表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

春の手

夏のホラー2016にも参加させていただいた短編になります。

春の空というテーマのお話です。



 ここではオカルト的な怖い体験談を書くんだったよな。

 ちょっと聞いてくれ。ずっと昔に怖い体験したんだ。

 そのときもちょうど、こんな夕暮れ時の空だったから思い出したんだけど。









◇◇◇








 明け方の白い太陽が山間から顔を出す。すると、頭上の桜からは鳥たちが慎まやかにさえずり、最期は華やかにその生を散らそうと花弁がはらはらと湖面に波紋を広げる。それに誘われるように湖面から顔を出せば、やや紫がかった雲が全てを真白に染め上げる朝日にあやかろうと空にたなびいていた。

 まるでここだけ切り取られた絵画のようだ。子ども心にそう感じ、ざばりと湖から上がると、湖面にしなだれかかるような桜の根元に腰を落ち着ける。ゴーグルを外して辺りの茂みに置いてあったタオルで身を包めば、肌を刺すような風に身震いをした。

 見下ろせば、青く透き通るような湖底に、埋め尽くそうとする桜の花弁。見上げれば、淡い紅色を湛えた糸桜が爽やかな風に吹かれてかしずいていた。横に伸びた枝と枝の間には隠れるように佇んだ文鳥がぴぃぴぃと鳴いている。

 穏やかな、春の夜明けだった。


「……ふぅ」


 軽く一息を吐き、しばし無言でこの時をも感じさせぬ空間に浸ることにする。子どもは、こうしている間だけ自分が自然と一体に成れたように感じられるからこの時間は大好きだった。だから、こうして春休みの間寝泊まりしている祖母の家を抜け出して、子どもは明け方のこの湖へといつも足しげく通っていた。

 木々の梢が互いに音を立て、さぁっと風と共に吹き抜ける。鳥たちが思い出したかのようにちゅんちゅんと鳴き、湖が音もなくさざなみを立てて揺らいでいく。

 目を閉じて五感で春を感じていると、不意にそこへまったく別の音が混じったことを、子どもは声も出さず鋭敏に感じ取った。

 それは、耳を澄ましていても聞こえるかどうか分からぬ程の音だ。湖に居る魚が跳ねたような、そんな音だ。ぱっと眼を開けてみても何も異変は無い。変わらずここにあるものは切り取られた絵画のような風景しかなかった。

 ごしごしと眼を両の手甲で擦り、じっと辺りに目を凝らして見てみる。じいっと右の端から左の端へと視線を滑らせていると、ふとある箇所で違和感を感じた。違和感を感じた湖面へさっと視線を戻す。

 そこには、一枚の白い皿がぷかりと浮かんでいるだけで、特に目立ったものは無い。だが、子どもはここに来た時とここから出た時にあんなものを見かけた覚えは無かった。

 何だろう。さては、ここへ先に来た誰かの忘れものだろうか。それにしてもこんな山奥の、しかも足場の悪い谷を抜けてやってくるとは。只者ただものではないぞ。子どもの胸には、一抹の好奇心と恐怖が宿った。

 抑えきれぬ好奇心に突き動かされるまま、子どもはどぼんと湖面に飛び込み、ばしゃばしゃと波音を立てながらお皿へと近づいていく。

 もう手を伸ばせば届く、というところで思わず息を呑んでしまった。お皿が自分の目線よりも拳一つほど上に浮いている。思っていたよりも白くて綺麗な皿に向けていた視線を徐々に下へとずらしていく。


「……ぅわっ、あ!!」


 どくどくとうるさい鼓動を無視しながら目線を下げれば、黄金色と目が合った。


「わぁああぁああっ!!」


 皿の下にある二つの黄金色はぎょろりとこちらを見据えたかと思えば、水面からぬるりと深緑色で水かきが異様に大きい手がこちらへと向かってくる。まじまじと見る余裕など無かった。

 死に物狂いで水を掻き分けて陸地を目指す。背後に現れた生物など生まれてこの方見たことがなかったが、ただ純粋に怖かった。

 あれに捕まれば、自分は二度とこの湖から出られなくなる。理由もなくそう思った。動物としての本能がアレを危険だと感じ取ったのかもしれない。判然とした焦燥感に駆られ、水中でバタつかせる足がもつれてしまってもどかしかった。

 湖はちょうど真ん中あたりが足がつくかつかないかぐらいの水深で、恐怖に煽られた子どもの足では溺れてしまうようなものだ。足が満足につかない、背後には訳の分からない生き物が居る。焦りに焦った子どもは、がぶがぶと水を飲みながらも懸命に足をばたつかせ、両手で水を掻き分ける。

 すると、不意に足首を何かに掴まれたような気がした。


「ふぐっ、んぶっ、んんっ……!!」


 腹の底から沸き起こる恐怖で足首を掴む何かを蹴飛ばそうとするが、ぎしぎしと骨をも砕かん勢いで握られている。ふと、子どもの脳裏に過ぎったものはあの深緑の大きな手だった。あの手が、自分を湖底に沈めようとしているのだ。この美しいが故に恐ろしい湖の底に、無力な自分を。無慈悲なまでの力で。



「げはっ、ぼっ、んぐぅっ!!」


 呼吸困難で朦朧としてくる視界。開いた口には際限なく水が入ってきた。口を閉じれば息が出来なくて苦しくなる。開ければ遠慮のない水が肺へと飛び込んでくる。八方ふさがりだ。どうすれば、この苦難を乗り越えられるだろうか。いや、もうだめだ。

