朝一番の人
その日も、僕は朝一番で登校した。
誰もいない教室。
僕は、窓を開けると席につき、カバンから小説を取り出した。
最近凝りだした、太平洋戦争のIFを題材にした架空戦記小説だ。
内容を追いながら、静かに耳を澄ませる。
そうやって五分か、十分ほどした頃だった。
僕の耳に足音が聞こえてきた。
足音は僕の教室に入り、隣斜め前の席についた。
僕はわずかに顔を上げて確認する。
間違いなく、桜庭さんだった。
桜庭さんは手早くカバンを机にかけると、僕と同じように本を読み始めた。
字の密度から小説だろうという想像はつくが、ここからでは詳しくはわからない。
いっそ桜庭さんに訊いてみればいいのかもしれないが、どうしてもその勇気が出ない。
わずか数十センチほどの距離なのに、僕にはオアフ島よりもずっと遠いように思えた。
***
「おンめぇ勇気ねーんなぁ」
話を聞き終えた駒場はにやにやと笑いながら言った。
「でもさ、仕方ないだろ? 近寄りがたい雰囲気なんだから」
僕の反論に、駒場は軽く手を振った。
「雰囲気なんか読んでたら一生声かけらんねーぞ。それでいいん?」
「まあ、確かによくないけどさ……」
僕はため息をついた。
教室の賑わいの中で、僕らの話は桜庭さんにどのように聞こえているのか、気になった。
もっとも、桜庭さんの方では僕を特別視しているはずがないから、単なる喧騒の一部でしかないだろう。
そっと桜庭さんの方を覗うと、友達と話しているようだった。
「よし、一つ体当たりのつもりで行って来い。話題の尻尾を掴んで会話に割り込むんだ」
「それができるならわざわざ一人の時に話しかけようとなんかしないよ」
「いいから行って来いって。大丈夫、骨は拾ってやるから」
「失敗するの前提かよ」
「だから、失敗なんか気にすんなって言いたいんだよ。ほら、坂本なんとかさんだって試験落ちそうになっても諦めないでパイロットになったんだろ?」
「坂本じゃなくて坂井ね。……あっ、予鈴だ」
「うぬぬ、者ども、引き上げじゃあ!」
スピーカーからチャイムの音が聞こえてくると同時に、先生が教室に入ってきた。
駒場が武将のような声を上げながら慌てて席に戻る。
結局、僕が決断できないでいるうちに時間切れになってしまったのだ。
「起立……注目、礼!」
日直の号令とともに、朝のホームルームが始まる。
今日も、いつもの一日になりそうだった。
***
桜庭美月さんは、地味な子だった。
物静かで、自己主張も強くない。
そのせいか存在感も薄くて、その意味では少し不気味でさえあった。
なにしろ、気がつけば席にいて、本を読んでいるのだ。
時折後ろの席の友達と話している以外、誰かと話しているのを見たこともなかった。
教室移動の時もその友達と二人、特に何を話すでもなく歩く姿は、まるでよくできた自動人形のようにも見えた。
友達が少ないというより、いない。
けれど、僕は何故か、桜庭さんが気になった。
毎朝教室で二人きりになるから、なのかもしれない。
あるいは、同じように読書が趣味だから、かもしれない。
もしかしたら、理由はなくて、ただ気になるだけなのかもしれない。
悪友の駒場に言わせれば、「恋に理由は要らない」らしい。
これが恋なら、それは本当なのだろう。
もっとも、恋人のいない駒場が言っても説得力はまるでないのだが。
そして、僕は今日も朝一番に教室にいる。
『雰囲気なんか読んでたら一生声かけらんねーぞ』
昨日の駒場の言葉が脳内で再生される。
やがて、いつも通りに桜庭さんがやって来て、いつも通りに本を読み始める。
声をかけるなら今だと思うが、その勇気がどうしても持てない。
今日も駄目か、と思いつつ手元の小説に戻った僕は、ある台詞に目が留まった。
『よし、一つ体当たりのつもりで行って来い』
僚艦が大破炎上する中、決死の反撃に出ようとする空母の航空隊に司令官が訓辞した台詞だ。
その台詞を見た瞬間、心の中に勇気が湧いてきた。
勇気というよりは、覚悟といった方がいいかもしれない。
とにかく、嫌われても構わない、それで失うものなどないという気持ちがむくむくと湧き上がってきたのだ。
僕は意を決して立ち上がった。
緊張で高鳴る胸を押さえつつ、ゆっくりと歩いて桜庭さんの前に立つ。
気配を察してか、桜庭さんが顔をあげた。そこには、小さいながら驚きの表情があった。
いざ目の前に立つと、さっきまでの勇気はどこへやら、僕はぴくりとも動けなくなってしまった。
それでも、必死で真っ白になった頭の中をかき回す。何か言わなければ。
桜庭さんの視線が僕を捉えている。
切り揃えた前髪と野暮ったい黒縁眼鏡の間で、眠そうな垂れ気味の目に警戒の色が浮かんでいるのがわかる。
何か、言わなくては。そもそも、僕はどんな原稿を用意していたんだっけ?
「あ、あのさ。いつも、何読んでるの?」
限界だった。
今の僕には、これ以上の言葉が思い浮かばなかったのだ。
駄目だ、と思った。
桜庭さんに嫌われた。
ところが、次に起きた展開はそんな僕の思いとは真逆の結果だった。
「小説、です。いわゆるハイ・ファンタジーなんですけど」
桜庭さんはそう言って本の表紙を見せてくれた。
革鎧を着た青年と耳の尖った女性が描かれた、漫画のような表紙。
僕も何度となく読んだ、冒険ファンタジー小説だった。
「それ、僕も前に読んだよ。面白かった」
「私はこれで五週目くらいなんです」
桜庭さんは笑った。
慎ましやかな、桜庭さんにふさわしい笑顔だった。
僕の中で、緊張が氷のように溶けていった。
今日は、幸せな一日になりそうだ。