恋慕する月の獣 後編
前回の続きで、秋の夜空です。
ほうほうと梟が囀り、ばきばきと折れた木々が静かな森の中で木霊する。自由落下をするイヨの身体を守ろうと下敷きになったツクヨミが、息も絶え絶えにイヨの下から這い出てきた。
「……イヨ」
「あっはは。ツクヨミってば変な顔してた!」
「……イヨ?」
「でも、助けてくれてありがとね」
「……まったく。こんなに愚かしいとは思わなかった」
「ごーめん、ごめん。ごめんってばぁ」
空をも覆わんとする林を見上げる。そこには、イヨとツクヨミが落ちて来た際に歯止めにならんと木々が気を遣って両手を伸ばしてくれた後の結末が残っていた。上の木々などまだ折れた余波が残っているのか、がさっと枝葉がイヨたちの方へと落ちてくる。
どうやら、また派手に落ちてしまったらしい。
「……急にどうした、イヨ」
気紛れな己のせいで疲弊しきっている狼の声。その中に、僅かばかりだが心配しているような声音が混じっていることに気が付き、ふと胸の中に温かいものが宿った。
「ううん……なーんでもない」
この狼、恐らくは「姉の友人であるイヨに傷がついては姉が悲しむ」といった心境なのだろうが、何はともあれツクヨミは己を守ってくれた。それは当然のことであり、何を今更と己でも思わないでもないが、それだけのことが何だか嬉しくて、イヨはツクヨミに笑いかける。
「……そうか」
ツクヨミもよくは分からないがイヨの機嫌が良くなったことにいくらか安堵したようだった。ツクヨミにも分からぬ、移ろいやすい乙女心と云うものは、随分と厄介なものらしい。イヨはそれさえも何だか面白くてクスクスと笑う。
すると、しばらくはイヨを訝しんでいたツクヨミが、分かりやすくふんふんと鼻を鳴らし始めた。どうやらこの周辺に何か匂いでもするようだ。何だろうとイヨもつられて鼻を動かすと、水に濡れた土の臭いと鬱蒼と生い茂る枝葉の臭いがした。
イヨは何故だかそれを「甘い匂い」だと感じ、吸い寄せられるようにふらふらとした足取りで茂みの奥へと分け入ってしまう。
「ツクヨミ、何だか甘い匂いがする。……あっちだ」
「待て、罠かもしれない……イヨ!!」
慌てたようなツクヨミの声が耳に入りはするが、足は勝手にそちらへ向かっていく。ツクヨミが服の裾を噛んで制止するも意にも介さず、がさがさと背の高い草を掻き分け、辿り着いた場所は。
「う、わぁ……!!」
ぶわりと目の前を多数の光が渦を巻いて上昇する。さながら龍が滝壺から舞い上がっていくかのようだった。泡沫の光を纏い、こじんまりとした池の周りをあちらへこちらへと宙を彷徨うものは。
「……蛍だぁ」
「ホタル?」
ツクヨミの怪訝そうな声が隣で聞こえたイヨははっとして振り返る。ツクヨミが声質通り怪訝そうににイヨを見上げ、物言いたげな顔で黙っていた。ツクヨミにはホタルがどういうものか今一つ分からないようだった。
「ホタルっていうのはね、夜になったらお尻の灯りが光って、飛ぶ虫のことだよ」
「……こんな所にも、虫がいたのか」
「うん、そうだね。……ここは地球の生き写しだから」
「イヨは何かホタルで思い出す事でも?」
「……まぁ、ちょっとね」
ツクヨミに顔を見られないように顔を逸らしつつも教えるイヨは、ずびっと鼻を啜り、ごしごしと乱暴に袖で顔を拭う。
イヨとしても、昔はこうやってヒミコ様とともに蛍を見て笑い合った日々を思い出したからなどという子どもらしい理由で泣いているなど、たとえ長年もの間を共に戦い渡り歩いたツクヨミにさえ知られたくは無かった。
そう。ここは、地球ではない。地球の生き写しというだけの月だ。ただ、ここは自然と死者と妖怪しか居ないというだけで、あそこに見えるあの青い惑星と何ら変わりはないのだ。だからこそ、この蛍が織りなす光の渦に、見覚えがあってもおかしくない。これを見て生前を思い出して泣いてしまうのもおかしいことではないのだ。
だけども、この時期の地球では何かをやっていたような気がする。何だったっけ。イヨが思い出そうとしても、その何かは喉元で引っ掛かって容易には顔を出さない。仕方なくイヨは思い出すことを諦めた。
「いやはや。これは……まさしく生の燈籠と、言ったところか」
「とうろう?」
「生きとし生けるものを導く、あえかな光だ」
「……ツクヨミってさ、たまに変なこと言うよね」
「茶化すな」
「あははっ。はーい、わかりまーしたっ」
