第4話「空色ドレスにご用心(2)」
ローゼンクロイツはルーファスト別れたあと、お世話になっている修道院には戻らず、国立図書館に足を運ばせた。
図書館の中に入ったローゼンクロイツは、案内板も見ずにスタスタと歩いていく。まるで図書館の見取り図と、本の配置を完璧に覚えている足取りだ。
そして、迷わず手を伸ばして一冊の本を取る。
分厚い表紙の本だ。この本は枕になるほか、武器にもなる代物だ。実際の用途は薬草全集の第1巻だ。
ページをパラパラと開き、中身を確認していく。パラパラ漫画を見るときのスピードだ。
パタンと本を閉じて、本棚に戻して代わりの本を取る。薬草全集の2巻目だ。
再びパラパラとして、パタンと閉じて、本棚に戻して代わりを取る。
その作業を何度も何度も繰り返した。
薬草全集は今のところ100巻以上を数え、新しい薬草が出るたびに続巻されている。
そんな本を全部確認する勢いでローゼンクロイツはパラパラしていた。本当に確認できているのかは疑わしい。はたから見たらパラパラしてるだけだ。
そのとき、ローゼンクロイツの手がピタリと止まった。
指先はある項目に置かれている。
レインボーマタタビと呼ばれる植物だった。
そして、閉じた。
読むの早っ!
数秒でローゼンクロイツはページ丸ごと記憶した。文字情報としてではなく、映像情報として脳には保管されている。けれど、この人間コンピューターは不良品なので、いつ忘れるとも限らない。
「……忘れた(ふにゃ)」
貸し出し不可、コピー厳禁、盗難はもちろんダメ。
仕方なく再びページを開く。
「……ページ忘れた(ふにゃ)」
いつにも増して深刻そうな表情を作るローゼンクロイツ。自分の不調に自分が一番気付いているのだ。
あまりにも物忘れが激しすぎる。
生活に支障が出るレベルまで達している。
昨日の晩御飯なんて忘却の彼方だ。
今日の朝食だって忘却の彼方だ……食べていないことすら、もう覚えていなかった。
急にローゼンクロイツは辺りを見回した。
そして、ボソッと。
「……ここどこだっけ?(ふにゃ)」
重症だ。
生活に支障が出るどころではなく、生きることすら困難になりそうな状況だ。
しばらくローゼンクロイツは辺りを見回して、なにか納得して頷いた。
「……図書館か(ふあふあ)」
よかった、かろうじて思い出したようだ。
だが、今手にしている本を、なぜ手にしているのか思い出せない。
とても重要な本だったはずなのに、なんで図書館にやって来たのか思い出せなかった。
しかし、偶然にも今手が乗っているページこそが、レインボーマタタビのページだった。なのに、それすらローゼンクロイツは気付いていない。
結局、ローゼンクロイツは家路に着くことにした。
もちろん、出した本を本棚に戻すことを忘れて図書館をあとにした。
そんな一部始終を本棚の影からウォッチングしていたのは、アインだった。
ローゼンクロイツが机の上に残していった本を、すかさず確認するためにダッシュ。
「(ガイア出版の薬草全集?)」
開かれたページにはレインボーマタタビのことが、ズラズラーっと書いてある。
ポイントだけ押さえると、レインボーマタタビは猫の霊と交霊したり、猫憑きと呼ばれる猫に憑依された人物の猫の人格を呼び起こしたり、時には取り憑いた猫を惹き付けて引き剥がすことにも使えるらしい。
猫人に変身するローゼンクロイツは、もしかして猫に憑依された猫憑きなのだろうか?
