episode:4
『本日未明。駅で男性が電車に轢かれるという事故がありました。誤ってホームから落ちたものと思われ、現在詳しく調査中となっております。』
テレビの中のニュースキャスターは抑揚の無い声で淡々と告げた。
内容はあまり頭に入ってこなかった。
ふと考える。
昨日は何かがあった様な気がするし、何も無かった気もする。
繰り返しやってくる今日という日に日常は薄れていき、随分と平淡なものになったものだ。
気がついたら夜になって、また朝がやってくる。
些細な不幸や幸せは全て忘れられていく。
まるで作り物の様な色の無い日常だ。
僕はそう思う。
テレビを消してお気に入りの真っ赤なヘッドフォンで耳を塞ぐ。
(そろそろ学校に行かないと。)
いつも通り身支度をし、家を出る。
「ねえ。」
玄関の扉を開いた所で誰かに声をかけられる。抑揚の無い、冷たい声。
目の前には少年が立っていた。まるで僕を待っていたかの様に。
狂気じみた赤い瞳で少年は、ただじっと僕を見ていた。
明らかに人ではない冷たさを持つ少年。それでもどこか人間味がある様に感じる。
僕はこの少年をどこかで見たことがある様な気がした。だけど思い出せない。
「忘れ物。」
そう言って少年は僕に手を差し出す。その手の中には包みがあった。
その包みを見た途端、僕の脳裏に「彼女」の笑顔が過った。
(そうだ…僕は…。)
今までずっと、大事な事を忘れていた。
僕にはやるべき事があるんだった。
「君に『明日』は無い。君の過ごしてきた『今日』という日は全て作り物だったんだ。」
少年は淡々と告げた。
「君の日常も記憶も感情も、全て『今日』に閉じ込められていた。ここは君を閉じ込める、いわば『箱庭世界』なんだよ。」
「でも。」と言って少年は包みを見た。
「君は箱庭世界に居ることを願っていない。だって君は思い出したんでしょう?忘れていた全ての事を。」
僕が頷くと少年は初めて笑った。
とても優しい笑みだった。
「行ってきなよ。」
少年は包みを僕に渡して言った。
「ありがとう。」
僕は笑って、包みを受け取る。そして、駅へと向かう。
きっとこの箱庭世界を壊してしまえば僕に明日は無いだろう。
―どうしてこうなったのだろう。
有り余る程彼女を愛しているのに。もっと彼女の傍にいたいのに。
そう思うけどどうしようもない。仕方のない事なんだ。
寂しいし悲しい。でも今はそれ以上に彼女の事を愛おしく思えた。
「後はさ、僕に任せて。」
背後から聞こえたその声に、何故か安心感を覚えた。
少年が何者かは分からない。
でも信頼出来る様な気がした。
きっとこれは、僕が彼女に出来る最期の愛の証明だろう。
―
光也がいなくなってからどのくらいの時が経ったのだろう。
もう長いのかもしれないし、あまり経っていないのかもしれない。
ただ、私の日常はぽっかりと穴が開いてしまったかの様に色を無くした。
彼は自殺をしただとか囁かれているけど私はそれを信じなかった。信じたくなかった。今もそうだ。
彼はとても素直で隠し事なんてしない人だったから。特に私には素直だったし、悩み事があるなら私に話してくれていた筈だ。
彼の事故があった日に明音は消えた。もしかしたら二人に何かがあったのかもしれない。
でも余計な事は知りたくない。考えたって二人はもういない。
「空ちゃん…。」
葉月が心配そうに私の名を呼ぶ。
返事をする気にもなれずただぼーっと窓の外を眺める。
彼が居なくなった後はさんざん泣いた。
泣いて泣いて、きっともう涙は涸れてしまった。
悲しみの先には何も無い。私は思考を閉ざしてただ、なんとなく生きている様な感じだった。
(なんで私まだ生きてるんだろう。)
そんな事を頭の中で考えていると、まるで考えていた事を読み取ったかの様に葉月が口を開いた。
「空ちゃんは何もかもを失った訳じゃないと思うよ。北野くんがいなくなって私も悲しい。でも私以上に空ちゃんが悲しい思いをしてるの、知ってる。知ってるから、言えなかった、けど。」
葉月の声は徐々に涙声になり、それでも堪えているのか、言葉がぶつ切れになっている。
「私、は。空ちゃんがそれで、壊れていっちゃうのが一番、辛い。」
その言葉を聞いて我に返る。
(そうだ…葉月は…。)
他の友だちとは違う。かけがえのない、大事な親友だ。
私が虐められていた時だって加担しないで、ずっと傍にいてくれた。とても大切な存在。
(どうして忘れていたんだろう。)
私はどうも忘れっぽいのかな。また大事な事を忘れていた。
私が壊れてしまえば葉月こそ独りになってしまう。
私は口元に小さな笑みを浮かべ、少し小柄な葉月の頭を撫でた。
「ありがとう。」
やっぱり私は幸せ者だ。
―
その日の帰り、靴箱から靴を取り出した時に何かが落ちた。
(………?)
足元に視線を向けると、一枚の紙が落ちていた。
何だろうと思い、紙を拾い上げる。紙は丁寧に折り畳まれていた。
紙を広げた途端、私は手の震えが止められなくなった。
―駅で待っています。
それはとても簡潔な言葉。
かつて、私がやったように。
「葉月、これ持ってて!」
私は半ば強引に、葉月に荷物を押し付け走っていた。
目的地は駅。彼はきっとそこにいる。
―
駅に着くと見慣れた後ろ姿が見えた。
見慣れているけど懐かしい、その背中に向けて言葉を放つ。
「良かった…光也、まだ…いた。」
息を切らしながら言葉を発する。
「ごめん。待った?」
振り返った彼の顔には、とても優しい笑みが浮かんでいた。
「うん。待った。」
彼は悪戯っぽく笑って答えた。そして、私に包みを差し出す。
「誕生日プレゼント。」
震える手で包みを開くと髪飾りが入っていた。
「これ…私が欲しいって言ってたやつ。」
髪飾りから彼に視線を戻す。
彼はただ、笑っていた。
少し寂しそうに、それでも愛おしそうに笑っていた。
―その姿は半透明だった。
「遅くなったね。誕生日おめでとう。ずっと、愛してる。」
これが彼の最後の愛だと私は悟った。それでも強がって笑顔を見せて言った。
「遅いよ。」
目の前がぐしゃぐしゃで彼の姿が見えない。
涙で彼が見えないのか、それとも彼はもう既にいなくなっていたのか。
おかしいな。涙はもう涸れてしまった筈なのにね。
涸れてしまった筈の涙は止まることが無かった。
「私、頑張るね。」
誰もいないホームでひとり呟く。
彼はもういない。それでも彼はここにいる。
髪飾りを着けて駅を出る。後ろは振り向かない。
「私は幸せ者だ。」