再びずっと鼻を啜り、秋の夜空へ消えゆく蛍たちを目で追いかける。すると、池を覆う木々にはそれぞれの木の実が成り、それらが蛍の光で照らしだされている光景が視界いっぱいに広がった。
これもかつては生前に見ていたものなのだろうか。そんな取り留めのないことに思いを馳せては、すぐに打ち消す。いや、打ち消すのではなく、想像が出来なかったのだ。もはや地球に居た頃を思い出せなくなっていたから。
目を閉じてみれば、虫たちの鳴く声に、透き通った空気が風に乗って運ばれ鼻孔をくすぐる。あまりに空気が冷たくて、鼻の奥がつんとした。蛍たちを見上げている首も疲れてきて、首を左右に振る。ごきんという音を発したため、イヨは己が思っている以上に疲れているのだとその場へ腰を下ろした。隣でツクヨミが「おい、立て」と厳しい口調で言うが、今度はイヨが聞く耳を持たなかった。「ツクヨミも座りなよ」と誘う一方だ。
見た目の割に強情なイヨのことだ。立ち上がらせることにも一筋縄ではないだろう。やれやれ、とツクヨミも隣へ腰掛け、イヨと同じように夜空を見上げる。互いに無言だったが、不思議と悪い雰囲気ではなかった。
手中に収めればすぐに消えてしまいそうな儚い光が一つ、二つと渦から外れ、ふよふよと夜空を照らしつける。
「……あのね、ツクヨミ」
「なんだ」
「今ちょっと思い出したんだけど、地球でね、こういうのをお月見って言うんだよ」
「お月見……?」
「うん。その年に作物の収穫が出来たことを祝って、皆でお祀りするんだ」
「……その神というのは、保食神のことか。気に食わんな」
「まぁ、そうだね。人間にとっちゃ私も保食神もツクヨミも神様には違いないよ」
「だが、ここには作物などないぞ。人間なぞ居ないからな」
「……うん。そう。そう、だね」
ツクヨミからすれば、至極普通のことを言ったまでのことだ。そう、普通のことだった。
「……人間は、いないもん」
ここには人間は居ない。イヨも死者であって、人間ではないのだ。そのことがひどく悲しいように思えてならないイヨは、喉に小石が詰まったような錯覚に陥った。
唇を真一文字に引き結ぶ。きゅうと胸が締め付けられ、いよいよ正体不明の孤独感に捕われてしまう。
「……イヨ」
隣で再び押し黙ってしまったイヨに、ツクヨミは何と声をかけて良いやら分からない。そういった点では、ツクヨミはやはり神だった。人間の感傷についてある程度は理解がある方だと自負しているが、今この隣で懐かしそうに、それでも悲しそうに地球を見上げるイヨの心がまるきり推し量れそうにない。
ツクヨミには、それが歯痒く、悔しかった。
「……月が、綺麗ですね」
「……なぁに、それ」
「思っただけだ」
「ふ、ふふっ。……変なの」
だからツクヨミは、そっとイヨへと身体を寄せ付ける。悔しいことにイヨが何を想っているのかは分からない。分からないが、イヨが少しでもこの高い空に独りきりで浮かぶ地球を長く見ていられるように、身体を温めてやろう。そう、思ったのだ。
イヨもツクヨミの意図を汲み取ったのか、ふわりと柔らかな笑みを浮かべる。
「ありがと、ツクヨミ」
「……イヨもおかしな奴だな。あれの何が面白いというのだ」
「地球ではね、月にはウサギがいるんだってさ」
「……ウサギどころか、虫も草木も、妖怪もいるな」
「それでね、ウサギが餅をつくらしいよ」
「なに? 餅を?」
「うん。ぺったん、ぺったんって」
「それはイヨが妖怪を斬っている姿ではなくて?」
「あははっ。かもしんないね!」
やっといつものように明るく笑うイヨを見て、ツクヨミは安堵する。今でこそ人間とともに妖怪狩りをしているが、ツクヨミにとってイヨは不思議な人間だった。妖怪との戦闘はあんなにも嬉々としているのに、こうして地球とホタルとやらを見れば物憂げな表情になり、目に見えて落ち込んでしまう。かと思えばこうやって軽口を叩けばころころと鈴のように笑う。
ツクヨミは数多の人間の中でも、こんなにも傍に居たいと思う人間は初めてのことだった。
「ごめんね、ツクヨミ」
「なんだ」
「もうちょっとだけ、お願いね」
ぐるりと首に巻かれるイヨの小さな腕は、夜気に充てられすっかり冷えてしまっている。
ツクヨミはイヨを温めるという名目を勝手に打ち出しては、イヨに寄り添うように佇んだ。
「ありがとう」
ホタルの光の渦を見上げる少女と狼は、大きな星の下で静かに寄り添う。
ただ、じっと。互いの存在を確かめるように。
いかがだったでしょうか。あなたのお気に入りの空になれば、幸いです。