ちゃんと死なせてあげなきゃね
日曜日。海の近くの喫茶店。個人経営のお店で、もう二十年近く続いている。程よく客も入っていて、うるさすぎることも静かすぎることもない。私のお気に入りのお店だ。
「美味しいね」
「そう? よかった」
萩野谷は、ミルクたっぷりの甘いホットコーヒーを飲んでいる。出会ったときは錯乱してたからよく分からなかったけど、萩野谷は落ち着いた話し方をする男の子だった。眼鏡をかけている。文化系男子。
「ありがとうね……。助けてくれて、ありがとう」
「どういたしまして」
萩野谷はニコッと微笑んだ。萩野谷の笑顔を初めてみた。こんなふうに笑うんだ。
ドリンクと一緒に頼んだチーズケーキを口に運んだ。甘くて懐かしい味。口の中で綻ぶ。溶けていく。
「……なんで助けてくれたの?」
「……」
「……たまたま見つけたから?」
「違うよ……」
「じゃあ、なんで?」
萩野谷は黙ってしまった。手にもっているココアを揺らした。笑ったかと思うと、次の瞬間には悲しみを浮かべていた。
「……自殺した姉ちゃんに似てたんだ」
カチャン……! 私の持っていたフォークが、ケーキのお皿に当たって音を立てた。動揺してしまった。
萩野谷は罰が悪そうに頭を掻きながら続ける。
「えーっと、君が……」
「須藤佳奈だよ」
そういえば、まだ名乗ってなかった。
「須藤さんが言った通りなんだ……。俺は死にたがっている人を自分の気持ちだけで助けてしまった。自分の心を守りたいがためだけに、人を苦しめてしまってるんだ。あの日は必死で、自分を肯定してしまった。だから、ごめんなさい」
「謝らなくていいよ。君のお陰で私は今、生きてる。生きてるから、今、美味しい紅茶を飲みながらチーズケーキを食べれてる」
「……死にたくなくなったの?」
「……死にたいよ。でも今はいい。あの日、私が救われたことで、君が救われたのなら、それでいいよ」
窓の外を見た。あの日と同じように雪が降っている。朝から続いているから、店を出る頃には積もっているだろう。
話が途切れる度に紅茶を飲むので、すぐになくなってしまった。
私の言葉を聞いて罪悪感が軽減されたのだろうか。萩野谷は泣きそうな顔で微笑んだ。
「なんで須藤さんは死にたいの?」
口にしたくなかった。三ヶ月たった今でも、その現実を口にしたことはなかった。自分の意思でそれを言葉にしてしまうと、もう認めてしまうしかなくなってしまうから。
「か……」
言葉が詰まった。もう分かってるのに。本当は私も亡くなったあの日から、ちゃんと理解していた。でも、涙がまた溢れる。止まらない。瞬きをする度に、大粒の涙が頬を伝っていく。困った顔をして、私を見つめる萩野谷を見てしまうと申し訳なくなって、頑張って微笑んでみせた。ちゃんと笑えてるだろうか。
「彼氏が死んだの。三ヶ月前に」
あぁ、とうとう口にしてしまった。なんてチープなのだろう。君の死は、目の前の男の子の同情を引く為だけに利用されてしまった。君の死になにか意味を持たせたかった。そうじゃないと納得出来なかった。
何かを守って死んだとか、綺麗な美談を添えたかった。
「交通事故でね。巻き込まれたの。飲酒運転の車に轢かれた」
意味のない死に方。この死は、どうしても君じゃないといけなかったの? 他の人じゃダメだったの? 死に方は選べないとはよく言うけれど、流石にこれはあんまりじゃないか。
そこから先は何も語れなかった。語る内容などないくらい、どこにでもある事故。やり場のない憤りは私の心臓から全身に回って、また心臓に戻ってくる。
そっと、優しく私の頬にハンカチが当てられる。萩野谷が対面から腕を伸ばして、私の涙を拭ってくれる。
そのときの萩野谷の顔があまりにも真剣だったから、私は思わず視線を逸らしてしまった。
どこにでもある話だって、バカにされると思ったから。でも、そう思ってしまったのは私自身が君の死に方をバカにしていたから。君は特別だったから、死に方も特別であってほしかった。その願いが叶わなかったから、私は君をバカにしてしまった。なんて性格の悪い人間なのだろう。私なんかが、君のことを想って涙を流してもいい理由なんてどこにもない。
「泣いてもいいよ」
私の心を見透かしたように、萩野谷は言う。
「口にしたの、初めてなんだろ……?」
「…………どうして分かったの?」
「俺も姉ちゃんを亡くしてるから。なんとなく分かるんだよ。自分の口で言うのって結構キツイよな。でも、ちゃんと言えてよかったね。ちゃんと須藤さんの中で死なせてあげなきゃね……」
あぁ、この子は強いな。誰かを生かしたり死なせたり、ちゃんと出来るんだ。私なんかより、ずっと強い。
「これでちゃんと死なせてあげられたのかなぁ……」
「うん、ちゃんとお別れ出来たよ。だって今とっても寂しいでしょう?」
「うん……さびしいよ……」
心に大きな穴が空いた。ようやく君の形の穴が空いた。君だけしか埋められない心の穴だ。その大きさが私の中の君の大きさ。私の心はもうほとんど、残ってないよ。
涙が止まらなくなった。嗚咽が溢れる。もうグチャグチャな顔になっているだろう。それでも萩野谷は私にハンカチを当て続けてくれた。感情が溢れる。心の声。
「ごめ……、なさ……。寂しくて……。やだよ……。死んでほしくなかった……もっと……一緒にいたかった……」
「……うん」
止まらなくなった。三ヶ月分の感情の正体は子供のような駄々だった。駄々を捏ね続けたら、神様が特別に全部をなかったことにしてくれるような、そんな馬鹿げた願いを本気で祈り続けていたのだ。