表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

威力偵察と騎兵(後)



 騎兵というものは、種類が多いしころころと流行りの武器種が増えるし、さらに同じ名前で武器を持ち替えるし、歴史を調べ始めるとどうにもならない存在です。歴史的な言葉をいくら正確に使っても、そのことによって概念的な理解が進まないのです。ここからしばらく、この原稿限りの言葉遣いがいくつか登場します。


 騎兵には3種類あります。軽騎兵と重騎兵と乗馬歩兵です。あっなんだか天井に石の音がしていますね。「戦場の近くまで乗っていって、戦うときは馬を降りる」のが乗馬歩兵です。弓やクロスボウを持った兵士は、降りることで動作が自由になりますし、馬を狙われることがなくなります。クロスボウの再装填には足の力を使うタイプもありましたからね。騎兵の歴史の最後近くになって、ここに小銃が加わりました。ただ自動車みたいに乗り捨てておくわけにもいきませんし、不安な馬をなだめる人手が割かれるので、乗馬歩兵は「人数のわりに戦力が小さい」宿命を持っていました。それで第2次大戦期のドイツ騎兵が自転車化歩兵と組んだりしたわけですね。


 さらに馬と馬車に乗って素早く進出し騎兵を助ける騎砲兵も、乗馬歩兵の超進化形に入れてもいいでしょう。馬上で撃つわけじゃありませんからね。うーん……と書いていて自分でも考え込むのはですね。ほら。ガトリング銃というのがあったでしょう。ああいう初期の重い機関銃は馬車で運びます。だから第2次ボーア戦争でコルト機関銃が輜重馬車の自衛用に使われたケースがありまして、そうすると馬上で撃っているようなもので……まあシルベスター・スタローンを例にとって歩兵火器の定義をするようなものですね。ロシア陸軍の機関銃馬車であるタチャンカも有名です。


 騎手と、ときには馬に鎧を着せ、体力のある大柄な馬に乗せて敵に突っ込むのが重騎兵です。優勢になってからの追撃ならわかりやすいのですが、「敵陣に乱れや疲れが見え、ここで突入すれば優勢確立」というタイミングをつかめれば上々で、フリードリヒ大王の騎兵指揮官だったザイドリッツはこの判断が上手かったと言われます。これに対して、軽装の騎手がスピードに頼って偵察や襲撃にあたるのが軽騎兵です。


 手綱を持って上から振り下ろす戦い方になりますから、長い片手武器がいいわけですが、軽騎兵は早々に長柄武器をあきらめて、せいぜいサーベルくらいの長さの武器を持つようになりました。そしてピストルです。連発できるリボルバー・ピストルの登場年代は、どれくらい扱いにくいものを実用品と認めるかという問題になるのですが、少なくとも南北戦争の少し前に登場したレミントンM1858は、まだ金属薬莢ではありませんが「シリンダーの6つのくぼみに装薬と弾を詰め、予備シリンダーごと交換する」荒業で、連発しながら長時間の戦闘に耐えるものでした。それでもゲティスバーグの戦いで南軍騎兵隊の前に立ちはだかったカスター名誉少佐(当時)は、やはり(指揮刀としての)サーベルを抜いて部下たちの先頭に立ったのですが。


 連発できる前から、ピストルは軽騎兵の有能な相棒でした。どうせ有力な敵とは短期間しか交戦しないのが軽騎兵ですから、再装填できなくても利点が大きいのです。そして馬上刀や槍を持った重騎兵とも、ピストルなら割のいい戦いができました。安上がりな軽騎兵に食われては重騎兵がたまりませんから、重騎兵がピストルを持つこともありました。ただピストルになると国によっては「個人武器」であり、何を持つか、あるいは持たないかは本人の懐次第で、「実例あってルールなし」という印象です。


 遊牧民族の軍では、両手を使って馬上で騎射する軽騎兵がよくみられました。日本でも鎌倉時代のころまでは鎧武者が主に弓で戦い、しばしば至近でも零距離射撃をやったと言われます。これはきわめて高い練度が必要ですから、幼少時からそうした訓練をする社会や家族制度とともに興ったり廃れたりしました。


