第一話
人々が行き交う大通りから、少し奥に入った路地裏。
俺はレンガ造りの壁にもたれ掛かりながら、通行人の目に付かないように身を潜めている。周囲には人っ子一人おらず、俺の背後にはポリバケツが並んでるだけだ。少し生臭い。恐らく喫茶店の食事の残飯が詰め込まれているんだろう。
ドンッ、とプラスチックが叩かれる音がした。
振り返ってみたが、黒い猫がいるだけ。ゴミ箱の上で俺を見て、ウーッと唸っている。猫と食事の奪い合いをする余裕も意味もないので、とりあえず放っておく。
ふいに、右手に握っているトランシーバーから、
『ターゲットが来ました、どうぞ』
と、ノイズ入りの音声が届いた。聞き飽きるほど聞き慣れた、甲高い女の子の声。ルーだ。
俺はレシーバーを口元に持っていき、
「……どの辺り?」
『現在ウェンズ銀行の前を通過中です、どうぞ』
「オーケー」
俺は答えながら、帽子のつばを少し上げつつ壁際から大通りを覗いた。
平行に並び建つ、レンガ造りの建物群。
喫茶店、本屋、銀行、服屋、靴屋、レストラン、酒場が建ち並んでいる。平日だっていうのに人通りは結構多い。昼飯時だからだろう。老若男女が、ある者は談笑しながら、ある者は無表情で通り過ぎていく。
その人ごみを覗き込んで目を凝らすと、百メートル程先にパーマがかかった金髪、赤いワンピースでふわふわ歩いてる、見た目二十代前半くらいの女性を発見した。昨日写真で見た人物。〈ターゲット〉だ。
「……ロットは? 準備できてるか?」
俺はこの作戦のもう一人の主要人物が気になり、トランシーバーに再度口を近づけて問いかけてみた。
『スタンバイオーケーだ、どうぞ』
今度はトランシーバーから男の声が答えてくる。
……と言うか、どいつもこいつも「どうぞどうぞ」ってうるさいな。兵隊じゃあるまいし、言う必要は全くないだろ? ふざけてやってるならまだ愛嬌があるが、こいつらは大真面目にやってるもんだからタチが悪い。
どうしたもんかと嘆息していると、トランシーバーがジジッといって、またルーの声が聞こえてきた。
『じゃあ、ダルク、ロット。ターゲットが本屋の前に来たら、あたしが合図しますから。二人ともこの司令官の声に合せて行動を開始するのですよ、どうぞ』
……こいつ、一人称を司令官にしやがった。
間髪いれず、トランシーバーからロットの声で、
『了解した、どうぞ』
……素直に答えてるし。
はあ、とため息をこぼして、俺は屋根の隙間から覗く空を見上げた。
……何でまた、こいつらはこんな面倒くさい仕事を引き受けたんだ? 別に報酬も大したことないのに。次回はこの司令官にもっとちゃんと進言しよう。「仕事を選べ」と。
一体どんな言い方をすればこいつらはちゃんと分かってくれるのかと、脳内であれこれシミュレーションしていると、
『ミッションスタート!』
いきなり、トランシーバーから司令官ルーの号令。
俺は慌てて路地裏から大通りへ出た。
顔を上げて前方を見ると、例の赤いワンピースの女性が本屋の前を通過している。別段俺の方を気にしている様子はない。鼻歌を歌ってそうな、にこやかな表情でぶらぶら歩いている。
俺は帽子のつばを深くし、そっちの方へと向かっていった。
ターゲットとの距離を測りつつ、それでもターゲットを直視することなく、他の通行人をかわしながら進んでいく。そしてターゲットの二、三歩手前の位置に来たとき、俺は故意にターゲットの前に一歩足を踏み込んだ。そしてさらにもう一歩踏み出すと、当然の如く俺とターゲットはぶつかる。
「キャッ」
と言う声がして、ドシンとしりもちをつく音。俺も反動で後ろに倒れそうになったが、何とか踏ん張った。
俺は帽子のツバを上げ、その女性を見下ろす。遠くから見ていても分かったが、結構な美人さんだ。整った顔立ち、白い肌、つやのある髪。
「いたた」
とお尻をさすっている彼女をしばらく見ていると、胸ポケットのトランシーバーから
『こらっ、ダルク。早く台詞言いなさいっ』
とヒソヒソ声で怒られたので、俺は慌ててターゲットを睨みつけながら、
「おうおう、ねえちゃん。どこに目ぇつけて歩いてんだあ?」
と、昨日司令官殿に覚えさせられたセリフを口上に並べた。……うん。我ながら迫真の演技だ。
「……ご、ごめんなさい」
眉をハの字にして、俺を見上げながら謝るターゲット。困った顔も魅力的……とか思ってられないので、俺は台詞を続ける。
「ごめんで済んだら自警団はいらねぇんだよ!」
俺は一歩踏み出し、彼女の腕を強引に引っ張った。「キャッ」と言う彼女。
「侘び代わりに、お茶でも付き合ってもらおうか」
俺は台本に書いてあった通り、思いつく限りの気持ち悪い笑顔を作る。……というか『気持ち悪い笑顔』って具体的にどういう笑顔だよ? わかりにくい台本書きやがって。
俺に腕をつかまれ、心底怯えたような顔をしたターゲットは、
「ご、ごめんなさい。私、ちょっとこれから行く所があって……」
このパターンも練習済み。というか、練習させられた。ルー司令官殿に。
俺は演技を継続して、
「ちょっとくらいいいじゃねえか」
へっへっへっという、我ながら実に頭の悪そうな笑い方をしながら(台本通り)、彼女の腕を引いていった――――と、
