四十路のクリスマス 前編
最後のお話は、冬の空です。
冬はつとめて。なんて言葉は、はてさて誰が言い出したものか。ぷかりと紫煙を燻らせ、じわりじわりと昇っていく白い光を寝惚け眼で見詰める。明け方の白い太陽は、徹夜明けのちっぽけな己など我関せずといった様子で高層ビルの合間から顔を出していた。
太陽の眩さに肖ろうと白い雲までが厳かな佇まいで太陽に連れ添い、まるで煙のように風に吹かれて、たなびいている。まったく、のんきなものだ。
「……眩しいもんだねぇ」
あの愚かしくも何よりも輝かしい日をともにした友人たちは、今でも上手くやっているだろうか。高校を卒業してから袂を分かち、とある友人は大学へ、とある友人は家業を継いで農家へ。そして、己は。
「あーぁ。こうも冷えてちゃ、……敵わねぇや」
真夜中を飾りたてていたイルミネーションもすっかり眠ってしまっているというのに人間の方が早起きとはどういうことだろうか。そんなことを屋上で独り思いはするが、口には出さない。人間様の方が寝ずの番だなんて笑えない話だ。
やや寒気のする朝方に鼻をずずっと一啜りし、もわっと煙を吐く。風向きが変わったようで煙が目に染みた。徹夜明けではっきりとしない頭や、長時間の坐り詰めでがちがちに固まった身体に、己の吐いた煙で己の眼をやられた忌々しさに舌打ちする。
目薬をフル活用して節々が痛む老骨に鞭打ち、やっと今日の会議で必要な資料がまとまった。その息抜きのつもりで会社の屋上で煙をふかしていたというのに。
じじ、と小さな赤い光を灯した煙草も、地球の引力に引かれた灰がもろもろと崩れ落ちていく。ちらりとビルの下へ視線を移す。そこには、塵芥と化した灰と無慈悲に横たわるアスファルトしかなかった。
「……」
アスファルトに吸い込まれるような錯覚がして、慌てて頭を振る。やはり、こんな徹夜明けのビルの屋上なんて、目の毒だっただろうか。今よりも若い頃は、それはそれはとてつもなく魅力的な死への誘惑に何度か惑わされたが、今やそれを実行する蛮勇も欠片ほど残ってはいなかった。
「……夢じゃなくても、鳥みてぇに一度くらいは飛んでみてぇよなぁ」
気紛れにここから飛んで、最期くらいは会社に迷惑でもかけてやろうかな、なんて思う俺を迎え入れるように、真っ新な太陽は俺を照らしつける。しかし、それさえも幻覚であることを、俺は賢いから知っている。知っている、はずなんだ。
すうっと第二弾の煙草を吸い、朝陽に近い雲に届けとやや上向きにぷかりと煙を吐き出す。ぴうと吹いた風に乗って煙はどこまでも遠い空へと混じり、消えていった。その煙を掴もうと、よれよれになったコートで手を伸ばし、白い光へ手を翳してみる。不健康そうで不格好な手が、そこにあるだけだ。俺の手は、ちょっと前まで「綺麗だ」なんて持て囃されたもんだったんだけどなぁ。
「いいなぁ。俺も混ざりてぇー……」
高校を卒業してその伝手で入った会社も数年すればあっけなく倒産し、どうにかこうにか見つけたこの会社も、ザルな会計処理のせいで行われる社員同士での騙し合い、癒着、派閥同士の衝突によるシマの奪い合い。同期は己を除き皆が出世をし、飲み会という名の息の詰まりそうな空間など、ここ数年もご無沙汰だ。
自宅に帰ったとしても、返事をする者の居ない部屋に、何の価値があるだろうか。汚れが溜っていく台所や、カップ麺ばかりが雑然と転がる居間。
「あーぁ。眩しくって、いけねぇや。……あの朝日はよぉ」
