思い出は確かにある!

 妻と何処でどうやって出会い、どんな風に結ばれたかも思い出せる。彼女がどんな事で笑い、どんな事で喜ぶのか、一つ一つの仕草や癖も、纏っている優し気な雰囲気すらも憶えている。ただ、彼女の名前と彼女の顔が思い出せない。

 友人たちとの昨夜の会話も、終電に乗って今、ここに至るまでの経緯も憶えている。ただ、自分自身の存在の根源的な情報だけが頭からすっぽりと抜け落ちていた。




 私はいつの間にか公園のブランコを揺らしていた。足元には、ぶちまけたビジネスバッグの中身が散乱している。

 私自身に関する情報は何一つ得られなかった。


 一冊のノートを拾い、ぱらぱらと捲る。

 何が書かれているのか、全て憶えている。来月に産まれる私の子の名前だ。ノートには千にも届きそうな無数の名前がびっしりと書かれていた。私はその全てを憶えているのだ。

 このノートが……、今は、このノートだけが私が私として存在していた事の証だ。

 最後のページには一際大きく『一朗』と書かれていた。

 憶えている。憶えているぞ!最初に女の子の名前を思い付いたんだ。だから男の子の名前は後ろから書くようにしたんだ。

 『一朗』は最初に思い付いた男の子の名前だ。

 尊敬する大好きなサッカー選手から取った名前。彼のように凄い男になって欲しい。そんな風に始めは思ったけれど、すぐに一緒にサッカーが出来れば、それでいいかと考え直したっけ。


「フハハハッ、ハハハハハッ、アァハッハッハッ!」


 なんだ、それ?

 私は世話になった友人の一人も、死んでもいいと命を懸けて愛している女も、自分自身の名前すらも憶えていないというのに、遠い異国の地で活躍したサッカー選手の事は憶えているだと……。

 なんなんだよ、それ!!

 まだ産まれてもいない、まだ見ぬ性別も分からない我が子の名前だけは千通りも憶えているだと……。

 なんだよ、なんなんだよ、それ!!!


「ハハハッ、アハッ、アハッ、アァ…、ウッ……、ウゥ………、ァァアアァアァァア!!!!!」


 気が狂いそうだった。もしかしたら、とっくに狂っていたのかもしれない。

 自分自身の名前すら忘れてしまったのだ。正常でないことだけは確かだった。


 笑い声は泣き声に変わり、その泣き声もすすり泣きに変わっていった。

 ノートの表紙が涙で波打つほどに濡れた頃、東の空はすっかり暮れていて、西の空は茜色に染まっていた。

 こんな瞬間をなんていうんだっけ?……思い出せない。


 涙に濡れて質量も厚みも増したノートを見る。

 もうすぐ産まれる。あと一月もすれば産まれてくるんだ、私の子が!

 妻が独りだ。彼女を独りにはできない。顔も名前も思い出せないが、思い出が確かにある!

 初めて彼女を抱いた夜、一生添い遂げようと心に決めた。結婚式で神に誓った、死んでも彼女を愛し抜くと!


 左手を見る。あの日、あの時、神の前で誓った決意の証が薬指に光っている。

 戻らないと!帰らないと!顔も名前も思い出せないが、愛してる!この胸に、狂おしい程に愛しい感情が確かにある!


 私は駅に向かって走っていた。


 あの地下鉄の暗闇の大穴に私自身の存在を証明する鍵がある。落とした財布に身分を証明するものが何かしら在る筈だ。

 こんな事態に陥った鍵も、きっとあそこに行けば、行けさえすれば……。


 駅は多くの人でごった返していた。誰も彼もが家に帰るために、家から何処かに行くために此処にいる。

 あの楽しそうに談笑しながら歩いているのは学生だろうか?これから、それぞれの家路に着いて家族で夕食を囲むのだろう。

 あの急ぎ足の女性は恋人とのデートだろうか?きっと、なかなか今日の服が決まらなくて家を出るのが遅れたんだろう。


 改札口で中に入れない事に気が付いた。財布がない。金がない。


「あの、すみません。中で財布を落としてしまって……。」


「遺失物は駅事務室で確認してください。」


 そんな事は分かっている。絶対に私の財布は事務室なんかには無いんだ。あの財布は次の駅までの線路上に落ちているんだ。今も、きっとそこにある。


 駅事務室で遺失物の係員を呼んでもらう。選択の余地はなかった。線路を歩かせてくれ、などと言える訳がない。


「失くし物ですね。こちらの用紙に、ご記入お願いします。」


 出された用紙を前に愕然とする。私はその用紙の一項目すら埋める事が出来なかった。住所も氏名も失くした財布の中身も、何も思い出せない。


 ペンを手に動きを止める私に、駅事務員が訝しげな視線を向ける。

 私は焦りから思わず、住所を飛ばして氏名の欄に『佐藤一朗 サトウイチロウ』と書き込んだ。

 だが、そこでまた手が止まる。もう何も書けなかった。


 駅事務員の視線が不審者でも見るような、険しく疑わしげなものに変わる。


「此処で、このまま少しの間、お待ち頂けますか。」


 担当していた事務員が人を呼びに席を離れた。


 不自然だっただろうか?だが、どうすればよかったのだ?今の私の状況をなんと説明すればいい?

 地下鉄のトンネルの奥底で財布を落とした?自分の名前が思い出せない?顔も名前も知らない妻がいて出産を控えている?

