天使と戦争
「ああ、タキ君。お疲れさま。今日は早かったね」
エデンから戻って、今日も俺はラジ博士に報告書を提出した。水嶋博士は忙しく、ほとんど研究所にいる事がない。
「ええ、シェリルがこの後仕事があるからって……。博士、彼女は何の仕事をしているのですか? 俺がエデンに行くと、たまに端末に向かって何かやってるんですけど……」
「ああ、そうだね。軍の方から少し頼まれていることがあるみたいだがね。なにしろ天使の知能は高く、コンピューターやネットワークに関しても我々の及ばない才能があるしね」
確かに、シェリルの能力には底知れないものを感じる。化学、力学、計算機数学等、彼女にとってはまるで遊びのように習得していた。それに、――空を飛ぶなんて……、俺たち人間には無い能力も備わっている。
「どうだね、タキ君。シェリルとは上手くやれているかね。ところで今日は何をしたんだい?」
「今日は缶蹴りを……」
「缶蹴り?」
「シェリルがやりたいって言うので……。缶が無かったから、木の枝を地面に刺して缶の代わりにしたのですけど。」
「ほう、天使と缶蹴りかね」
「シェリルは、かくれんぼか鬼ごっこがしたいって言うのですけど、なにしろ二人しかいないので、遊びにならないでしょう。だから缶蹴りなら二人でもかろうじて出来るんじゃないかって思ったんです」
「いやあ、結構、結構。ずいぶんと仲良くなっているようじゃないか。その調子で頑張ってくれたまえ」
「はぁ、まぁ……」
俺はなんと答えていいのか解らなかった。シェリルはそれが子供の遊びだろうが、思いつく事を何でもやりたがった。
「そうだ、博士。シェリルがチェスのゲームをやりたいって言ってるんです。それで、チェスのボードとコマをどこかから借りられませんか?」
「ああ、それなら水嶋博士の部屋にあるよ。借りていけばいい」
「へえ、水嶋博士はチェスをやるのですか?」
「いや、博士がというより、ジョシュアが……。ジョシュアというのは第三世代のクローンだ。トリ(第三の)天使と我々は呼んでいる。シェリルは次世代の第四世代であるので、テトラの天使と呼ばれているがね。ジョシュアが使っていた物が水嶋博士の部屋に残っているのだよ」
「トリの天使……。シェリルの他にも天使がいるのですか?」
「ああ、そうだよ。どんな研究だって突然成功するものではない。我々も何度も試行錯誤を繰り返しながら此処まできた。シェリルはただ一つの成功例である第四の世代だ。唯一存在するテトラの天使だよ。」
「そうなんですか……。でも博士、じゃあ、そのジョシュアは今どこにいるのですか?」
ラジ博士は一瞬目をそらせたが、すぐに気を取り直して低い声で俺の質問に答えた。
「ジョシュアには先天性の病気があってね。ずいぶん前に亡くなったよ」
「病気って、それは一体……」
「タキ君、たとえ人間のように見えても彼等は人間ではないのだ。同じ環境の中にいても、我々とは別の問題が起こるのだよ」
ラジ博士からは、それ以上語りたくないという無言の雰囲気がかもしだされていた。躊躇しているうちに水嶋博士の部屋からチャスボードを取り出してきて俺に渡した。
「ほら、これだ。持って帰っていいよ。明日それを持ってエデンへ行くといい。しばらく借りていても平気だろう。シェリルが飽きるまで、エデンに置いておけばいい」
「ありがとうございます。博士」
チェスボードを受け取り帰り支度をしていると、博士が尋ねた。
「ところで、タキ君。健康管理の面から聞くのだが、体調はどうだね?ほら、環境が変わると体調を壊す人もいるだろう。何か今までと違う事があったりするかね?」
「いや、元気ですよ。ただ……」
「どうしたのかね?」
「うーん、特にどうこうって訳ではないのですが、なんか最近体がだるいというか、背中に焼けるような痛みを感じてよく眠れないときがある程度ですかね……」
