第18話「トランスラヴ(4)」
暗闇が白く明けていく。
白い天井だ。
目を覚ましたルーファスは辺りを見渡した。
清潔感あふれる白いシーツのベッドと仕切りのカーテン。
「(……医務室か)」
腹痛などなどで日頃からお世話になっている学院の保健室だった。
天井を見つめていた視界の中に、ヌッと男の顔が現われルーファスは悲鳴をあげる。
「ぎゃっ!?」
「具合はどうかねルーファス君?」
蒼白い顔に黒衣姿の男はこの大病院の医院長ディーだった。
「……ここクラウス魔導学院ですよね?」
当然の質問だった。
「そうだがなにか?」
「いや……どうしてここに?」
「ルーファス君が倒れたと聞けば、灼熱の太陽が降り注ぐアウロの庭砂漠にでも馳せ参ずる」
「(こなくていいし)でもここにいるなんて都合よすぎでしょ?」
「ふむ、魔導衣学の講義をして欲しいと言われてね。今日は打ち合わせで来ていたのだよ。そんな折、ルーファス君が倒れたと聞いてね。まさに運命の巡り合わせとでもいうべきか」
「(迷惑な運命だなぁ)」
ふとルーファスは気づいた。身体の汚れが綺麗さっぱり落とされ、アイロン掛けをされた自分の魔導衣を着せられていた。
「あの……シャワーと着替えはだれが?(イヤな予感)」
「私は悲しい!」
突然、ディーが声を張り上げルーファスはビクッとした。
「な、なんですか?(こんなに声を張り上げたのはじめて見た)」
「そのおぞましい身体はいったい何事だ」
ワシのような手が果実のような胸に伸びてきた。
むにゅっ。
「ひゃん」
「その甲高い声も耳障りだ。嗚呼、なんたることだ、ルーファス君にいったいなにが起きたというのだ。こんな肉塊などもぎ取ってくれる!」
「ひゃっ、あうぅぅ、あふン……ちょっと……やめて……
鬼のような形相のディーに胸を揉みくちゃにされ、吐息を漏らしながらルーファスが身悶える。
揉み方もだんだんと激しくなり、柔肉に詰めを食い込ませて、本当にもぎ取ろうとしているようだった。
「邪悪な肉体よ、滅したまえ!」
「イタッ、タタタタタッ、もういい加減にしてくだ……ひぐっ」
と、こんなあられもないシーンのところへ、保健室のドアが開いてピンクのツインテールが飛び込んできた。
「ルーちゃ~ん!」
「はぁぁぁぁン!」
甲高いルーファスの声が木霊した。
一瞬に凍りつくビビ。
「……へ……ルーちゃんの……変態っ!」
力一杯叫ぶとビビは部屋を飛び出して行った。
「ちょっ……違うんだビビッ!」
ルーファスが声をかけるが、そこにビビの姿はもうない。
そこへビビと入れ替わりでルシがやってきた。
「倒れたって聞いたけど……なにやってるんだおまえ!」
黒衣の変態が巨乳っ娘を襲っている構図。
理由も聞かずにルシはディーに飛びかかっていた。
「彼女から離れろ!」
「邪魔しないでくれたまえ」
ディーは注射器をどこからともなく取り出し、まるでダーツのように投げた。
ビュン!
注射器の針がルシの首元をかすめ、後ろの壁に突き刺さった。
すかさずディーは次の注射器を投げようとしている。ルシも反撃しようと警棒のようなロッドを構えた。
バトル展開が繰り広げられる中、ディーの魔の手から解放されたルーファスは、息を殺して部屋からこっそり抜け出そうとしていた。
「(もうやだ……こんなことに巻き込まれてないで、早く男に戻らなくちゃ)」
そもそも、ジュースを買いに――ではなくって、パラケルススを探そうとしていたのだ。
どうにか保健室から抜け出して、廊下を見渡すとそこに山吹色の後ろ姿を発見した。今日の講義でパラケルススがあんな魔導衣を着ていた。
「パラケルスス先生!」
声をあげた瞬間、バトルをしていた二人がピタッと動きを止め、示し合わせたようにルーファスを射貫くように見た。
逃げようとしているのがバレた。
ここで立ち止まってはイケナイ!
猛ダッシュで逃げるルーファス。
豊満な胸が交互に激しく揺れる。
「パラケルスス先生!」
ガシッ!
伸した手で相手の肩を後ろから掴んだ。
そして、振り返ったパラケル……スス?
