第7話「不良娘はピンクボム(2)」
折れた箒が転がっている。
その近くで倒れていたビビがピクッと身体を震わせた。
「うう……どこ……」
両手を床につけ立ち上がろうとしたビビ。
「痛っ!」
足首に激痛が走った。
仕方がなくビビは足を伸ばして床に座った。
「え〜っと……ルーちゃんといっしょにホウキで飛ばされて……」
フラッシュバック。
大砲のようにぶっ飛んだ箒につかまり、空高く夜空の星になりかけた。ホウキは操縦ができなくて、グングン迫ってくる大きな建物。それは王都アステア最大の聖堂――聖リューイ大聖堂だった。
辺りを見回すビビ。
空が近く、背の低い建物がここよりも下に見える。床だと思っていたのは屋根だった。
「……ルーちゃん! ルーちゃんどこ!?(どうしようルーちゃんがいない!)」
斜めになって折り返している屋根の向こうから人影が現れた。
ふらつく足取りのルーファス。頭を押さえて今にも倒れそうだ。
「うう……」
「だいじょうぶルーちゃん!(あぁ……よかった)」
屋根から足を滑らせそうになったルーファスをビビが抱きかかえた。足が痛むのか少しビビは苦しそうな顔見せたが、すぐにそれを隠して笑顔を作った。
ビビとルーファスが間近で顔を合わせた。
瞳に映るお互いの顔。
ビビは息を呑んだ。
時間が止まったようにふたりは動かない。
そしてしばらくして、ルーファスの口がゆっくりと動き出した。
「……君、だれ?」
「…………」
見る見るうちにビビの瞳孔が開かれていく。
パチパチとビビの瞳が開閉した。
「ええぇ〜〜〜っ!? うっそー、ウソだよねルーちゃん!?(どういうこと、なにが起きたの!?)」
空まで響き渡ったビビの叫び。
ルーファスは首を傾げて、不思議そうな瞳でビビを見つめている。
「ルー・チャンって僕のこと?」
『ルーちゃん』が名字と名前みたいな発音になっている。
これはまさかの記憶喪失ってやつだろうか?
おそらく原因は落下による衝撃。
状況を把握したビビは焦った。
「アタシのこと覚えてないの!?」
「ぜんぜん」
「えっと、アタシの名前はシェリル・ベル・バラド・アズラエル、愛称はビビ。これでも魔界ではちょ〜可愛い仔悪魔でちょっとは名前が知られてるんですけどぉー……覚えてない?(うわぁ〜ん、どうしよールーちゃんがアタシのこと覚えてない!)」
「ごめん、ぜんぜん覚えてないんだ(というか、自分のこともよく思い出せない。困ったなぁ)」
記憶喪失確定!
現状、最大の問題はルーファスが記憶喪失だということ。
そして、ほかにも身に迫った問題があった。
「アタシがどうにかしなきゃ……えっと、えとえと……まずは病院にルーちゃんを連れて……」
辺りを見回したビビはある問題に気づく。
「降りれない!」
ここは屋根の上。屋根伝いに行けそうな場所もない。聖堂から伸びる塔がいくつも見えるが、遠くて遠くて話にならない。
つまりこの場所に閉じ込められたのだ。
「ルーちゃん魔法でビューンと下りられない?」
「……僕、魔法使えるの?」
ガーン!
