エデン
「ラージだよ。私の名前はラージだ。両親が中東系でね。此処の研究所の連中は皆舌っ足らずだからラジ、ラジって俺を寸足らずにするんだな」
「すみません、ラージ博士」
俺は恐縮して、この体格のいい、というよりどちらかといえば太りすぎの、見事に額が禿げあがった、中東の博士に謝罪した。博士は大声で笑って言った。
「はははっ、冗談だよ、タキ君。ラジでいいよ。皆もそう呼ぶし、もう慣れたしね。
さあ、紹介もしたし、研究所の案内も済んだから、次は君をエデンに連れて行こうか」
午後に研究所を訪れた俺は、この気のいい博士にあちらこちらへ連れていかれて、そこにいる人々に紹介されまくった。せっかちな博士は俺を振り回すように連れ歩いた。
紹介された人々の中でも、あの敷島大佐が恐かった。彼は軍の人間で、このプロジェクトの責任者だと言っていた。わざわざ忙しい中俺に会いにきたそうだが、軍人ってあんなものなのか? 口を開いて「宜しく」と言った以外一言も発せずに、上からなめ回すように俺を見ていた。軍人らしい大きな鍛えた体をして、すごい威圧感だ。しかもあのスキンヘッド! ――なんだよ、ハゲでも隠してるのか? まるで海坊主だ、ああ、恐い。と、俺はひそかに思った。
ラジ博士と連れ立って歩きながら、俺は博士に尋ねた。
「それで博士、さっきエデンに入ったら、天使とお茶を飲んでいるだけでいいって言われましたけど、それが俺の仕事ですか?」
「そうだよ、タキ君。そのうちいろいろな仕事を任せていく事にはなるかもしれないが、まずはシェリルと知り合って、仲良くなってくれ。これが、今の君の仕事だよ。天使の話し相手になってくれたまえ」
「タキ君、こちらだ、このドアだ。エデンの環境は厳重にコントロールされていてね。まずはこの部屋で服を脱いで、そのドアを入って、全身を消毒してくれ。そのあと奥のドアを抜けて第二、第三殺菌室を通ってくれ。その頃には最後の部屋に殺菌された君の服が届けられているだろうから、着替えて、壁の案内に従い電磁ロックの扉を開けて、エデンに入ってくれ。何かわからないことがあればその場にいるスタッフに聞けば教えてくれる。エデンの仕事が終わったら一度研究所に戻って、報告書を書いてから帰宅してくれ」
「――って、ラジ博士、博士は来ないんですか? 俺一人で行くんですか?」
「我々は、よほどの用事でもない限り、エデンには入らないよ。敷島大佐と水嶋博士は別だけどね。だが、君なら大丈夫だよ。なにしろ君の事はシェリルの希望でもあるのだ」
「どういう事ですか?」
「君をエデンに連れてきてと、シェリルが望んだのだそうだ。天使のリクエストだよ」
「タキ君、エデンに入ったら、中央に大きな桜の木がある。その麓に東屋があるからそこに行ってみるといい。この時間、シェリルは大抵そこでお茶をしている。では宜しく頼むよ、タキ君。グッド・ラック!」
エデンに入って、俺は言われた通り中央の大きな桜の一本木の元へ向かった。近づいていくと桜の木の下に人影が見え、そこから歌声が聞こえてきた。
Humpty Dumpty sat on a wall.
Humpty Dumpty had a great fall.
(ハンプティ・ダンプティが塀の上
ハンプティ・ダンプティがおっこちた)
背中に生えた白い羽根を伸ばし、黄金の髪をなびかせた天使が、歌いながら両手
を空に広げていた。その上では舞い散る桜の花びらが、空中でビーズを編むようにくるくるとつながって流れていった。
All the king's horses and all the king's men
couldn't put Humpty together again.