 歩兵は騎兵の突進に対し、時間と予算の余裕があれば長篠の合戦のように馬防柵で応じるのでしょうが、普通は槍ぶすま(18世紀以降は銃剣)や、個人のポールウェポンで応じました。これに応じるべく槍を長くすることもありましたが、そこは歩兵や砲兵の共同攻撃に期待して、少し長い程度の馬上刀や槍を振り下ろして戦う重騎兵もいました。



 一部のフランス重騎兵は第1次大戦まで胸甲をつけていましたし、ポーランド重騎兵(フサリア)は第2次大戦直前まで5m前後の長槍(コピア)を支給されていました。しかしプロイセン陸軍でも普仏戦争のあとにはカービン銃が作られるようになり、重騎兵はサーベル、カービン銃、ピストルといった軽くて火力のある兵器を受け入れ、それとともに防弾チョッキの様な胸甲をとうとうあきらめ、軽騎兵と装備の差がなくなっていきました。軽騎兵と重騎兵に差があるとしたら、それは部隊に与えられた性格と任務の差……ということになります。


 すでに述べたように、サーベルをかざして突撃するのは、軽騎兵であれば敵がそれほど有力に見えないとき、重騎兵であれは敵歩兵の防御が弱まった好機を見透かして、勝負を決めるときでした。ワーテルローの戦いではすでに、イギリス歩兵陣地に騎兵単独で突撃を命じたネイ元帥の判断が戦後に酷評されましたが、ネイ自身が攻撃失敗後に誤りを自認して、砲兵と歩兵を加えて再攻撃を試みました。騎兵はもう、騎兵だけで戦う兵種ではなくなっていたのです。


 1870年8月16日、普仏戦争におけるMars-la-Tourの戦いは、プロイセン騎兵最後の「突撃による勝利」だともいわれています。プロイセン騎兵800騎が砲兵陣地を蹂躙し、戻ったときには420騎でしたが、それでも砲兵陣地は壊滅したので勝利とされます。突撃直前まで気づかれず近づける地勢でしたが、すでに小銃は改良と訓練で、短い突撃のあいだにドイツ騎兵にそれだけの出血を強いるものになっていました。東部戦線や中東では第1次大戦になっても騎兵部隊が襲撃できる獲物がたくさんありましたが、戦力のすき間が小さい西ヨーロッパ戦線では騎兵が火力に阻まれない状況はなかなか訪れませんでした。


 さて、第1次大戦までの騎兵が持つ、軽く2000年はある歴史を簡単におさらいし終わりました。ここからは戦間期のドイツ陸軍教則を中心に、「騎兵概念の浸透と拡散」を追っていきたいと思います。


 威力偵察はドイツ語ではGewaltsame Aufklärungと言いますが、同義語としてKampfaufklärungというのがあります。そのものズバリ「戦闘偵察」ないし「戦闘捜索」ですね。


 1921年と1925年に分けて出版された「Führung und Gefecht der verbundenen Waffen(連合兵種の指揮及び戦闘)」は「F.u.G.」とか、編さんにあたった中心人物の名を取って「ゼークト教範」とか呼ばれます。1933/1934年に出た改訂版を合わせて、『軍隊指揮:ドイツ国防軍戦闘教範』の名で作品社から日本語版(基本的には、日本陸軍が訳したものの復刻)が出ています。第2次大戦に向けて騎兵はだんだん自動車化されていくわけで、それはまあ在来型騎兵の否定でもあるので、伝統をどうしようか迷っている途中の1921/1925年版を中心に見ていきます。


「作戦的遠距離捜索は、軍騎兵の主要なる任務なり。…(中略)…各騎兵部隊は、任務と状況の許す限り、敵の騎兵を攻撃すべし。…(後略)」と第132項にあります。軍騎兵というのは、歩兵師団などの指揮下にない軍司令部直轄の騎兵ということで、言い換えれば騎兵旅団、騎兵師団などにまとまって動く騎兵ということです。ベッタリと塹壕が戦線を覆っている状況だとまた別ですが、そうなる前の段階では互いに騎兵部隊を偵察に出し、敵の騎兵部隊も同様に出てくるというのがF.u.G.の世界観なのです。だから騎兵部隊は小隊だろうが中隊だろうが、敵騎兵の偵察を失敗させるよう努力しないといけないわけです。相手の騎兵が封じ込められているとき、一方的にこちらだけ敵情を知っていれば有利です。第163項には重ねて、「各級騎兵指揮官は、たとい別命なきも、自ら戦闘捜索を遂行するの責を有す」とあります。