だとしたら、このレインボーマタタビを使えば、クシャミで発作が起きることがなくなるかもしれない。それは周りの人々にとっていいことだ。
しかし、アインにとっては違うらしい。
猫人に変身したローゼンクロイツをモーソーするアイン。顔がニヤけている。
「萌え〜」
ローゼンクロイツのネコミミは、マニアの間では萌えなのだ。
しかし、本人が困っていて、治したいというのならばアインも協力を惜しま……ないかもしれない。
揺れ動くアインの心。
ネコミミのローゼンクロイツも捨てがたいのだ。
あんなカワイイ姿が見納めなんて、そんなこと耐えられない。
でも、それでローゼンクロイツが喜んでくれるなら……。
揺れる乙女心。
急に熱が冷めてアインは視線を止めた。
「(絶滅種?)」
そう、絶滅種。
レインボーマタタビは絶滅種だったのだ。つまり、この世にはもうない。
万が一、秘境や魔境の奥地には、生息している場所があるかもしれない。が、そんな場所がどこにあるかもわからない。塩に埋もれた砂糖粒を探すようなものだ。
アインは微笑んだ。
ネコミミローゼンクロイツ安泰♪
激しい物忘れと格闘しながら、ローゼンクロイツは通常の2倍の時間をかけて宿舎に戻って来た。
聖カッサンドラ修道院。この場所でローゼンクロイツは16年以上過してきた。
あの雪の晩、ローゼンクロイツを拾ったのは、ルーファスの母だった。ルーファスが生まれる以前のことだ。
夕食を断り、ローゼンクロイツは早い時間からベッドで横になった。
記憶が抜けていく感覚がする。
風が抜けるように、次々と記憶がどこかに抜けていく。
深い闇が瞼の裏に現れる。
そして、再び瞳を開くと光が広がる。
見覚えのある景色。
噴水のある広場から空を見上げると、時を奏でる時計搭が見えた。
そこはクラウス魔導学院の中庭だった。
中庭は昼寝をしていた『彼』は誰かに声をかけられた。
「――ちゃん!」
桃髪の仔悪魔が駆け寄ってくる。
『彼』は『違う』と呟いた。
それと同時に桃髪の仔悪魔が消え去り、空色のドレスを着た人影が現れた。
『彼』はその人物の名前を思い出そうとした。
空色のドレスを着た人物は、幼馴染の――。
「やあ、ローゼンクロイツ」
と、『彼』が言った瞬間、『彼』の身体から何かを飛び出し、空色の身体に吸い込まれていった。
「やあ、へっぽこクン(ふあふあ)」
ローゼンクロイツは意識を取り戻した。夢の中でローゼンクロイツは具現化したのだ。
なにが起きたのかルーファスは理解できなかった。
夢なのに意識がはっきりしている。そんな感覚をルーファスは感じていた。
「これ……夢だよね?」
尋ねるルーファスにローゼンクロイツは頷いた。
「そうだよ(ふあふあ)」
「なんか変な感じがするんだけど?(夢なのに夢じゃないような)」
「ごめんよルーファス、キミの夢を借りたんだ(ふにふに)」
「はぁ?」
やっぱりルーファスには理解できなかった。
夢を夢だと理解できることは珍しいが、ルーファスはこれが夢だと理解できた。
目の前にいるローゼンクロイツは夢の住人。ルーファスが作り出した幻想であるはずだった。
頭の整理ができないルーファスを置いてローゼンクロイツが歩き出した。
「じゃ、ボクは先を急ぐから(ふあふあ)」
「ちょっと待ってよ、夢を借りたってどういうこと?」
「そのままの意味だよ(ふあふあ)」
夢ならでは意味不明さだ。
ため息をついて嫌そうにローゼンクロイツは説明をはじめた。
「ここはキミの夢で、ボクは別の場所で眠っているんだ(ふぅ)。ボクはボク自身を忘れそうになって、ボクをよく知る人物が感知する特殊な電波を出し、夢の中でボクを召喚してもらうことによって、記憶とアニマを取り戻したわけさ(ふにふに)」
「はぁ?(意味がわからない)」
「わかりやすく言うと、ここはキミの夢だけれど、ボクはボク自身の意志を持って活動しているということだよ(ふあふあ)」
「はぁ?」
「……バカ(ふー)」
いかにも作った呆れ顔でローゼンクロイツはため息をついた。
挨拶もなしてローゼンクロイツは踵を返して歩きはじめた。もうルーファスなんかにカマってられないといった感じだ。
スタスタ歩くローゼンクロイツの肩をルーファスが掴んだ。
「待ってよローゼンクロイツ」
振り返ったローゼンクロイツは、いつも以上に無表情で言う。
「私的な用事があるから、じゃ(ふにふに)」
片手をあげてさようなら。
再びローゼンクロイツは歩き出した。
ルーファスは少し不満そうに頬を膨らませ、それでもローゼンクロイツの後を追った。
今しがたまで魔導学院だったはずなのに、気付けばそこは国立図書館の中だった。
本棚に手を伸ばすローゼンクロイツ。
しかし、その手は本棚ではなく、自分の頭に乗せられた。
「……頭痛が痛い(ふにふに)」
言葉の誤用だ。正確には『頭が痛い』もしくは『頭痛がする』だろう。
頭を押さえたローゼンクロイツは動かなくなってしまった。心配するルーファスがすぐに駆け寄った。
「だいじょぶローゼンクロイツ?」
「……ムリ(ふにゃー)」
普段、無表情のローゼンクロイツが、マジで痛そうな顔をしている。
ローゼンクロイツはそのまま床にペコっと座り、本棚を指差してルーファスに頼みごとする。
「本を探して欲しいんだ(ふにゃー)」
「どんな本?」
「……忘れた(ふあふあ)」
「はぁ? それじゃ探せないよ(なに探すかわかってても、この図書館迷うんだから)」
困ってしまったルーファス。
王都にある国立図書館は世界でも有数の規模を誇る大図書館だ。この図書館に務めている司書ですら、自分が担当する区画以外の本棚になにがあるか知らない。この図書館の本を全て把握しているのはただひとり、いや1匹。館長の老ネズミだけである。
ルーファスは何者かの視線を感じた。しかも、かなり強い視線だ。なのに姿が見えない?