そこまで忘れてしまったのか……。
でも、魔法を覚えていたとしても、ここから下りられる魔法をルーファスが使えるかは怪しい。
自力でどうにかできないなら、助けを求めるしかない。
「ちょっとルーちゃんここでじっとしてて」
ビビはそう言い残して歩き出そうとしたのだが、
「いっ!」
激痛が足首に走った。だんだんと悪化しているようだ。
心配そうな瞳でルーファスがビビの顔を覗き込む。
「大丈夫?」
「うん! ぜんぜんへーき!」
ビビは精一杯の笑顔で答え、足の痛みを隠しながら歩き出した。
それでもルーファスに背中を向けたあとは痛みを隠せない。痛くて痛くて歯を食いしばってしまう。隠そうとしているのに、どうしても歩き方がぎこちなくなってしまう。
「(ルーちゃんに心配かけちゃいけない。きっとルーちゃんは記憶を失って不安で仕方ないんだから、アタシがしっかりしなきゃ!)」
ビビの気持ちとは裏腹にルーファスは――。
「(いい天気だなぁ)」
空を見上げて和んでいた。
ビビは屋根の端までやって来て、身を乗り出して地面を眺めた。
聖リューイ大聖堂前には巨大なアンダル広場があり、その周りには多くの建物が囲んでいる。時計台や鐘楼、行政館や郵便局などから、美術館や博物館まである。人通りも多く、観光客でいつも溢れかえっている。
ビビは地上にいる人に向かって手を振った。
「助けてー!」
ビビが手を振ると向こうも振り返してくれるが、見事なまでに笑顔。
声は高さの壁に掻き消され、どうやらまったく意思疎通ができていないらしい。
「手を振り返して欲しいんじゃなくて助けて!」
でも笑顔で手を振り返される。
建物の高さもあるが、この地域は風が強いことでも有名で、ダブルパンチで声が掻き消される。
「だめっぽい」
溜息を落としてビビはルーファスの元へ戻ることにした。
ルーファスは屋根に腰掛け座っていた。
「お帰り」
「うん(困ったなぁ。下りれないし、ルーちゃん記憶喪失だし)」
悩みでモンモンとしながらビビはルーファスの横にちょこんと座った。
空を見上げると太陽がギラギラ輝いている。陽が落ちるのが早くなりはじめているが、たまに夏の日差しが戻ってくる。夕暮れも近いが、暑さが引くのはまだ先だろう。
日が暮れれば夜が来る。
ビビがボソッとつぶやく。
「いつまでここにいればいいんだろ」
誰かが気づいてくれるのを待つか、それとも自力でどうにかするしかないのだろうか?
さすがに明日くらいになれば、誰かが二人に気づいてくれるかもしれない。
箒でビューンっと飛んで行って、そのまま消息不明になれば、普通は気にしてもらえずはずだ。
遠くを眺めているルーファス。その横顔を見つめるビビ。
「(ルーちゃんなに考えてるんだろう。やっぱり不安なのかな)」
「(お腹すいたなぁ。なんでだろう、ご飯食べてなかったっけ?)」
「(なんだか深刻そうな顔してる。やっぱり不安なんだ)」
「(あっ、あの雲クロワッサンに似てる)」
「(やっぱりアタシがどうにかしなきゃ!)」
男女のすれ違いが起きていた。
ビビは穏やかな眼差しでルーファスを見つめた。
「ねぇ、ルーちゃん?」
「ん?(ルー・チャンって呼ばれてもしっくり来ないなぁ)」
「自分の名前も覚えてないんだよね?」
「ルー・チャンっていうんだよね?」
「うん、ルーファスだよ。だからルーちゃんなの(あ、そういえばアタシ、ルーちゃんのフルネーム知らないや……そんなことも知らなかったんだ)」
「えっ?(ルー・チャンじゃなくて、ルーファスって名前だったんだ)」
驚いた顔をしたルーファスを見てビビに不安が過ぎる。
「どうしたの驚いて?(アタシなんかマズイこと言っちゃったのかな?)」
「別に、なんでもないよ(ルーファス……ルーファスかぁ。けっこうカッコイイ名前だなぁ)」
「(アタシに言えないこと? どうしよう、アタシどうしたらいいんだろう)」
見事なすれ違いだった。
不安を胸に悩むビビ。
「(ルーちゃんにしてあげられること。記憶を戻してあげられたら……思い出を話したら……記憶が戻るかも!)」
ひらめいて心が晴れたビビだったが、またすぐに気持ちが沈んでしまった。
「(思い出……考えてみたら、まだルーちゃんと出会って間もないんだよね。こっちの世界に来て、知り合いなんていなかったから、ルーちゃんの近くにいること多かったけど、まだ1ヶ月も経たないんだ……)」
ルーファスとビビの出逢い。
笑顔を作ってビビはルーファスに話しかける。