「じゃない!」
悲鳴に似た声を荒げてルーファスは目を丸くした。
ガシッ、ガシッ!
ルーファスの両肩が何者かによってつかまれた。
苦い顔をしてルーファスは左右を確認する。もちろんそこにいたのはルシとディーだ。しかもこの場には部外者の知らないオッサンまで。
ルーファスにつかまれたオッサンは不思議そうな顔で立ち尽くしている。
「どうかしましたか?」
「(人違いですって言ったほうがいいよね……)ひ、ひとさらいです、この人たち!」
「はい?」
「このふたり、あたしのこと誘拐しようとしている変態なんです!」
まさかの発言に左右の二人は唖然として、ルーファスをつかんでいた手からすっと力が抜けた。
今がチャンスだ!
「ミスト!」
呪文を唱えたルーファスの周りに霧が発生して、この場の視界を覆い隠した。
ゴン!
壁になにかを強打する音。
「いった~い!」
可愛らしい悲鳴。もちろんルーファスだ、
ディーが黒衣でマントのように霧を払うと、瞬く間に視界が晴れた。
そして、床で尻餅をついて倒れているルーファスの姿があった。
自分で出した霧で視界が見えずに壁に激突。
狼のような瞳で二人の男が乙女にじわじわと近づいてくる。
「(喰われるっ!)」
背筋が一瞬で凍りつく恐怖を感じたルーファスは腰が砕け立ち上がれない。
「大丈夫かルーファス!」
突然現われた影がルーファスを掻っ攫って、お姫様抱っこをしながら駆け出した。
見上げるとルーファスの瞳に映し出された白馬の王子様の顔。キラキラと輝くその顔は、王子様ではなく王様だった。
後ろから男二人が追ってくる。
「ルーファス君は私のモノだ!」
「彼女をどこに連れて行くつもりだ!」
クラウスは振り向きもせず走っている。その懸命な顔つきにルーファスはドキドキした。
古い友人だったが、こんなに間近で、今までと違う印象を受ける。
「(クラウスって……やっぱり王様なんだ)」
気高く気品のあふれる丹精な顔。
ルーファスを抱いていたクラウスの手と腕に力が入る。
ぎゅっとしたそのとき、ルーファスの胸もぎゅっとされてキュンとした。
後ろからまだ二人が追ってきている。
クラウスがつぶやく。
「やむを得ないか……」
いったい何をするつもりなのか?
「テレポート!」
その魔導は超高等であり、ライラよりも難しいとされ、この魔導都市アステアでも扱える者は確認されているだけでも二人。クラウス魔導学院の学院長であるクロウリー、そしてアステア王であるクラウスだ。
テレポートとはすなわち瞬間移動。これと似たものに召喚術というものがあるが、あれとは原理が異なり、テレポートのほうが高位であり危険も伴う。
クラウスも実用レベルで使用が可能だが、準備もなしに使うものではない。失敗すると、よくて死。最悪の場合は……。
テレポートは厳密に言えば、場所から直接別の場所に移動するのではなく、〈魔の道〉と呼ばれる場所を通過する。通常は記憶にも残らないほどの時間で通り抜けることができ、目的地に辿り着くことができる。
ルーファスとクラウスのテレポートも無事に移動でき、それは一瞬の出来事だった。ちなみに、複数でのテレポートは難易度と危険度が上がる。
その場にテレポートしてきた二人が全身で跳ねた。下から突き上げるふわふわのスプリング。
「きゃふ」
声をあげたルーファスはクラウスの上で抱き締められた。
ベッドの上で!
「大丈夫かい?」
クラウスが甘く囁いたような気がする。
ベッドの上で!
いったいここはどこなのか?
「うちのベッドより高級そうだ」
「すまない、急だったので私の寝室に飛んでしまった」
テレポートは知らない場所への移動は、なんらかの補助がない限りは不可能に近く、逆に思い入れが深い場合やよく行く場所は飛びやすい。
が、今のルーファスは脳内桃色レボリューションなので、なぜここにという問いがあらぬ方向の解答を導き出す。
「(ベッドルームに連れ込むなんて、しかもクラウスのプライベートな神聖な領域。そんなところに連れ込んでなにをするつもいりなのっ!?)」
「(いつも限界まで職務をこなし倒れるように眠ってしまうからな。緊急時に意識が朦朧としていても、この場に飛べように訓練していたからだ)」
まだふたりは抱き合ったままだった。
ベッドの上で!