ラジ博士は俺の言葉に何か気になる点があるのか、注意深く質問を続けた。
「食事はどうだね、ちゃんと食べられているかい? 何か食事の好みが変わった事はないかい?」
「なんか、肉ばっかり食べてます。俺、元々好き嫌いが激しくて野菜をあまり食べないから……。結構言われるんですよ、ちゃんと野菜を食べろって。俺もバランスの良い食事をしなきゃとは思っているのですけど、どうも偏食気味で。最近は、なんですか、焼き肉とか、ステーキとか、それも血の滴るようなレアのステーキに噛りつきたいみたいな……」
「そうかね、それは興味深い」
「えっ?」
「はははっ。何でも無いよ。近いうちに水嶋博士と相談して一度健康診断でもしてみよう。いや、研究所に勤める者の健康管理も我々の責任だからね。」
「そうですか?」
「まあ、追って連絡するよ。じゃあ、今日はお疲れ様。迎えの車も来ているから帰りたまえ。下でシュタナー少尉が待っている」
「はい。お疲れさま、博士。また明日。」
研究所を出るとロイが待っていた。
「タキ、お疲れさま」
彼は毎日車で俺の送り迎えをしてくれている。でも俺の専属という訳ではなく、彼には他の仕事もあった。エデンでの仕事もその一つだ。以前彼にエデンでは何をしているのかと聞いたことがある。その時ロイはあからさまに嫌悪の表情を浮かべた。彼はエデンが嫌いだと言う。そしてぶっきらぼうに俺にこう言った。
「僕の仕事はクリーニング係だよ。僕は君のフラットの掃除もする、そしてドームの掃除も僕の任務だ。僕はただのクリーナーだよ」
今日はロイにこの後の仕事が入っていなかった。最近ではロイのシフトが空いている時に俺たちは一緒に夕食を食べていた。
家路の道すがら、車を運転しながらロイが俺に言った。
「夕飯の支度は出来ているよ、タキ」
「おう、サンキュー。今日はなんだい?」
ロイはちらと俺を見て、悪戯っ子みたいな顔をした。
「ステーキ……」
「おっ!」
俺の喜んだ声に対して、ロイはたしなめるように言った。
「――じゃなくて、ロールキャベツ。野菜嫌いで肉ばっかり食べているなんて健康に悪いよ、タキ」
「いや、ロイ。俺だって毎日ステーキを食べてる訳じゃないぜ……」
「もっとバランスの取れた食事をしなくちゃ。ほっとけばタキは、ハンバーガーとチップスばかりだろう」
「オレンジジュースも飲んでるぜ……」
「まったく、偏食なんだから。今日は君の為にサラダも作ったからね。サラダをちゃんと食べるまで、メインは出さないからね」
「ロイ。お前、――なんか母親みたいだな……」
「ばか! 僕は君の健康管理にも責任があるんだよ。それに君が下っ腹の出た小太り爺さんにならないように気を配っているのだから、感謝してもらいたいね」
「はい、はい」俺は思わず苦笑した。
食後にチェスゲームをする事にした。ロイも結構チェスは好きな方だという。俺は今日借りてきたチェスボードを広げコマをのせていった。
「それでロイ、君はよくチェスをやるのかい?」
お茶を持ってきたロイに、チェスのセットアップが終わった俺は話しかけた。
「いや、久しぶりだよ。ちゃんと覚えているか不安なくらいさ。君はどうなんだい、タキ」
「俺は強いぜ〜。いつも爺ちゃんと差してたからな」
「それは恐いな。お手柔らかに頼むよ」
「チェックメイト!」
「お手柔らかにって言ったじゃないか、タキ!」
俺が三戦三勝した後でロイが叫んだ。
「はははっ、すまない。でも勝負に情けは禁物だぜ、ロイ」
俺は上機嫌になって、冷蔵庫からビールを取り出し、飲みながら言った。
「でもロイ、君だってなかなかやるじゃないか。チェスはどこで覚えたんだい?」
負けっぱなしのロイはふて腐れて、やはり冷蔵庫からビールを取り出した。
「兄さんが好きだったんだ。昔、兄さんに教えてもらったんだよ」
「お兄さんがいるのか、ロイ」
「ああ、今は会えないけれどね」
