死ぬときだけの優しさ
波が優しかった。プカプカと海面に浮かぶ私を、揺りかごのように慰めてくれる。泣き止んだのか、海に涙が紛れたのかは分からなかった。分かりたくなかった。泣くことをやめたら、まるで君のことがどうでもよくなったみたいに思われてしまいそうで怖かった。
どうでもよくなることなんかないよ。無価値になることなんてないんだよ。君は私の中で永遠で、私は君の中で生きていたいから。
大切な人って死ぬこともあるんだね。何よりも大切にしてるから、壊れてしまうことなんてないんだと思ってたよ。
「なんで助けてくれたの? 頼んでないけど」
「頼まれないと他人を助けたらいけないのかよ」
男の顔を今になって確認した。声が若かったからもしかしてと思ったが、どうやら年下の高校生くらいのようだ。体は大人なのに、表情にどこか幼さが残る。
「君みたいな暴力的な善意は一番嫌い。死ぬときだけ、死なないでなんて言って、手を差し伸べて、死なないことを確認するとどこかへ行ってしまう。結局君みたいな人種は、自分が気持ちいい思いをしたいだけでしょう? 生きていくほうが苦しい人だっているんだよ」
男の子は何も言わなかったが、眉間に皺を寄せて納得のいかない顔をしている。ただ、真っ直ぐにこちらを見て、何か言葉を探しているようだった。でも、たぶんその探している言葉も綺麗なものだろう。綺麗なものはいつの時代も正しい。ただ、今の私には正しく生きる力は残されていなかった。正論は正しく生きたくても生きれない人を傷つける。
「死ななかったら、生きてるなんて。生きてさえいてくれたらそれだけでいいなんて、どれほど都合のいい言葉か考えたことはある? 自殺志願者が死ねなかった夜、どんな気持ちで朝を迎えるのか一度だって考えたことはある?」
「……じゃあ、助けなかったらよかったってのかよ。俺、間違ったことしてないよ。アンタがどれだけ俺に八つ当たりしようと、俺絶対謝らないから。間違ったことしてない」
「そうだね。間違ってないよ。正しいよ。でも、正論は人を正しはしても、人は救えないんだよ」
「アンタちょっと……変だぞ。たぶん、ちょっと休んだほうがいい」
「うっさい」
思い切り男の子の顔面に向かって水をかけた。男の子は水浸しだったのが、さらに酷くなった。
「……」
滴り落ちる水滴をそのままに、男の子は黙ってしまった。私も罰が悪くなって黙り込む。この子に八つ当たりをしたところで何も変わらないのに。
「……ごめん。助けてくれてありがとう」
この空気に耐えきれなくなって、私のほうから謝ってしまった。
「あ……いや、俺のほうこそ……ごめんなさい」
「ふふっ、謝らないんじゃなかったの?」
「いや……これは、傷つけてしまったことに対して」
「……」
遠く向こうで、波が消えていく音がする。雪は段々と強さを増して私たちの視界を奪っていく。
「とりあえず、こんなところにずっといても仕方がないから海から上がろう。そもそも遊泳禁止だし……」
「うん……」
男の子は、私と手を繋いだ。今度はお互いが掌を開いたから、手を繋ぐことが出来た。なんだか少し照れくさい。男の子の照れが、私にまで感染したのだ。
海底を力なく蹴りあげ、殆ど波に任せるように進んでいく。この時、私の体は海では生きていけないように作られていることを感じ、急に怖くなった。地球上で人が生きていけない環境がこんなに身近にあることに気付いて、恐ろしくなった。
陸に上がると、私はその場に倒れこんでしまった。不眠不休に彷徨い続けていたことと、何日も何も食べていないことのツケが回ってきたのだ。
あぁ、もしかしたらもう私はここで死ぬのかも知れないなぁ。視界がぼやけていく中で、そんなことを考えてしまった。死ぬかもしれないという瀬戸際にたって、ようやく私は少しだけこの世界のいいところを知ることが出来た気がする。それは一瞬生まれた寂しさが魅せた幻。本当は大嫌いで、死んだあとに「生まれてよかった?」と聞かれても「大嫌いだった。心から壊れてほしいと願っていた」となんの躊躇もなく即答出来る程度のもの。ただの気の迷い。それだけ。
さようなら。おやすみなさい。やっと、死ねるよ。
*
「…………」
次に私の目が捉えた景色は真っ暗闇だった。本当に死んでしまったのかと一瞬思った。動く気すら失せてしまっていた私は、ただぼんやりと暗闇の中にいた。今の分かることは私は仰向けになってベッドの上で寝ているということだけだ。
窓に吹き付ける冷たい風の音がする。月明かりに照らされた世界に目が慣れてきた。酷いノイズの中で、私は認識し始める。たぶん、ここは病室。腕には点滴の針。動いていいのかも分からない。そもそも私はどのくらいの間眠っていたのだろうか。
まぁ、いいや。今はなにも考えたくないよ。君のことも。これからのことも。考えたところで、意味はないから。
次の日は昼過ぎに目を覚ました。病院は思っていたよりかはうるさいところで、常に誰かの声が聞こえていた。簡単な検査を終えて、ただの栄養失調だと判断された。安静にして、少しずつちゃんと食べて、ちゃんと寝たら若いからすぐに元気になるそうだ。死ぬことには全力で抵抗するくせに、生きることはすんなり受け入れる自分の体は嫌いだ。
そもそも私はこの世界に好きなものなどあるのだろうか。
好きなものはあったけど、たぶん、それは一つだけだった。たった一人だけだった。この世で毎日何万と失われていく中のたった一つだけの大切な命。
枕元に紙切れが置かれていた。携帯の電話番号らしき数字の羅列と、萩野谷正文という知らない名前が書かれていた。なんとなく、誰の名前かは想像出来た。
自宅に戻り、私は一息ついた。温かい紅茶を淹れて、ただぼんやりと窓の外を眺める。そんなことをしているうちにまた1日が終わっていく。私の人生が消費されていく。
口から注がれた温かい紅茶は、私の喉を通り抜け、胸の真ん中に溜まった。
プルルルルル……。私はもらったメモ紙の番号に電話をしてみた。3回くらいコールしたところで、なんだかめんどくさくなってきた。もう切ろうかと、スマホを耳から離した瞬間、画面が通話中に切り替わる。
「もし……もしもしもしもし」
「……うるさい」
「あっ、ごめん。俺のこと……覚えてる? 海で会った」
「……うん、覚えてるよ」
「元気になった?」
「うん、たぶん。元気って、どこからが元気かは分からないけど、元気だよ」
「そっか。うん。よかった。それじゃあ」
「それだけ?」
「えっ? うん、そうだよ」
「一回、会ってくれない? お礼したいし」
「あ、……いいよ」
気の迷いだ。ただの気の迷い。なんとなく人肌が恋しくなってしまった。そんな下衆な理由。お礼がしたかったわけじゃない。ただ、今は誰かの優しさに触れていたかった。