あぁ、いったい俺は何の為に働いているのだろう。俺は、どうしてこんな苦しい思いをしてまで、こんな所に。昔の俺は、こんなことを願ったのだろうか。いや、昔の俺って、どうだったか。最早それさえも思い出せなくなってしまっている。老化だろうか、それともストレスとやらのせいだろうか。なるべくなら後者であって欲しい。
はぁ、と寒さでかじかむ手に体内で温められた息を吐きかけ、頭を空にする。何にも考えない。それがこの長い人生を歩むうえで上手な道だと気が付いてから、一体どのくらいの年月が経ったのだろうか。数えることすらも馬鹿らしかった。
俺は、疲れている。そう、疲れているからこそこんな暗い考えになっちまうんだ。寝よう、寝よう。数時間後には会議が終わるから、それから今日だけは定時に上がって家で惰眠を貪ろう。うん、それが良い。
俺はそう心に決めると、寒気にぶるりと一度だけ身を震わせてすごすごと屋内へ引き返す。雪解けがあちこちに散らばり、見上げた空は灰色のものであったことに気が付いたのは、定時よりも少し遅くなった社内の窓から見た時だった。
◇◇◇
がさがさとスーパーの袋を持ち直し、社宅の家鍵を探す。会議もいつもにしてはまぁまぁ上手くいったから、景気づけにとビールとつまみと、自炊用に豆腐とか肉とか野菜類を買ってきたが、どうせ独りじゃ食べきれずに捨ててしまうのだろう。何度かそういう目に遭っておきながら俺という人間は学習しない。そんなことは、とうの昔から知っていたさ。
がちゃんと鍵を回し、ドアノブを掴もうとする。その途端、ぱちっと軽い音と鋭い痛みが指先に奔った。慌てて手を遠ざけてから、「静電気かよ」と一人で舌打ちする。情けない。こんなよくあるような現象にびびって、落ち込んで。まったくもって、情けなかった。
いくらか気落ちしたままドアノブを回せば、しばらくは帰っていなかった自宅が暗闇の中でうっすらと輪郭を現していく。
廊下と一体化している台所と、風呂場とつながっているトイレ、奥の扉を開ければ布団を敷きっぱなしの居間だ。最初にここへ来た日は人生をやり直すという気概にあふれていたが、それが今じゃどうだ。こんな干からびた人間になっちまった。
自嘲の笑みを浮かべながら鞄とスーパーの袋を持ったまま奥への扉へと足を向ける。
「……ん?」
そのときに、ふと扉の向こう側で何やら人の気配がした。もぞもぞと動く黒い影。
さては、空き巣だろうか。部屋のあまりの汚さに逃げ出さずにいるとは、この空き巣もなかなかのものだ。もし包丁だとか持っていて刺されたとしても別に構いやしない。その分だけ慰謝料をぶんどってやれば良いさ。それが出来なくて死にかかっても、もう死んでもいいかなだなんて半ば軽い気持ちだった。
何の気なしに奥への扉を開ける。すると。
「ハッピーバースデーア-ンド……メリークリスマース!!」
ぱぁん、と拳銃のような発砲音に、場違いのような明るい声が一つ、二つ。呆気にとられて目を瞬かせる。そこに居たのは、奥の居間には丸い卓を囲むように座った二人の人物だった。
二人とも馬鹿みたいに三角帽を被り、一人なんか真っ赤な丸い鼻なんぞつけて、頭にはトナカイの角まで着けて馬鹿面をひっさげている。もう一人は街中でも最近になってよく見かけるような赤いズボンに赤い上着を太った腹とともに着飾り、白い付け髭なんぞまで拵えていた。着け鼻眼鏡が恐ろしく似合わないのな。
あまりの光景にどさりとスーパーの袋を落して、中に卵があったことを一瞬で思い出す。
今ので絶対残らず卵は全滅したな。勿体ない。いや、そんなことより。
「お、前ら、なんで……」
俺が飲み散らかしたビールの空き缶は片付けられることなく部屋の隅の方へと寄せられ、敷きっぱなしだった布団は干されたのかのようにふかふかな重量感を以てたたまれている。まるで学生時代と変わらぬ部屋のありさまに、開いた口が閉まらない。