 ダメだ!何一つ話せる事はないし、話したら間違いなく警察か病院送りだ。


 最後の空欄を見る。

 『遺失物件』。

 私はその空欄に『自分』とだけ書き込んで、逃げるように駅事務室を出た。



 



 ここは私の世界なのかもしれないし、私の世界ではないのかもしれない。

 はっきりと分かっているのは、どちらにせよ、この世界は私から全てを奪ったという事だ。時間さえも……。


 もう50年も、あの夜に失くした財布を探している。

 身元の証明どころか何一つ存在の証を示せない私が真っ当な職に就ける訳もなく、『サトウイチロウ』の名で怪しげな仕事を日雇いでこなす、その日暮らしを50年だ。


 奇しくも、あの時、私の家の玄関先でキスをしていた、あの幸せそうなSATOという男が言ったように、私はホームレスになっていた。


 駅も随分と様変わりした。改札は全自動で、切符を切る改札員などもういない。トンネルも電光の広告看板が煌々と光り続けて、暗闇の大穴とは言えない程度に明るくなってしまった。

 駅の周辺も開発が進み、ビルが建ち並んで一軒家など殆んど見ない。SATOが住んでいた私の家だったはずの家屋も、ずいぶん前に高層マンションへと姿を変えた。

 終点だったあの駅も、路線を伸ばして、今は寝過ごすことも出来なくなった。

 変わらないのは私だけだ。いや、私は変われないだけか。比較する元の自分が分からないのだから。それでも老いで容姿はすっかりジジイだ。


 この50年で何度も地下鉄の大穴に潜り込んだが、財布は痕跡すらも見つけられなかった。

 路線も拡張されて、何人もの人が、何度もあの線路の上を歩いただろう。きっと、もうあの場所には何も無い。

 分かっている。だが、そんなものは認めない。


 そうして今も私は、私の失くした私自身を諦めきれずに地下を彷徨う。今日こそ、今夜こそ、私は私を取り戻す。その思いだけで独り巨大な蛇の魔王の巣穴を歩く。勇者でも、村人でもなく、亡霊のように。


 私はただの気の触れた、頭のおかしなジジイなのかもしれない。

 あの夜、終着駅のまどろみの中で見た、幸せな夢の続きを探し求めているだけのような気もする。

 答えは、私を闇にいざなった、あの蝶だけが知っている。


 それでも左手の薬指に光る誓いの証は確かにあるし、私が妻を愛し抜いた事実だけは何があろうと変わりはしない。


 ずっと気がかりだったのは子供の事だ。男の子だろうか?女の子だろうか?

 ハハハッ、子ってなんだよ?きっと、もう家庭を持って自分の子もいるだろうに……。

 ごめんね。君の名を呼べなくて……。でも、信じてほしいんだ。お父さんは君を愛してるよ。今までも愛してた。これからも愛してる。


 もう時間だ。始発待ちの人々が来る前に、こっそりと外に出ないと……。


 地上へと繋がる階段を昇り、駅を抜け、外に出ると、朝焼けに薄白く染まり始めた仄暗い空が広がっていた。振り返れば、駅ビルの背後には、まだ星々が煌めいている。

 こんな瞬間をなんて言うんだっけ?……ああ、そうだ、思い出した。確かこんな瞬間を、こんな風に言うんだった。それは……。


 不意に私の眼前を何かが横切った。

 蝶だ!あの蝶だ!!

 蝶は、ふわりふわりと乱高下のダンスを舞い踊りながら、まだ星の瞬く西へ、駅へと向かって飛んでいく。

 私はキラキラと薄闇に散る鱗粉を指標に、ふらふらと覚束ない足取りで蝶を追う。


 お願いだ、蝶よ!私を帰してくれ!愛する妻の待つ私の家へ!彼女に伝えたい事があるんだ!

 君を愛してる!ずっと、ずっと、今までも愛してた!ずっと、ずっと、これからも愛してる!


 彼女にキスをするんだ。

 見詰めあってキスをしよう。君の顔を見せてくれ!

 しわくちゃのお婆ちゃんでも構わない。君にキスをしよう。50年分の愛を込めて……。

本編が倍怖くなる、絶対に知っておいてほしい基礎知識と少しだけ解説

①サトウイチロウとは鉄道関係者の間で使われる身元不明の轢死体に対する隠語。身元不明の水死体に付けられるドザエモンのようなもの。都市伝説。

②日の出直前の数舜と日の入り直後の数瞬を彼は誰時(アレハタレドキ)と言います。彼は誰時(カワタレドキ)とも言い、目の前の人物が誰なのか認識出来なくなる薄闇の時間帯の事。黄昏(誰そ彼)時(タソガレドキ)が日の入り直後だけを指す言葉なのに対してアレハタレドキは日の出、日の入り両方に使われる言葉です。

③マルソーとは、欠片、一部、短編という意味。短編でも、コメディやハッピーエンドではなく、切なく、物悲しい短編にだけ使われる言葉です。まぁ、本作はホラーなんですけどね。

④胡蝶の夢をベースに、隠し味にギリシャ神話のスフィンクスの謎掛けを少し。

⑤村人=まだ何者でもない少年期 勇者=守る者が出来た青年期 亡霊=全てを失った老年期 物語の中で男の人生が一周し、太陽も一周して、彼の時間も……。


恐怖の根源とは未知が故に、死以外で恐怖を演出するなら、自分の事が分からないというのは物凄く怖い事なのではないでしょうか?

いったい何時から男の記憶はおかしな事になっていたのでしょう?

アナタの記憶は本当にアナタのものですか?今、アナタがいるのは本当にアナタの世界ですか?寝て起きたら夢と現実が入れ代わっているかもしれませんよ。そもそも、アナタは既に死んでたりして(タモリ風)……。

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― 新着の感想 ―
[一言] 面白いです。 胡蝶の夢と申しますか、救いのない話ですね。
[良い点] 恐いホラーと言うより、とても哀しいヒューマンドラマだと思いますね。 私はホームレスの炊き出しボランティアの経験があるので、現実の世界でも、ちょっとしたきっかけで居場所を失ったり、ショック…
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