 ぐいぐいと両足首を引っ張る力が強くなる。既に頭の頂点まで沈む回数も多くなってきていた。せめてものと動く両腕で湖面を叩くが、誰もいない山の奥深くに人など来るわけもない。

 ざばん、と大きな波音が立ち、視界が潤む。もう満足に息も出来ない。ぐんぐんと足の爪先から圧迫され、喉を通過してつむじにまで何かに圧される感覚を感じながら、水中で痛む目を開ける。

 ごぼごぼと泡が水面に昇っていき、明るかった筈の湖底には。



「……っ?!」



 大勢の人間の黒い眼が、子どもを見ていた。


 一人や二人などではない。まるで湖底を埋め尽くすような数の人間が、一斉に子供を見上げて、手を伸ばしているのだ。わらわらと海綿のように青白い手が揺らめき、中の数本が自分の足首を掴んでいる。薄れていく意識の中でぎょっとしていると、不意に目の前がふっとかげった。湖底からやや顔を上げて見る。

 水上で見かけた二つの黄金色が、品定めをするように、じっと見つめていた。



「……!!」



 真白な皿の下で長く苔むしたものが人間の髪のように揺蕩たゆたっている。

 二つの黄金色の下でちらりと見えた、赤い蛇のような舌先。

 万遍まんべんなく開いた指と指の合間には大きな水かき。



 子どもは、そこで意識を手放した。













 気が付くと、子どもは桜の木の下で寝転がっていた。ばちりと眼を開け、がばっと飛び起きる。数度ほど肺に入った水のせいで軽いせきをしたが、それ以外どこも悪いところなど無かった。

 良かった。きっと誰かが助けてくれたんだ。そう思って周りを見回しても、何もない。人どころか鳥も、獣も、魚すら居なかった。辺りには先程と変わらず静かな湖面があるばかり。

 ざぁっと吹く風がどこか生暖かく、細い指先で背筋を撫でられたような気がした。


「……えっ?」


 勢いよく振り返ってみても、桜の幹があるだけで、誰もいない。



「な、んで……?」



 ばくばくと揺れ動く心臓を落ち着かせようと胸元をぎゅう押さえ、混乱する頭で必死に記憶をたどってみる。だけど、不思議なことに何も思い出せなかった。朝方子どもはここまで一人で来たことは覚えている。ちょっと泳いで休憩しようとしたら湖面に何か気になるものを見つけて、それから。


 思い出せない。何を見たのか、その後で何があったのか。まるで思い出せない。ただ、全身が濡れているから溺れかけたのだろうと幼い頭でも推測は出来る。出来るが、何で溺れかけたのかが分からない。

 何も分からない、思い出せない。たったそれだけのことが怖くて堪らなかった。


「も、もう帰ろう……」


 ふと空を見上げると、夕陽の赤に宵闇の紫紺が入り混じり、見るものすべてを不安にさせるような色使いに染まっていた。おどろおどろしい雲までかかり、昼とも夜ともつかぬ明るさだ。近くの木からは数羽の烏がけたたましく飛び立ち、心臓を大きく跳ねあがらせた。

 どきどきと跳ねる心臓もそのままに、子どもは烏が飛び立った木をぼんやりと見つめる。そして、赤く黒く染まった空に黒々とした烏が溶け込んでいく様子に恐怖心を抱いた。あまりにも自然に、烏が空に溶け込みすぎたのだ。氷が水に溶けるように。さっと。

 まるで何か異質なものが正常なものに成り変わろうとして混じっている。自分のあずかり知らぬところで取って代わろうとする算段をつけている。そして今まさに、その機会をどこからか窺っているような。

 子どもは自分の不吉な想像に冷えた体をぶるりと震わせ、両腕で自分を掻き抱く。起き上がった拍子に誰かが掛けてくれたであろうタオルを引っ掴み、元来た道へと踵を返そうとする。

 瞬間。ざわざわと人の話し声のようなざわめきが木々の梢の合間から聞こえた。それも、すぐ近く。耳元だ。話し声は次第に大きくなり、やがてこの湖に吹き荒れる風にも負けないぐらいの大きさになる。

 ごくり、と息を呑むと同時に、耳元で。


「また来てね」


 自分の声が、聞こえた。





 ざざざっと風が桜の木を揺らし、ぱちゃっと背後の湖で何かが跳ねる音がする。

 もう子どもには、振り返る勇気などさらさら無かった。









◇◇◇







 あれから数年が経ってだいぶ忘れていたんだが。久しぶりに実家に帰った時、婆ちゃんに「河童様の手だよ」と箪笥から桐箱の中身を見せてもらった時に思い出した。


 昔あの湖で人がたくさん溺れるような事故があって、そこに行っちゃいけないって言われてたんだけど。あそこでその桐箱にある手と同じものを見たんだよ。それでそんな話をしたら、母ちゃんにめっちゃくちゃ怒られた。拳固もばっちりもらってきた。すっげぇ痛かった。でも、婆ちゃんには「河童様が助けてくだすったんだ」って泣かれた。そう言う婆ちゃんの口臭もやばくて死ぬかと思ったんけど。


 でもさ。怖くてあんま覚えてないんだけどさ、たしかにその苔色の手も見たような気がするし、湖で怖い思いをしたような気もする。そんで、怖くなって湖から離れるときにおっさんみたいな声でさ、「またきてね」って聞いたような気もするんだ。


 もしかしたら、気付いてないだけで本当は誰かいたとか。

 それとも、その河童様とやらの声だったんかなぁ。



 あれ、何だったんだろう。











いかがだったでしょうか。あなたのお気に入りの空となれば、幸いです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