(王様の馬も、家来も、みんなでも
ハンプティを元に戻せなかった)
「誰?」
近づくと、天使が振り返った。その金色の瞳に、俺は射すくめられた。
でもそれ以上に彼女の面影が俺を驚愕させた。
「うそだ、そんな……。まさかそんな事って」
天使が両手を下すと、宙に舞い踊っていた桜の花びらが強い風と共に一気に下りてきた。
「うわっ」
舞い散る桜吹雪の中、天使が俺に近寄ってきた。彼女は俺をしばらく見つめていたが、
「タキ? そうね、あなたがタキね」とつぶやいた。
ハッと俺は我に返った。自分を取戻そうとして、しっかりと立ち直し、彼女に挨拶した。
「初めまして、シェリルさん。タキ・ガーシュインです。あなたを担当していたガーシュイン博士は私の祖父です」
「知ってるわ。博士は亡くなったのですってね」
「今日はあなたとお茶をご一緒するようにと、ここに送られました。シェリルさん」
「シェリルでいいわ。普通にしゃべって。ねえ、友達に話すようにしゃべって。私、話し相手がほしかったの」
そして彼女は美しい笑顔を見せて俺の手をとった。
「タキ、じゃあ早速お茶を入れるわ。だってあなたは私のお客、初めてのゲストよ。私のお茶会へようこそ。さあ、こっちに来て」
シェリルは俺の手を引いて、桜の木の横に建てられた東屋へと連れて行った。俺はドギマギしてしまって、足がもつれた。ふと見ると彼女の背中に羽根がない。
「羽根が……」
俺がそうつぶやくと、シェリルが、さらっと言った。
「ああ、今はしまってあるのよ。必要ないから」
「そんな! 出し入れできるものなのか」
「なに、いってるのよ、タキ。輪っかだってあるわよ。めったに出すことはないけど……」
「天使の輪かい!」
俺は驚くことばかりで、頭がくらくらした。気が付くとシェリルが俺をじっと見つめていた。彼女の金色の瞳が俺の顔のすぐそばにあった。
「わっ!」
俺は驚いてのけぞった。シェリルも驚いた。でもすぐに彼女は笑顔になって、
「タキ、あなたって、かわいらしいのね」と、はじけるように笑った。
テーブルにはお茶の用意がされていた。ティーセットと共に果物やお菓子がきれいに並べられている。
「ちょっと待ってて、お湯を沸かすわ」
彼女はポットに触れずに手をかざし、優しくさするようにゆっくりと手のひらを宙に動かした。なんか、アラジンのランプをこすってるみたいだ。
しばらくするとポットの口から湯気が立ってきた。
「湧いたかな? もういいかな?」
「すごい、シェリル! なんだい、それ、魔法かい!」
「なに言ってるのよ、タキ。粒子をこすっただけ。単なる熱伝統よ。そんなに難しくないわ。えっとね、今日はアールグレイがあるのよ。アールグレイは好き?」
「俺は何でも……。しかしすごいなあ、さすが天使だ」
感心してシェリルを見ると、彼女はくすくす笑って、いたずらっ子みたいな顔で言った。
「もっといろんな事が出来るわよ。ねえタキ、私の手のひらにあなたの手を合わせてみて」
彼女が俺に向けて手を差し伸べた。おっかなびっくり、俺は彼女に自分の手のひらを合わせた。
「噓だろ……」
足下が地上から離れて、俺は宙に浮かんだ。フワフワと風船が飛ぶように。
手を合わせたままシェリルも宙に浮かんでいた。——―俺たち飛んでるんだ!
「わぁ、わあぁぁぁ!」
「タキ、タキ!落ち着いて、大丈夫よ。でも、タキ、すごいわ。初めからこんなに共鳴するなんて。私も驚いちゃった。ねえ、あそこの桜の木のてっぺんまで飛んでみる?」
そう言ってシェリルは楽しそうに笑うけど、俺は重心がなかなか定まらす、そのまま空中でくるっと回転したり、もう空と大地が逆転してどっちが上だか下だか解らなくなり、頭と目がぐるぐる回り始めた。
「シェリル! わかった、わかったから一旦おろしてくれ!」
テーブルに戻った俺は、椅子に座り込むとほっと息をついた。シェリルが俺を覗き込んで言った。
「大丈夫? やっぱり空中だと平衡感覚変わるから、最初はキツいかな? でもタキならすぐにできるようになると思うわ。慣れてきたら今度は桜の木のてっぺんまで飛んでみようね」
呆然としている俺を横に、シェリルはやたら上機嫌で、ティーカップにお茶を注いだ。
「さあ、お茶会を始めましょ。マカロンもあるわよ」
お茶を飲みながら、シェリルは俺を質問攻めにした。海を見たことがあるか、学校ってどんなところか等、とりとめのないことばかりだったが俺は一生懸命に答えていた。ふと気が付くといつの間にか俺の瞳はシェリルの顔にくぎ付けになっていた。
初めてシェリルを見たとき、俺は心臓が止まりそうになった。確かに天使を見るのは初めてだし驚くのは当たり前だが、それよりもっと驚いたのは彼女の顔。なぜならば、それは俺の母親と同じ顔だったからだ。彼女は写真で見た若いころの母にそっくりだった。
俺の視線があまりに強かったのか、とうとう彼女が尋ねた。
「どうして、私の顔をそんなに見るの?」
「ごめん。でもさ、シェリル、変な感じなんだよなぁ。さっき初めて君を見たとき、俺、すごく驚いたんだ。だって君は俺の母親と同じ名前で、それは俺のじいちゃんが自分の娘の名前を君につけたからだろうけど……。でも、そっくりなんだ。君の顔は俺の母親にそっくりなんだよ」
「ガーシュイン博士の娘さん?」
「そう、それで、俺の母親。母は早くに亡くなったけど、写真も沢山残ってる。そりゃ、君みたいに金髪でも、金色の瞳でもなかったけど、でも同じ顔だ。君の顔は俺の母親の若い頃の写真に瓜二つなんだ」
シェリルは、何とも言えない表情を浮かべて俺を見た。
「へえ、そうなんだ……。私は卵子提供者を見た事無いけど、そんなに似てるの?」
「え、どういうことだい?」
「ホントに何も知らないんだ。ガーシュイン博士はあなたをずいぶんと大切に育てたんだね……」
シェリルは一瞬言葉を止め、そしてその金色の瞳で俺をまっすぐに見すえて言った。
「博士は、天使の核を人間の未成熟卵に注入して受精させたの。そう、私を創る時に使用された卵子は、あなたのお母様のものよ」