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本日ハ晴天ナリ

今回は夏の空でのお話です。

やや戦争をにおわせる表現がありますので、ご注意ください。

 あなたが贈って下さる葉書は、いつもそのお言葉からでした。


 もう、あれから長い年月が経ってしまいましたよ。


 そちらのお天気はどうですか。


 こちらは未だ雨が降り続いています。

 遊びに来る孫たちも雨は嫌だと嘆いていますわ。


 本当に雨ばかりですよ。

 私の中に居るあなたもすっかり色褪せてしまいました。


 だから。

 どうか私の隣であなたの色を思い出させて頂けませんか。


 白黒のあなたには、見飽きてしまったのだもの。

 たまには私だって。私だって、あなたとお話がしたいのよ。


 だけれども、あなたは写真の中でもむっつりとしていて。

 おかしいわねぇ。私たち。







 それでも、私はあなたに……





 いいえ。何でもありません。




 だけど。



 ねぇ、あなた。


 私に、とびきりの青空を見せてくださいな。

 それがあれば、きっと私もあなたの元へ飛んで行けると思うの。



 それとね。


 こんな過ぎた願いを「我が儘だ」と笑わないでくださいましね。















 じっと耳を澄ましてみればしとしとと降る小雨の音に混じって蛙の輪唱が入り、瞳を閉じれば噎せかえるほどの雨に濡れた土の臭いがした。ゆっくりと瞼を開ける。そこにあるのは、変わり映えのしない生垣に昔は何かを育てていたであろう畑が小さな石で仕切られた一画と、生まれる前からこの家を見守っていた大きなかしの木だ。空から次々と落ちてくる雫に打たれる度に、樫の木の葉がこっくりこっくりとうたた寝をする人のように首を傾げている。

 それでも、今年の四季の訪れを知るのは、いつもこの樫の木だった。この何もかも色彩が空から降る雨で流れ落ちた庭先で、ただ一つ赤い葉を茂らせる樫の木。ある人によれば赤い葉をつける樫の木は通常ならば春先になるらしいのだが、我が家の庭先にある樫の木は少しのんびり屋のようだ。毎年夏に近付くにつれて赤く葉がなってしまう。季節外れの赤い葉に「うっかりやさんね」と呟くのも毎年のことだ。

 そんな勘違いをした鮮やかな赤も、このところ続く大雨でかすみが掛かってしまっていた。


「ほんとうに……どんな色だったかしらねぇ」


 太陽すら覆い隠してしまう曇天に小さく嫉妬をしつつ、今年の夏の訪れを声も無く告げる樫の木に小さくお辞儀をする。樫の木も、何も言わずに赤い葉でお辞儀を返した。

 まるであの頑固で無口なあの人がするように。



「あなたも、こうしてお辞儀を返してくれましたよねぇ」


 ぺこり。


「私ね、まだあなたがこの世のどこかにいると思っているのよ」


 ぺこり。ぺこり。


「こんなお婆さんになっても、あなたは迎えに来てくれるのかしら」


 ぺこり。ぺこり。ぺこり。






「あなたは、優しいのね。ありがとう」




「だけれども」




「文面が初めて変わったあの日から、ここは雨続きよ」






 誰に言うでもなく呟いた言葉に、樫の木はいつもこうして相槌を打ってくれている。それが雨のせいだということは分かってはいたが、やはり聞いてくれるものがいると、嬉しくなるものだ。こうやって話しかけること丸十年。まるであの樫の木の下に、あの人がいるように思えてしまってから、こうしてずっと話しかけている。すると、あの人の代わりだと言わんばかりに、いつだって樫の木が首を頷いてくれた。

 そういえば、「手紙」が届いてからというもの、ここは雨の日が多かったような気がする。すいっと目線を空へ移すと、見慣れた黒い雲と薄い線となって落ちてくる雨が目に飛び込んできた。ぴちっと冷たい滴が目に入り、思わず目を閉じる。