「この視線って……まさか……アインさん!」
ルーファスは本棚の影に向かって声をあげた。
「はい!」
という声が帰ってきたのは、ルーファスが向くあさっての方向。そこからアインがひょこっと顔を出した。
さすがローゼンクロイツのストーカー。夢の中まで追ってくる執拗さだ。だが、ここはルーファスの夢だ。
ローエンクロイツは瞬時悟った。
「しまった、ボクの電波が彼女まで呼んでしまったらしい(ふにふに)」
それの意味するところは、ルーファスの夢の中にあって、ルーファスから独立した固体を意味する。
簡単にいうと、ローゼンクロイツと一緒で、人の夢に他人が土足で上がりこんだ状態だ。
ローゼンクロイツを強く想うアインは、ローゼンクロイツの発したSOS電波をキャッチして、ルーファスの夢の中にまで追っかけてきたのだ。
アインは背中の後ろから、一冊の本を胸の前に出した。
「これをお探しじゃありませんか?」
ガイア出版の薬草大全集。
それを見たローゼンクロイツの眼が、カッと見開かれて五芒星が浮かんだ。
「……それだ(ふにふに)。やっと全てを思い出したよ(ふにふに)」
テーブルに座ったローゼンクロイツは、受け取った薬草全集のページを開いた。
「現実世界のボクは物忘れが激しくて、そのまま放置すればボクは全ての記憶を忘却して廃人になるんだ(ふにふに)。けれど、夢の世界でのボクは深層心理に近く、忘却してしまった記憶も思い出すことができる(ふにふに)」
「でも、現実の君はどうすんだよ?」
ルーファスが尋ねると、ローゼンクロイツはページを指さした。
「だから今からそれを治すために、〈夢の国〉[ドリームランド]に向かうんだよ(ふあふあ)」
ローゼンクロイツの指先はレインボーマタタビの挿絵を指していた。
申しわけなさそうにアインがボソッと。
「あの、絶滅と書いてありますが?(いや〜ん、あたしったらローゼンクロイツ様に物申しちゃった)」
「〈夢の国〉は現実世界から失われたモノがある場所」
パタンと本を閉じて、ローゼンクロイツは席から立ち上がり、辺りをゆっくりと見回しはじめた。
ローゼンクロイツの頭で、ぴょんのアホ毛が立った。電波を受信したのだ。
「あっちだよ(ふあふあ)」
さっさと歩くローゼンクロイツに2人は無言でついて行った。
ピタリと止まったローゼンクロイツ。微動だにしない、機械的な止まり方だ。
そこには扉があった。
ローゼンクロイツは知っていたが、残る2人はそれを知らない。この扉は現実世界の図書館にはないのだ。
懐から銀の鍵を出したローゼンクロイツは、それを差し込み扉を開いた。
下へ続く階段が長く伸びている。先は暗く見通すことが出来ない。いったいどこに続いているのだろうか?
無言でローゼンクロイツは階段を下りること70段。
大きく広がった世界に、ただひとつの神殿が存在していた。
古代文明が栄えていた頃に良く見た、石の柱が立ち並ぶ石造りの白い神殿だ。
神殿の中はそこら中に蝋燭が立っていた。
無限とも思える蝋燭の山の中には、火の灯っているものとそうでないものがある。
神殿の中をキョロキョロ見渡すルーファス。
「どこここ?(ものすごく熱いよ)」
アインは空色ドレスの背中ばっかり追いかけている。
「(ローゼンクロイツ様、颯爽と歩く後姿も萌え〜)」
見られているローゼンクロイツは無言で歩みを続ける。
長く続いた廊下の先には、十数メートルの高さを誇る扉が聳え立っていた。
その前にひっそりと立つ神官。
「この神殿になんの用かね?」
永遠に若い神官はローゼンクロイツに尋ねた。
「〈夢の国〉に行きたい(ふあふあ)」
〈夢見る神殿〉の神官は、どこまでも澄んだ瞳でローゼンクロイツを見つめた。
ローゼンクロイツの瞳はエメラルドグリーンに輝いていた。
「宜しいでしょう、この扉を開けられるのならば、先に進むことを許可しましょう」
巨大な扉に鍵穴は見当たらない。力で開くとも到底思えない。
ローゼンクロイツは扉にそっと触れた。
片手で触れただけなのに、重く重い扉は動きはじめた。
扉はローゼンクロイツを受け入れたのだ。
力ではない。扉は人を見た。その者が秘めたるモノを視たのだ。
巨大な口を開けた夜よりも深い闇。
臆することなくローゼンクロイツは足を踏み入れた。
続いてアインも追っかけする。
残されたルーファスも意を決した。
「待ってよ、ひとりにしないでよ」
深い闇は3人を跡形もなく呑み込んだ。