「ねぇルーちゃん、はじめて会ったときのこと覚えてる?」
「ごめん、覚えてない」
「だよねー」
少し沈んだ声で下を向いたが、すぐに気を取り直してビビは顔を上げた。
「アタシとルーちゃんの出会いは、ええっと2週間くらい前。ルーちゃんが召喚に失敗してアタシを呼び出しちゃったんだよ?」
「そうなんだ(ぜんぜん覚えてないなぁ)」
過去を振り返るビビ。
――あの日、ビビはライブハウスにいた。
ビビがヴォーカルを務めるバンドの演奏を聴きに、観客たちが歓声が上げて詰め寄せていた。
社会のしがらみから抜け出したくて、皇女に生まれた運命から逃げ出してくて、ビビは歌い続けた。
しかし、どこへ逃げても追っ手が来る。
ビビを連れ戻そうと王宮の兵士たちが観客に化けて紛れ込んでいた。
それに気づいたビビは観客たちに助けられながら逃げようとした。
一時的に振り切ることはできた。それでもすぐに次の追っ手が来てしまう。そのときだった。
甘い甘い香り。
別の世界から漂ってきた香り。それはルーファスが召喚に用いた香[コウ]だった。別世界の扉がすぐそこにある。
そして、ビビは新たな一歩を踏み出したのだった。
「それからルーちゃんの影に取り憑いたと思ったら離れなくなっちゃって、いろいろ大変だったよね、あのときは」
「ごめん、やっぱり覚えてない」
「ほら、カーシャさんのせいで死にかけちゃって」
「カーシャ?(なんだろ、寒気がした)」
記憶を失っていても、カーシャのことは身に染みて覚えていると言うことだろうか。
「うん、魔導学院の先生だよ(そう言えばルーファスとカーシャって普通の先生と生徒って感じじゃないけど、どーゆー関係なんだろ?)」
「僕って魔導学院の生徒なの?」
「うんうん、クラウス魔導学院の4年生だよ」
「クラウス魔導学院って名門中の名門だよね?(すごいんだなぁ僕)」
それはルーファスが起こした最大の奇跡だろう。ぶっちゃけそこで運を使い果たしたと、友人知人に散々言われている。それ以前から運は悪いというウワサもあるが。
しかし、ルーファスは不運を呼び込む体質でも、ここぞという時にはとびきりの運を発揮する。
あのときもそうだった……。
「アタシ……嬉しかったよ、あのとき」
「あのとき?」
「一生懸命ルーちゃんがアタシのこと守ろうとしてくれたこと。炎に包まれて二人して丸焦げなっちゃいそうになったとき、ルーちゃんはアタシのこと命がけで守ろうとしてくれたの、本当に、本当に嬉しかったよ」
顔を背けてビビは潤んだ瞳を隠した。
命をかけて守られれば、誰でも感謝や嬉しさの気持ちが芽生えるだろう。けれど、ビビはそれ以上に思い沁[シ]みることがあった。
「(アタシのことを守ってくれる人、それも命がけで守ってくれる人はいくらでもいた。でもそれはアタシ自身を守ってくれてるんじゃなくて、皇女であるアタシを守ってくれてるような気がいつもしてた。もしもアタシが皇女じゃなかったらどうなんだろうって……)」
ルーファスの影から離れたあとも、ビビはこの世界のこの街に留まった。
ずっと自分の立場から逃げ続けていたビビは、逃げるだけではなく新たな何かをこの場所で見つけようとしていたのだ。
ビビが皇女だということを知らない人々に囲まれ、知っていても今まで誰もそのことに触れた人はいなかった。そんな世界でビビは何かを見つけようとしていた。
ビビは涙を拭って話題を変えることにした。
「昨日も大変だったよねぇ〜。またルーちゃん召喚に失敗して変なの呼び出しちゃうんだもん。でもあれなんだったのかな、結局なんだかよくわかんなかったよね」
「あれ?」
「エロダコだよ、エロダコ。もしかしてアタシが手料理つくってあげたのも覚えてない?」
「ごめん、まったく(それにしてもお腹すいたなぁ)」
「(また辛そうな顔してる。記憶喪失のことあんまり言わない方がいいのかな。きっと記憶がないことで悩んでるんだ)」
またすれ違いだった。
空を見上げるルーファス。
「召喚か……(食べ物召喚できないかなぁ)」
「なにか思い出した!?(召喚で何かキッカケが!?)」
「いや……その……(食べ物のこと考えてたなんて言えないよね)」
「(深刻そうな顔してる。やっぱり悩んでるんだ。早く記憶を戻してあげなきゃ)召喚で何か思い出したの? 今日も召喚の追試テストで……あ……(ママのこと呼び出したんだった、そっちの問題のことすっかり忘れてた)」
そのときだった!
