2-10 夜の帳を血の色に
庁舎に着いたジェシカは、呼吸を整え、宙に手をかざした。
「ouvert」
ジェシカが言うと、かざした手を中心に、色が消えていった。
「なに、これ…」
リュネットが驚いたように呟く。
「うーん、世俗的な言い方をすれば、『結界』というやつよ。よほどのことがない限り、現実に影響はないわ」
しかし、リュネットが唖然としたのは、結界のことではなかった。
ジェシカも、リュネットと同じものを見て、言葉を失った。
庁舎はレトロな造りで、三階建ての大きな建物だった。日本の『明治』という時代の建物をイメージして設計されたらしい。その割に洋風な造りの庁舎の中を、たくさんのエクソシストが忙しそうに歩き回っている、はずだった。
しかし庁舎は、二階と三階の部分がなくなっていた。
激しい戦闘が行われたのであろう。
しかし中から闘ってはいるような音は聞こえず、辺りは異様なくらいに静かだった。
「ここで待ってて。何かあったら大きな声をだすの、いい?」
まれにみる真剣な面持ちのジェシカに、リュネットはコクコクと頷いた。
かろうじて残っている庁舎の扉を、ゆっくりと押す。
ちょうどジェシカが入ることのできるくらい扉が開いたとき、壁と扉をくっつけていた頑丈そうな金属が壊れた。
大きな音をたてて扉が床に倒れたのだが、瞬間、ジェシカの鼻を嫌な臭いがついた。
一つは瓦礫などからでたであろう土や埃の臭い。
もう一つは、鉄のような臭い。しかし金属にしては生々しく、むせかえるような臭いだった。
警戒しながら庁舎のロビーを進んでいく。
ロビーの中央には二階と三階に上がるための大きな階段があるのだが、その階段にもたれるように座り込んでいる人がいた。
ジェシカは駆け寄り、状況の確認入る。
「いったい何があったんですか」
「あぁ…助けにきてくれたのかい…でも見ての通り、壊滅状態さ…ギリギリのところで結界を張ったんだが、僕もこの通り、長くは持たない…」
その人をよく見ると、右肩から大量の出血があって、その肩から先がなくなっていた。
「そんな…すみません、私に治癒能力はありません。とりあえず止血しますから…」
そう言ってジェシカは袖から包帯を取り出して、傷口に手際よく巻き始めた。
これはメイド時代に培ったものだ。
そんなジェシカを、今にも消えそうな声で制止する。
「僕なんかに構ってないで、現状を本部に知らせてくれ…それに君、『キャトルのジェシカ』だろう?本部の人間なら、わかるんじゃないかな…?」
「もう喋らないで下さい。死にたいんですか。それに、本部にならとっくに連絡してあります。もうすぐ応援が到着するはずです」
「そうか…流石は、といったところだね…ありがとう。もうひとりで歩けるよ。それより、他の仲間を助けてやってくれ…」
ジェシカは声なくうなずくと、その場を離れた。
◇◇◇
何人か構成員をみつけたが、そのほとんどは息がなかった。
ただ共通していたのは、皆、身体のどこかしらに何かが食い込んだような傷があることだった。
さっきの人が結界を張ったとき、悪魔を巻き込めていたとすれば悪魔はまだ、『こちら側』にいることになる。
だとすれば、魔力の多いリュネットは狙われる。
その時だった。
ジェシカは周囲に色が戻り始めていることに気がついた。つまり、結界が解かれつつあるのだ。
結界を張った人、つまりあの人が解除したか、あるいは…
嫌な予感が頭をよぎる。
ジェシカはリュネットの元に走った。
◇◇◇
壊れて倒れた玄関の扉を踏み越えて、庁舎の外に出るとその人はいた。ジェシカが応急手当てを施したあの人だ。
しかしその人は、関節という関節が本来曲がるべきではない方向に曲げられていて、投げ捨てられた人形のようになっていた。
当然息はなく、辺りに飛び散った血液が、その凄惨さを物語っていた。
そしてそこにリュネットはいなかった。
何度も呼びかけてみるものの、返事はない。
必死に呼びかけるジェシカの足元に、何かが当たる。
それは、赤い血の色に染められた、リュネットのキャップだった。
それを拾い上げたとき、ジェシカの中で何かが壊れたような気がした。
「リュネット…リュネット…っ!」
地面にペタンと座り込み、泣きじゃくるジェシカ。
血に染められたキャップを抱いて、最愛の人の名を呼びながらただ泣いていた。
夜の帳を照らす三日月だけが、ジェシカを優しく照らしていた。




