5-15 魂の記憶
僕は、病院のベッドの前に立っていた。
妹はベッドの上で寝ている。
妹のバイタルが表示された計測器が一定のリズムを刻み、それが正常であることを示していた。
少し前までは真逆の立場だったことに気づき、あのときの妹は何を思っていたのだろうと考える。きっと、どうしようもなく不安だったに違いない。
今の僕と同じように。
バイタルだって安定しているし、顔色も良い。妹の場合に限っては外傷はほとんど治っているし、点滴も少し前に外された。
それでも、今この瞬間、突然いなくなってしまうのではないかという不安感に襲われる。
……千尋と同じように。
妹から千尋の記憶を消してしまうことに対しては、抵抗が無かった訳ではない。しかし、今、妹の寝顔を見て、覚悟を決めた。
僕はこの笑顔を守らなくてはならない。そして、今の僕にはこれを守るだけの力がある。
世界でたったひとりの、僕の妹。
「かぐや、やろう」
「本当によいのか」
僕の影から現れたかぐやが、僕に問う。
「覚悟は、決めた」
「ならよい。悪鬼も倒したしの。悔いはないわい」
死神を辞めさせられるかもしれないというのは、覚悟しておかなければならない。死神を辞めたらどうなるのか、死ぬのか。考えておくべき事は山ほどあるが、それに時間を割いている暇などない。
僕は呼吸を整え、妹に手をかざす。
すると、優しい風と柔らかい光と共に、それは浮上する。
妹の魂だ。
一見すると水晶玉のような見た目だが、所々が磨りガラスのようになりもろくなっているのがわかる。
魂と肉体には間をつなぐケーブルのようなものがあり、それを《柱》と呼ぶ。本来であれば、この部分を断ち切り、死者をあの世へ送るのだが、今は違う。
この磨りガラスのようにもろくなっている部分が、千尋の記憶だ。
僕はこれを、切除し、破壊する。
妹の魂を前に、かざした手には鈴のついた黒い匕首が現れる。
僕はそれを手に取ると、熟れた林檎の皮を剥くように、絡まったコードを解くように、ゆっくりと丁寧に切り取っていった。
10分もしないうちに、すべての除去が完了した。
妹の魂は一回り小さくなったものの、綺麗な水晶玉の形をしている。粘土玉を少しずつちぎり、それを取り除いたうえで丸めなおしたと考えればわかりやすいだろう。
始めたときと同じ要領で、魂を身体に戻す。
想定していたすべての工程が終わった。深い溜め息をついてイスに座り込む僕に、かぐやは一言「お疲れ様」と言った。それは本当に労っているようでもあったが、僕にとっては、別れの挨拶のように聞こえた。
「……お兄ちゃん?」
妹は目を覚ます。
「私、なんで病院にいるんだろ。……うぅ、思い出せない。なんでだろ……大事なこと忘れてる気がする……モヤモヤするぅー!……はっ!もしかして、頭打ったとか!?」
「大丈夫。悠羅はいつもの悠羅だよ」
「そうかなあぁ……」
成功した。以前の妹に戻った。
僕はまた、救えたんだ。
◇◇◇
両親や先生には、千尋のことを完全に忘れている、ということは僕から説明した。
極度のショック状態による記憶のねつ造は、幾つも例があるため、記憶が消えてしまうということもありうるだろうという話だった。
記憶が消える前の状態を鑑みて、敢えて思い出させることはしないほうが良いということになり、千尋に関する写真などはすべて処分した。
つもりだった。
引っ越しの片付けをしている最中、おそらく最後の一枚であろう、千尋の写真が発見された。これは、去年の夏、家族ぐるみのキャンプをした時の写真で、妹と千尋が楽しそうに写っている。
そしてそれは、妹の手によって発見された。
「お兄ちゃん、これ誰ー?」
「去年のキャンプで偶然仲良くなった子だよ。その日しか会わなかったから、覚えてないかもね」
妹は写真を眺めながら考え込んでいる。
「私この子と喧嘩とかしてた?」
「してなかったと思うけどな…」
今すぐ写真を奪い取りたい気持ちを抑え、妹の問いに答える。
「じゃあなんで忘れちゃったのかなぁ…写真の私、すっごい楽しそうなのに」
「その日しか会わなかったし、去年のことだから、忘れても仕方ないんじゃないかな」
「でも、勿体ないよね」
妹は写真を抱いて言った。
「だって、嬉しいことも、楽しいことも、辛いことも、悲しいことも、全部私の思い出だもん。私だけの思い出。きどあいらくっていうの?そういうの全部が、私を作ってるの。それに、辛くて悲しいことがあっても、いつか笑ってその時のことを話せる日が来ると思うの」
思い出すべてが、自分を作っている。それは、魂に関する死神の考えそのものだった。
「ねえ、どうして私は何も覚えてないのかな」
その言葉を聞いたとたん、僕の中で何かが崩れていくのがわかった。
今目の前にいる妹は、本当の妹ではない。僕がこの手で壊してしまった。
向き合い、克服したはずの何かが、どっと押し寄せてくる。
「お前が殺したんだ」
「お前が余計なことをしなければ」
そんな言葉が蝉時雨のように僕を穿っていく。
なんでも救える気になって、勝手に救った気になって。
僕は、何もかも壊してしまった。