遥か空から雷鳴のように聞こえてくるエレキギターの演奏。
大鎌をモチーフにしたギターをまるでサーフボードのように乗りこなし、グングン空を飛んで何者かが近付いてくる。
顔が見えなくても誰だかすぐわかった。
「ママ!?」
叫び声をあげたビビ。
モルガン登場!
「やっと見つけたよシェリル!」
ギターに乗った変人に登場にルーファスは戸惑っていた。
「あの人だれ?(あれってギターなのかな、それとも鎌なのかな。上に乗ってるのにどうやって演奏してるんだろ。コンポになってるのかな?)」
空飛ぶギターに興味津々。
いきなりの登場でいきなり語りはじめるモルガン。
「アタシは旦那と違って腹が据わってるからね、決めたよ。アンタがその男と駆け落ちしたいならそれでもいいだろう。だがな、アタシはアタシより強い男じゃなきゃ娘はやらないよ!」
話が飛躍しすぎていた。もともとこういう性格なのか、それともどっかの魔女の入れ知恵があったのだろうか。
ビビですら目を丸くしているのに、記憶喪失のルーファスにしてみれば、意味がわからないのも当然。
「僕がこの子と駆け落ち?」
「惚れてんだろ、アタシの娘に」
「そうだったのか!!(すっかり記憶がなくて忘れてたけど、僕とこの子は駆け落ちの最中だったのか!)」
記憶を失ってるせいで洗脳されてしまったルーファス。
母親であるモルガンのことならビビがわかっている。
「(言い出したら絶対に聞かないんだから)ルーちゃんいっしょに逃げて!」
ビビはルーファスの腕をつかんで走ろうとしたが、
「うっ(足が……)」
足首は見るからに腫れ上がっており、無理して動けるような状況ではなくなっていた。
ルーファスがビビを抱きかかえた。
「いっしょに逃げよう!」
無駄にかっこいいルーファス。記憶を失ってるせいだろうか?
走り出すルーファス。記憶を失ってるせいで自分の身体能力まで忘れているのだろうか。
「もうダメだ……(疲れた)」
すぐにルーファス失速。
さらにモルガンの魔の手が襲い掛かる。
「逃がしゃしないよ、スパイダーネット!」
モルガンの手から蜘蛛の巣のようなネットが放出して、ビビもろともルーファスを捕らえようとした。
空気が焼ける臭いがした。
「ファイア!」
ルーファスの手から放出した炎がスパイダーネットを焼き尽くす。
「ルーちゃんすごーい!」
ビビは感嘆の声をあげた。
魔法を使ったルーファスが一番驚いていた。口をあんぐり開けたまま、身動き一つしない。
そこへすかさず大鎌ギターを振りかざすモルガン。手加減なしに首を狩る気だ。
「死ねーッ!」
モルガンの叫びに重なるようにビビも叫んだ。
「ルーちゃん危ない!」
そして、ビビはルーファスの身体を押し飛ばし、二人はもつれ合いながら屋根を転がった。
屋根を転げ落ちる二人。
その姿は一瞬にして見えなくなってしまった。