5-14 兄の気持ち
なぜか家中の電気が消えており、真っ暗だった。2階の電気をつけ、母親の寝室などを見て回るが、誰もいない。
僕は階段を下りたところである音がしているのに気づいた。
シャワーの音だ。
妹は風呂に入っているのだろうか。
ゆっくりと脱衣場の方を覗くと、その部屋と浴室だけ電気がついていた。
同時に、この部屋から血の臭いがするということにも気がついた。
シャワーの音はするが脱衣場に服がない。
「悠羅ー?いるのかー?」
返事はない。
僕は浴室の扉に手をかける。
中に妹がいたら大惨事になってしまうが、この嫌な臭いの根源を突き止めなければいけない。
僕はゆっくりと浴室の扉を開けた。
僕の足に何か堅いものが当たってカチャリと音をたてる。
「カッター……?」
僕が妹に貸したカッターだった。でも、こんな色ではなかったはずだ。刃全体が赤黒く染まっていて、刃ではない部分には何かが飛び散っている。
「血……!」
僕はカッターから目を反らすように湯船の方に目をやった。
悠羅は、服を着たままそこにいた。
「悠羅!」
声をかけるが返事はない。気を失っている。
湯船にたまったお湯は赤く染まり、悠羅の身体は半分ほど浸かっていた。
僕はシャワーを止めると悠羅の身体を湯船から引きずり出した。
脱衣場まで持ってきたところで僕は見た。
悠羅の右腕の頸動脈に、深い傷が刻まれている。
「……お兄ちゃん、ごめんね……」
今にも消えてしまいそうな声で悠羅は言った。
「だめだ!喋るんじゃない!」
僕はバスタオルをちぎり、包帯代わりに悠羅の右腕に巻きつける。
その間も妹はしゃべり続けた。
「……これ、自分でやったの。でも……お兄ちゃんがいるってことは、まだ、生きてるんだ……千尋ちゃんのところに、行けなかった……今度は覚悟決めてやったのになぁ……」
自分でやった?千尋のところに行く?
今度は覚悟を決めてやった?
悠羅、君は死のうとしているのか?
僕は救急車を呼び、両親に連絡。
ただ、訳がわからなかった。
訳が……わからなかった。
◇◇◇
幸い、命は助かった。
至極簡単に言ってしまえば、妹は、リストカットをしたのだ。
リストカットをした後、傷口をお湯に浸けておくと血が止まらず、出血多量で死んでしまう。
妹はそれをどこかで知ったのだ。
カウンセリングを主な目的とした入院生活を送ることになった妹だが、なぜリストカットをしたのか、僕は分かっていた。
千尋のことだ。
妹は、千尋の死を未だに受け入れられていなかったのだ。
「千尋ちゃんのところへ行けなかった」僕が妹を見つけたとき、妹は確かにそう言っていた。
千尋のところへ行きたい。しかし、理由はこれだけではないだろう。
千尋が死んでしまったことで、自分の中で何かが無くなり、自分が自分で無くなってしまったような感覚になったのだ。
自分は悠羅だと確かめるために自分を傷つけ、痛みを感じて、それを確認する。
その気持ちは、痛いほどにわかる。
でも千尋は、僕たちがこうなることなど、望んでいない。
生きて欲しい。そう願っている。
しかし千尋の言葉を今の妹に伝えたところで、信じてはもらえないだろう。
カウンセリングでは、あまり良い結果は出なかった。
カウンセラーの先生の質問にはほとんど何も答えず、時折、包帯の巻かれた傷口を見て、優しく撫でるのだという。
カウンセラーの先生によれば、放っておけば、リストカットに限らず自殺未遂を繰り返すことは免れないという話だった。
このタイミングで、両親は引っ越しを決意したようだった。
こういう場合、環境を変えることが最も良い手段だからだ。
ただ僕は違った。
僕にしかできないある方法があった。
妹から、千尋の記憶を消す。
◇◇◇
「お前、本気で言ってるのか」
ライアン先輩は、いつになく真剣な表情で僕を見た。
ただそれは、罪人を咎める目のようでもあった。
「事情はわかる。けどよ、千尋の記憶が消えることを、全員が望んでいるのか?」
「望んでは、いないと思います」
望んでいるはずがない。両親だって妹と千尋が仲良くしていたのは知っているし、家族ぐるみの付き合いだってあった。
でも、妹まで、死なせたくない。
「ライアン先輩は兄弟いないんですか」
「い…ない……」
ライアン先輩は言い淀んでそっぽを向いた。
ライアン先輩は嘘が下手だ。今のこれは、明らかに嘘だとわかる。でも、これを逃せばチャンスはないかもしれない。
「なら、ライアン先輩にはわからないと思います。大切な人を亡くした妹の、兄の気持ちが!」
ライアン先輩は歯を食いしばって、何かにうち震えているようだったが、僕はそんなものには目もくれず、扉渡りの扉に向かった。
扉に手をかけた時、ライアン先輩は言った。
「わかった。お前の好きにすればいい。ただその場合!俺とお前の関係は一切無かったことにする。ただの《同業者》だ」
これが、僕の、ひいては松崎コミュニティー全体を案じた言葉だったなどと、僕は考えるまでもなく、扉を押した。
「お前はお前の正義を貫け。俺にはそれが、できなかった……」
無情に閉まる扉の音で、ライアン先輩の声はかき消され、僕の耳に届くことはなかった。
扉渡りの空間で、かぐやは僕に問う。
「お主、そんなこと本当にできるのか?」
「僕なら、いや、死神なら、できる」