 近距離捜索はもっと狭い範囲で、歩兵師団などが持っている隊属騎兵(第154項)や騎兵以外の戦力を使って行われます(第118項)。


 F.u.G.の第119項は、すでにアメリカ軍のマニュアルを使って説明した「威力偵察」とあまり変わらない内容を「戦闘偵察」の内容として説明した後、「各兵種とも、戦闘偵察に参与するものとす」と結んでいます。つまり意図的に偽の攻勢をかける「戦闘偵察(威力偵察)」はもう騎兵だけのものではないわけですが、遠距離偵察も同様です。第136項は、遠距離捜索でまとまって動く「捜索隊」の規模を1個中隊から1個連隊と定め、砲や機関銃、電信班などを編合すべきだと書いています。


 戦闘偵察の定義は現代アメリカ軍のRIFとほぼ同じなのですが、「騎兵は敵騎兵を見たら突っかけろ」とはアメリカ軍は言いません。第2次大戦までの騎兵は無線機を持ってない……ということだろうと思います。無線機を持たない偵察隊が偵察隊と出会ったら「指示を仰がず仕掛けろ」ということなのです。持ってたら指示を仰ぐのが当然だから、当然のことはマニュアルに書いてないのですね。


 第138項には「捜索隊の行程、過大に失するは戒むべきことにして、該隊のため、もっとも困難なる活動は、敵と衝突後において、はじめて生起するものなり」とあります。敵と出会ったとき、相手の情報をつかみ、こちらの情報を与えないことが捜索隊の第一の役目だから、敵と出会わないことを当て込んで遠くまで行く計画など立てるな。相手も無能ではないぞ……ということでしょうね。


 F.u.G.の編まれた時代ですでに、攻撃成功後の追撃について記した第294~297項は主に砲兵による追撃が語られ、敵兵の退路をさえぎる迂回追撃でわずかに騎兵への言及があるだけです。重騎兵古来の戦い方は、ドイツにおいてはすでに無理っぽいと思われていたということですね。前回も書いたように、広大な場所を小兵力で何とかする機会の多いソヴィエト、ポーランド、そしておそらくイギリスはドイツと温度差がありましたが、イギリスは騎兵の機械化(自動車化、装甲車化、戦車化)に舵を切って、膨大な数の騎兵系連隊群を(少なくとも当面)ツブさずに転換していきました。イギリスの「連隊」は地元貴族などをパトロンとするもので地域有力者に根を張っており、連隊から送り出した大隊に不満がたまると、政治ルートで地元連隊の関係者から師団・旅団に伝えられる(つまり圧力がかかる)こともあったと言います。ですからイギリスでは各種連隊の整理・統合は総じて第2次大戦後に持ち越され、第1次大戦に負けて強制的に多くの連隊を解散させられたドイツとは真逆の悩みを抱えたままでした。


 すでに述べたように第2次大戦を待たず、威力偵察はすでに騎兵だけでやるものではありませんでした。この偵察隊が装甲車やオートバイ、軽戦車、自走砲などを加えて近代化・高火力化して現代にいたるわけです。そしてこうした顔ぶれは、小戦力でバラバラに追撃してくる敵を叩いてさっと逃げ、主力が退却する時間を稼ぐ「遅滞戦闘」にも役に立ちます。ソヴィエトに相当数残っていた騎兵部隊は、第2次大戦終盤にはコルスン包囲戦の末期など、優勢な状況で敗残兵を追撃する「古来の」任務で成功することもありましたが、1942年のコーカサス戦線では支える者もいなくなった戦線で果敢に襲撃を繰り返し、時間を稼ぎました。


※5/27 誤植修正

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