「待ちな」
俺の背後で声がした。さっきトランシーバーから聞こえてた男の声だ。ただし、今回はノイズが混じっていない。トランシーバー越しじゃないからだ。
振り返るとそこには、大きな剣を背中に携えた赤い短髪の少年が、自信ありげな表情で立っていた。むかつくほど見慣れた顔、ロットだ。
しかし俺は、さも初めて会ったかのようにいぶかしんだ顔をしつつ(台本通り)、
「誰だ、てめえは?」
俺の問いかけに、ロットはふっふっふっと笑いながら、俺の手元に向かって人差し指をつき立てた。
「その手を離せ」
紺色のマントを風にたなびかせ、俺を睨みつけながら静かに言ってくる。
俺はターゲットの腕から手を離しながら、
「何だ、お前は?」
「……ただのお節介さ」
ふっ、とニヒルに笑うロット。どうやらこいつは心の奥底からヒーローになりきってるようで、もはや演技に見えないほどのアクションである。この上ない自然体。……いやまあ、逆にこいつは演技でもなくこういうことをするせいで、俺の日々の悩みは絶えないんだろうが。
と、危うく人生反省会に飛んでいきそうになった意識を取り戻しつつ、俺は腰から短剣を取り出しながら、
「俺に歯向かおうってのか? え? 痛い目に遭いたいのか? おう!」
精一杯のドスの利いた声を出す。……少し喉が痛い。
咳き込みそうなのを我慢して、俺はロットに向かって短剣を構えた。
しかし、ロットはまるで動じずにそのナイフの剣先を少しの間眺め(もちろんこれも台本通りなので当然だが)、またもふっと笑った。そして思わせぶりな声音で、
「……痛い目に逢うのは、どっちだろうな」
そう言いながら、背中の鞘から大剣を取り出す。ロットの身長くらいある大剣だ。黒い持ち手と銀色に輝く刀身。ツバには龍の紋様。刃渡りは少し赤みがかっている。
「わあ……」
その大剣の輝きに、さっきから地面にへたり込んだままのターゲットが感嘆の声を上げた。
……まあ、その気持ちも分かる。市販品の剣なんかより、装飾といい刀身といい実に芸術的な ものだ。俺も「何度見ても大した剣だな」と思ってしまう。
ターゲットのリアクションに反応してロットは首だけ振り返り、口を半開きにしたままのターゲットにニッと笑顔を向けた。そして再度表情を戻して、俺の方を見る。
俺はその視線を受け、
「な、何だよ! 別に剣がでかけりゃ強いってもんじゃないだろ!」
と台本通りそう叫び、そしてこれまた台本通りに短剣を振りかざしてロットに向かって駆け出した。
えーと確か、俺が切り込んだ瞬間にロットは俺の短剣を弾き飛ばし、俺の鼻先に剣をかざす。そしたら俺は「覚えてろ!」と叫んで逃げ出す、という予定のはずだが……。
そんなことを反芻しながら、俺がロットにあと五、六歩というところまで迫ったとき、いきなりロットは剣を一振りブンッと振った。と同時に――
――刀身が炎を纏った。
「お、おい!」
俺は慌ててブレーキをかけて立ち止まる。
「ちょっと待て! な、何で炎……。そんなの、だ、台本には……」
しかしロットは、むしろ俺の驚愕を楽しむようにふっふっふっと笑い、赤々と燃える剣をチャキリと振りかざしてきた。
「うわ〜。すご〜い」
目の端で、ターゲットが呑気に驚いてる。
「ちょ……ま……待て」
俺は後ずさりつつ手の平をロットに向け、何とか静止しようとした。が、ロットはそれに耳を貸す様子もなく、一歩二歩と近づいてくる。そしてちらっと再度ターゲットの方を見た後、また俺に向き直り、剣を大きく振りかぶって――――勢い良く振り下ろしてきた。
「〈火炎斬鉄〉!」
「うわっ」
俺は横に跳び、かろうじてこの攻撃をかわす。足元を見ると、ズボンのすそに焦げ痕。こいつ、本気なのかよ。
と、俺が体勢を立て直す暇もなく、
「たぁぁあっ!」
ロットはなおも二撃目を繰り出してくる。
俺は急いでしゃがんでかわした。ぶんっ、と俺の頭上で風のうなり声。持ってかれた髪の毛が数本、宙を舞う。
俺はすぐさま後方に跳び、ロットと距離をとった。そしてロットに
「いくらターゲットが美人さんだからって、お前、そんな良い所見せようと張り切らなくても――」
「問答無用!」
叫びながらロットは俺に突っ込んできて、三撃目を加えてくる。
俺は後ろに跳んでこれをかわした。そしてロットと数メートル離れた位置にスタンッと着地し、
「バカ野郎! お前、ホント、いい加減に――」
と言いかけて、背中から焦げ臭いがしてるのに気付いた。恐る恐る脇から背中を見てみると――
「――ゲッ」
燃えてる。服が。メラメラと。
俺は慌てて後ろに駆け出した。
「あちっ、あちっ、水! 水! どこだ!」
遠くでロットの
「悪は去った」
とか言うせりふが聞こえたが、気にしてる場合じゃない。
俺は空き缶を蹴っ飛ばし、ゴミ箱につまづき、犬に吼えられながら走り続けた。
三十秒くらい走ってようやく井戸を見つけ、近くにあったバケツを頭の上で逆さにする。ザバーッ、と勢いよく落ちてくる水。…………冷たい。
ジュッといって、炎はようやく消えた。
小さな水溜りの中、空っぽのバケツを放り投げ、青々とした空を見上げながら、俺はため息を一つこぼし、
「――あんの野郎ぉ……」