ロイは下を向き言葉につまった。苦笑いをした後、ぽつりぽつりと話し始めた。
「僕の両親はこの戦争が始まる前に離婚したんだ……。母親は敵国の人間で、兄を連れて自国へ帰ってしまった。そのあと戦争が始まって、そして……、それきりバラバラだ……。国交が途絶えてしまったから、連絡も取れないし、今どうしているのかも分からない……。去年父が死んだけど、そのことだって知らないだろう。――もしかしたら兄さんも、僕と同じ軍人になっているんじゃないかと思うんだ。今は戦争中だし、あり得ないことじゃないだろ」
「ロイ……」
そしていつもは温和で優しいロイが、珍しく厳しい口調で話しだした。
「この国はおかしいよ。この戦争に圧勝し続けて、狂気に陥っているんだ。自国内が戦場になった事が一度も無いから、国民の無意識さはどうだい! 敵国を戦場にしておいて、まるで人ごとのようじゃないか。タキ、知っているかい、戦争は絶大な経済的効果をもたらすんだよ。この国は国際的にもずいぶんと有利な立場になった。西欧諸国とも同盟を組み、弱い国から戦争を理由に搾取して、その蜜を分け合っているんだ。失業率は下がり、庶民もその恩恵に浸っている。自分の家が無事ならば外で起こっている悲劇なんて、まるでチェスボードの上のゲームなんだ。もちろん、その為には勝者でいる必要があるけどね。でも、この国はこれからも勝ち続けるだろう。そして隣国を食尽したら、次はどこへいこうっていうんだ――」
「――だけど、いつまでも勝ち続ける訳も無いだろう」俺はロイに言った。
「軍の上層部は強気だよ。この国には秘密兵器があるからね」
「秘密兵器?」
「天使だよ。天使は兵器として保護されているんだ」
暗い表情のロイは、目を伏せて話を続けた。
「タキ、考えても見なよ。なぜ莫大な軍事費を使って、軍はエデン・プロジェクトを推進していると思う? 君だって毎日天使に会っているんだ、もう知っているだろう? 天使には僕たちには無い能力がある事に。君も気をつけた方がいい、タキ。天使は戦争に参加しているよ。この戦争を続ける為に、軍に協力しているんだ」
「シェリルが! そんな……」
うろたえる俺に、ロイは話を続けた。
「天使は覗きの天才さ、衛星なんか必要ない。敵国の軍事施設だろうがなんだろうが、的確に言い当てるのさ。ネットワークに入り込み、どんな情報だって手に入れる。おまけに敵のシステムを操作していいように翻弄する。世界中のハッカーが束になったって叶わないさ。あれは化け物だ。天使には人の頭の中が覗けるんだ。捕虜となって掴まった敵国の兵士の頭の中から情報を奪い取ることだってできる。尋問も拷問も必要ない。あいつにとっては簡単なものさ。そしてその後、あいつは彼等を……」
夢中になって話していたロイが、そこまで話したところで、はっと我に帰ったように口をつぐんだ。少し青ざめた彼は、それでも理性を取り戻して、いつもの優しい口調に戻り俺に言った。
「ごめん、タキ。僕は今日どうかしている。飲み過ぎたかな。余計な事まで話しすぎたみたいだ……」
それにしてもあからさまな国家への批判を、ロイは俺に隠そうともしなかった。俺は彼に聞いた。
「君はこの戦争に反対なのかい?」
「まともな人間なら、誰だってそうだろう……」
俺はロイの事が心配になった。俺たちは軍の中央基地の中にいて、ロイは国家の軍人だ。このような事を誰かに聞かれたら、彼の立場が危うくなるのではないか?
「俺に話すのはいいけど、あまり他の奴にはしゃべらないほうがいい――」
俺はロイに向かって声を低めて言った。
「分かってるよ。僕だって自分の身は守りたい。まかりなりにも今は戦争中だ。危険思想の持ち主なんて思われたら、どうなる事か分かったものじゃないしね……」
どうやら、いつもの控えめなロイが戻ってきたようだ。俺はロイの肩に手をかけて頷いてみせた。しかしそれ以上何の言葉をかけてやる事も出来なかった。