 瞼を閉じれば、いつだってそこは暗闇だ。ただ、薄い皮膚越しに光を感じることはあるけれど、ぎゅうとつむってしまえば何も無い。かわりに雨音を拾う耳が鋭くなり、土の臭いがよけいに鼻を衝く。

 容易く踏み込める暗闇の安寧あんねいに身を彷徨さまよわせていると、不意に暗闇の中で見知った影が生まれた。



 あの人だった。



「……そうね。あなたはずっとここに居るのに、ねぇ」


 手を伸ばそうとする。しかし、いつもこの手は空を掴むばかりで、その空気でさえ指と指の合間をすり抜けていってしまう。こんなにもあなたは近くに居るのに、その風が私は独りなのだと声高に叫んでくる。その恐ろしさにじくじくと胸が痛む。その冷たさにぞわぞわとこの身は寒さで震え上がってしまう。涙だって出てきそうになり、じわりと目尻が濡れるような感触がした。


 もしかすれば、私はこの恐怖で壊れてしまうのかもしれない。


 この身を覆い尽くしてしまうような孤独と絶望が、無数の針となって串刺しにする。


「……でも、そうじゃないのよ」


 そんな時。いつだって暗闇の中で明るく笑うあなたの笑顔を見ると、何だか励ましてくれているような。そんな気持ちになった。 


 初めて樫の木で出会った日のこと。

 初めてあなたが私に話しかけて来てくれた日のこと。

 初めてあなたが私を外に連れ出してきてくれた日のこと。

 初めてあなたが私に笑いかけて来てくれた日のこと。



 初めてあなたが私に怖い顔をなさっていた日のこと。

 初めてあなたが私を抱きしめてくれた日のこと。

 初めて、あなたが涙を流した日のこと。

 初めて、あなたの背中が小さく見えてしまった日のこと。



 初めて、雨が降り続いた日のこと。




「……あぁ、そうだったの」


 初めて、私が気付いた日のこと。あのとき今生こんじょうの別れになるとあなたが背中越しに声をかけてくれたけれど、私は悲しくて悔しくて振り返れなかった。だって、胸が裂けんばかりの悲しみを私だけが抱えていて、みっともないと思っていたから。


 だけれど。


 長い年月を経た今になって気が付いたわ。

 そうっと目を開けると、まなじりからすうっと涙が一筋流れていく。あの日あの時の私の背後に佇むあなたは。






「あなたも、泣いていたのね」







 春の樫の木は、ぺこりと頷いた。
















 さあっと降っていた小雨も今ではすっかり止み、天上から光の一筋があちこちに降り注いでいる。その光の行く先では、くっきりとした色彩の虹が架かり、天への道を示しているようだ。地上では、あちらこちらで雨に濡れた草木が露を滴り落とし、眩い光を放ち出す。

 樫の木も首を折ることも無く、雨に濡れた土の臭いを空へと届けるような爽やかな風で赤い葉を嬉しそうに揺らした。


「もう、大丈夫よ」


 つっかけを履き、からころと樫の木に近付く。樫の木も黙ってそれを見守る。そろりと幹に手で触れてみると、雨に降られていたにもかかわらず、仄かな温もりを感じられる。


「これからは、あなたのそばに居ますから」


 その温かさに口角を緩めると、樫の木も嬉しそうに赤い葉を揺らして笑う。

 それがまるであなたの笑い方に似ているものだから、思わずつられて笑ってしまう。



「あなた、笑い上戸でしたものねぇ」



 樫の木は、ざざざぁっと大笑いをした。









 ねぇ、あなた。


 あなたはいま、どこでなにをしていらっしゃいますか。



 この空が続く場所にいらっしゃるの。


 そこで、いつものように笑っていてくれているのかしら。



 ねぇ、あなた。



 こんなとびきりの青空を、ありがとう。

 これで、迷わずあなたの元へ飛んで行けるわ。


 私の我が儘を聞いてくださって、どうもありがとう。



 これからは、あなたの傍に私が居て

 あなたが笑っていてくださることを、願います。




 どうか、一緒に。











いかがだったでしょうか。あなたのお気に入りの空となれば、幸いです。

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