クラウスの両手がルーファスの背中を軽く押さえている。
「(いやん、クラウスったら奥手なんだから。もっとギュッと、ギュッと抱き締めて離さないでぇぇぇン!)」
キモイ。
声に出さないだけマシだが、表情にはすでに歓喜と苦痛の狭間で身悶えてます的な表情で、キモイ。
辛抱堪らずルーファスからギュッと抱きしめた。胸部による窒息法――またの名をボインスープレックス。
「や、やめろッ!」
声を荒げたクラウスがルーファスを突き飛ばした。
瞬時にクラウスは後退り、部屋の隅に背中を押しつけた。その表情は蒼白く汗を大量に流していた。
涙ぐむルーファス。
「ひどいわクラウス、ぐすん」
口語まで女体化していた。
ゆっくり近づいてくるルーファスにクラウスは明らかに怯えている。その視線は胸に向けられていた。
「来るなルーファス! ダメだ、絶対に僕のことを抱き締めたりするなよ! 絶対だぞ!」
「私のことが嫌いなの?」
「苦手なんだ」
が~ん!
ルーファスショック!
ショックのあまり猪突猛進。
両手を広げてクラウスに飛びかかった。
「クラウスぅ~~~っ!」
「ぎゃあああああっ!」
ボインアタック!
クラウスの顔面が縛乳に埋もれた。
「ふぐっ……やめろ……(苦しい……もう意識が……)」
ルーファスの胸の谷間でクラウスからふっと力が抜けた。
気絶したのだ。
「ク、クラウス!? どうしたのクラウス!」
とりあえず気絶したクラウスをベッドに寝かせた。
「(どうしよう……?)」
様子をうかがいながら、視線は自然と唇へと向けられていた。
瑞々しい高貴な薔薇のような唇。
――人工呼吸!
「(ダメよ、そんな……緊急事態とはいえ、唇を奪うなんて……嗚呼、でもこの想いが止められない!)」
早まるなルーファスーーーッ!!
顔と顔が重なりそうな距離まで近づいた。
ガチャ。
突然、ドアの開く音がして声が飛び込んできた。
「今日もクラウス様のお部屋を……ッ!?」
30代くらいの侍女らしき者が部屋に入ってきた。手には掃除道具のぞうきんの掛かったバケツとホウキを持っている。
口と瞳を丸くしてルーファスは唖然としながら侍女と目を合わせた。
言葉が出ない。
侍女はホウキの柄をビシッとルーファスに向けた。
「どなたですか!」
「あ……いえ……そのクラウスの友達です」
男女がベッドにいる状況。明らかにただの友達という感じではない。しかもじつは両方男っていう。
侍女は深く頷いた。
「クラウス様がわたくし以外の女人をご自分の部屋に招くなんて……ついにクラウス様も大人の階段を! 嗚呼、今日はなんとおめでたい日なのでしょうか!」
なんかズレたひとだ。見知らぬひとが王様の寝室にいたら、もっと大問題になるだろう。
ルーファスはそっとクラウスの身体から離れた。
「あのぉ、抱き締めたらクラウスが気を失ってしまったんですけど?」
「まあ、本当に!? クラウス様、大丈夫でございますか!」
クラウスが気絶していることにやっと気づいたようだ。
侍女は豊満な胸を揺らしながらクラウスに近づき、その上半身をベッドから起き上がらせて抱き締めた。
「クラウス様、クラウス様、起きてくださいまし!」
「う、うう……」
小さくうめいたクラウスは静かに瞳を開き、侍女の胸の中にいることに気づいて、恐怖で顔を引きつらせながら飛び上がった。
「モレナ!」
「嗚呼、クラウス様、お気づきになられたのですね。わたくし嬉しくて……」
モレナは両手を広げクラウスに近づく。
「近づくな、その胸で!(やむを得ない)テレポート!」
「待ってクラウス!」
声をあげてルーファスは慌ててクラウスの袖を掴んだ。
一瞬のうちに二人がやってきたのはクラウス魔導学院の正門だった。
クラウスは汗をぐっしょりとかいて息を切らせている。
「危なかった」
「だいじょうぶクラウス?」
「君には打ち明けるよ、だから秘密の話にして欲しい」
「(えっ、ふたりだけのヒミツ? きゃは♪)」
脳内桃色。
「じつは胸の大きな女性に抱きつかれるのが苦手なんだ」
「そ、そんな……(なんて残酷な運命なの、こんな胸、こんな胸なんてなくなってしまえばいいのに!)」
ルーファスはクラウスに背を向けて自分の胸をもぎ取ろうとした。
沈痛な面持ちなクラウスはルーファスに構わず話を続ける。
「幼いころのトラウマがあって……さきほどのモレナは僕の乳母だったんだが、何度もあの胸で窒息死させられそうになって……見る分にはどうにか恐怖に打ち勝てるんだが、抱き締められて顔に胸を当てられると……」
窒息でもすんじゃないかってほどクラウスは蒼い顔をした。
ルーファスは瞳をうるませた。
「そうだったの……なんてかわいそうなクラウスなの! だいじょうぶ、私の胸で弥してあげる!」
癒えねぇーよ!