二人は俺の帰りを待っていたのか、驚かせようとしたのか暗い部屋の中でじっとしていたようだ。俺をびっくりさせようと明かりも点けずにいたようだ。そっちの方が怖いわ。いま真冬の夜だぞ。
口々に「もー、おっせぇぞ。ばーか」「待ちくたびれてオレ飲み物全部空けちゃったんだけどさ、何か買ってきてくれたー?」などとほざいてくる。俺はというと目の前の情報を処理することに必死だった。
「お、おいおい、安藤。お前その大学は?」
「えー。あんなくだらんもん、こっちから願い下げだよ」
「じゃ、じゃあお前いま何やってんだ」
「カツオ節をぎゃんぎゃん削ってる!!」
「はぁ?!」
「毎年こいつからのお中元がカツオ節か味噌なんだよ。ウケるだろー?」
「ちょ、おま、久我。実家の手伝いするって……」
「オレはちゃんと仕事を終えてから来たんで大丈夫だ」
「お前もこの時期は忙しいんじゃ……?」
「あのなぁ。あれからどんだけ経ってると思うんだよ。そんなもん慣れた奴が勝ちよぉ!」
そう言ってにっと歯を見せて笑う久我は、昔につるんでいた時と変わらぬままだ。人懐こいブルドックのような顔の安藤もそのままの笑顔で早くも俺が買って帰ったスーパーの袋を漁っている。卑しくも目敏くお宝を見つけた安藤が「おっ。良い肉買ってんじゃん。さっすが高収入ー」と不慣れな口笛を吹き、失敗していた。続いて久我も一緒になってスーパーの袋を漁り、ビールの一缶だけ取り出すと片手で勝手に開けて飲み干す。おい待て。ナチュラルに飲んでるけど、それ俺のだぞ。いや、それよりも。
「な、なんだこれ」
「まぁまぁまっ、お前はいいから座ってろ」
「ここ俺んちなんだけど?」
「家主様のお布団は僕が干させて頂きました!」
「……うむ。くるしゅうないぞ!」
「あっ、一人だけ好感度上げてずっりぃぞ、久我ぁ!!」
「いいからお前はさっさと鍋の用意しろよ。いい加減オレ腹減ったわ」
「じゃあ手伝えよー。おれだって待ちくたびれすぎて腹いてえっての」
あれやこれやと勝手知ったるやと安藤や久我が「材料も揃ったし鍋にすっぺー」と台所と居間を往復し始めた。一気にバタバタし始めた空気に圧倒されていると、久我が嬉しそうに「どうよ、社会人生活はさー」と話題を振ってくる。久我も農家ということで少なからず会社生活というものに憧れがあるらしい。
俺が会社のことや仕事のことを話す度に「でもいいよなぁ、安定した仕事ってさー」だとか「オレも都会暮らしとかしてみてぇー」と好き勝手に言ってくれている。その遠慮のない言い方に、ささくれだっていた俺は少しばかり心が解れていくのを感じた。
話の締めくくりに逆に話題を振れば、「おっ、聞いちゃう? 聞いちゃう?」と今まで以上にぱっと顔を明るくして、やれ鶏が逃げ出して大変だっただとか、飼っていた山犬が粗相をやらかして畑に猪が出るようになっただとか嘘か本当か分からない話を嬉々として語りだす。
饒舌な久我のことだ。話し出せば一時間以上も喋り倒すことがあることすら忘れてしまっていた自分を軽く呪う。
「ほぉい、お前らお待ちかねの鍋だぞぉ!」
話の区切りを無理やりにでもつけようとする安藤の優しさに、俺は心の中で合掌した。感謝とばかりに安藤に目線を配ると、安藤は茶目っ気を籠めてウィンクを返してくる。だが、元からそんな器用なことも出来るような奴でもなく、ウィンクといってもばちんと片目が上手く閉じずに両目が閉じてしまう。その不器用な様子に、俺は安藤も変わっていないのだと安堵した。
いかがだったでしょうか。次回もお楽しみください。