ルーファスが爆乳を揺らして飛びかかってくる。
苦しげ表情のクラウス。
「(テレポートで逃げる余力もない)ライトニング!」
激しい閃光を放って目眩ましだ。
目を固く閉じて怯んだルーファス。逃げる足音が聞こえる。目を開けられるようになったとき、もうクラウスは30メティート(36メートル)は離れた位置で背を向け走っていた。
「待ってクラウス! 私を置いてどこに行く気なの! クイック!」
猛ダッシュでルーファスが追いかける。
学院内の廊下を駆け抜ける。
途中の廊下で左右を見渡しながらなにかを捜しているようすのルシとすれ違った。クラウスは気づいたようだが、ルーファスはクラウスに夢中で気づいてない。
「待って!」
ルシが声をかけたが二人は見向きもせず駆け抜けていった。
さらに途中の廊下に巨漢が立っていた。
「見つけたぞルーファス!!」
カーシャだった。ついに痺れを切らせて教室を出たらしい。でもルーファスの目には入らなかった。
さらに途中の廊下でビビと遭遇。
「ルーちゃん捜したん……だ……待ってよ!」
やっぱり目に入らず駆け抜けていく。
そんなことをしているうちに奇妙な行列が廊下を駆け抜けるという光景になった。
王様を追いかける女体化メガネっ子を追いかけるメガネ男子ルシ。さらにルーファスを追ってくる筋肉魔神とピンクのツインテール。混沌としている。
「クラウス待って! 私の愛を受け止めてぇ~!」
もうルーファスは帰ってこられない。
「妾の筋肉を見よォォォォッ!」
こっちは常人が達しない場所にイッてしまった。
ルーファスは揺れる胸を苦しげに押さえた。
「(重たくて走れない……でも負けられない!)」
いったいおまえはなにと戦ってるんだ?
速度を落としたルーファスにルシが距離を縮めてくる。
「捕まえた!」
ルシの手がルーファスの袖を掴んだ。
「俺は君のことが好きなんだ、だから逃げないでくれ!」
そこへどこからどもなくふあふあっと空色ドレスが現われた。そして、無言で持っていたバケツの中身をぶちまけたのだ。
バシャァァァッ!
緑色のドロドロヘドロのような液体を頭から被ったルーファス。と、そのついでに被害者になったルシ。
「いきなりなにをするんだ!」
声をあげたルシは、すぐさまルーファスを気遣った。
「大丈夫だったかい? また汚れてしまったね」
指先で優しくルーファスの顔についたヘドロを拭っていたときだった。
異変だ。
ルシは微妙な異変に気づいた。
「(ん……顔つきが……)」
顔から丸みがなくなり、骨格が浮き出ていく。
大きく服を突き上げていた胸の膨らみも萎んでいく。
「ローゼンクロイツひどいじゃないか!」
と張り上げた声も低めで男らしかった。
――男だ。
ルーファスは男に戻っていた。
目の前で起きた出来事にルシは放心状態だった。
「ウソ……だろ……」
ローゼンクロイツはもう片手に持っていたバケツの中身を筋肉バカにぶちまけた。
バシャァァァッ!
「妾の筋肉を……ハッ、妾はいったい?」
女に戻った瞬間、正気に返ったようだ。
ニッコリのビビちゃん。
「よかったねルーちゃん男に戻れて!」
「そ、そうだね……」
苦い顔をしてルーファスは小さく答えた。
壁に片手をついて憔悴しているクラウス。
廊下に両手両膝をついて項垂れるルシ。
事件の傷は深かった。
そして――。
「妾のイチゴジュースはまだか!」
「あ、アタシのも」
パシリにされるルーファス。身体も元に戻り、すぐに日常も戻ってきた。
「(女の子のほうが優しくされる気がする)」
心に思うルーファスの視線の先には、空色ドレスの男の子がマイペースに歩いていた。
第18話_トランスラヴ おしまい