序章
都会にある、深夜になるとほとんどが電気でキラキラと並ぶこの東京、黄金美区は、もはや荒れ腐っている。
ヤクザ、チンピラ、不良、海外から来た得体の知れないマフィア。ここはあくまで日本。なのに銃声が時々聞こえる。
とてもじゃないが、少なくとも俺はこの街にはいたくない。しかしそこにいるのは大切な人と務めなければいけない勤務がある。
つまり、俺はここに居座らなければいけないのだ。その大切な人も、何らかの事情で黄金美に居座りたがる。
「いて…!」
寝返ったら壁に頭をぶつけてしまった。俺は寝ぼけているのか、反対方向に寝返ると、また頭をぶつけた。
次は壁ではなく、女の子のデコだ。
…………女の子の……デコ?
「わああああああ!」
誘惑との葛藤が瞬時に決着をつけたかのように、眠気が一気に吹き飛んだ。そうだ、俺はこの女の子のアパートの部屋で居候をさせてもらってたんだ。
髪はキラキラと光るほどにサラサラで、腰まで輝く黒い髪が彼女の特徴だ。瞳も大きく、優しい眼も、癒されるほどに心が安らぐ。
それはまるで、天使が横にいるかのように。
………が。
「いったいわねぇ………どう移動すれば私のデコにぶつけんのよこの鈍感!」
人というものは見かけに寄らないという言葉をよく聞くが、まさか住ませてくださる女の子がこんなきっつい性格であろうとは……。
とはいえ、布団は1つしかない。そして彼女は強気な割に案外怖がりなので寝る時は仕方がなく添い寝というパターンだ。
俺と彼女は同時に目が覚めたのか、同時に起き上がった。そして同時に洗面所へ行き、同時に歯を磨き、同時に……って!
「何で俺の行動真似してんだよお前!」
「知らないわよ! アンタが私の真似してんでしょ!?」
「いやいやいやいや! 絶対お前わざとパクってるだろ! ここまで客観的に見て面白い光景ないぞ!? ていうかさすがにココまで意気投合してたら感動ものだよ!」
「うっさいわね! ていうか思うんですけど何で私の歯ブラシに『与謝野佳志』って書いてあるわけ!? アンタの名前書いてあるのが何で二つもあるのよ!」
「あ!? それは昨日買った奴でお前の歯ブラシとたまたま柄が同じで……って……」
俺が使った歯ブラシをよく見てみると、ふちに「仁神亜里沙」と書いてあった。
「何で私の名前が書いてあるのをアンタが使ってんのよ! この変態! 返しなさいよ!」
そしてブラシをバッと奪われ、コイツがくわえてるブラシを使う事になった……が、それもなぜか瞬時にゴミ箱に投げ捨てられた。
「お前何してんだよ! 昨日買ったんだぞそれ! 弁償! 弁償しろ!」
「うっさい! 大体アンタが寝ぼけて私の使うからこうなったんでしょ! 自業自得よ!」
「だったらお前も同罪だよ! 大体お前が早くきづいてればこうなる事にはならずに無駄な時間が経過していくこともなく―グハァ!」
文句をマシンガントークしまくる俺に面倒臭がったせいか、腹にチョップがかかった。とっても苦しい一発でした。
さて、この無駄な時間の中で分かったと思うが、彼女の名前は仁神亜里沙で、俺の名前は「与謝野佳志」だ。
容姿に関して、亜里沙に特徴があっても俺には指摘するほどの特徴が至ってない。いや、特徴がなくなった。
現状としては、俺の外見は至って普通。
髪は黒で、髪型においては耳がちょっとかかった程度、襟足も別に長いわけでもないし短いわけでもない。
しかし俺は目つきが悪いと言われてしまいがち。前の和みがまだ残っている証拠であり、唯一その和みが残っている証は禁煙できないことにあたる。
カバンの中を探りながら亜里沙が俺に声をかけてきた。
「前から思ってたけどアンタ、何で突然その髪にしたの?」
「あぁ……これ。話してなかったっけ? 俺が狙われてるの」
「はぁ? なによそれ。アンタ犯罪でもしちゃったの? 警察呼ぼうか?」
「ちげーよ! 別に警察とかそういうのじゃない! 何か、変な噂だけど俺に恨みを持ってる人物がいるらしいんだよ」
「ふーん。服装も大分変ったわね。前だったら白ジャーとか色々……チャラいヤンキーにしか見えない格好だったけど」
亜里沙は前の俺の外見を想像したのか、何か凄く嫌な顔になった。ちょっとだけ傷付くのはなぜだろう。
ちなみに今は普通のシャツ、黒のダウンジャケット、下はベージュのズボンかオレンジの一本線が入った紺色のジャージを履いてる。
要するに特徴がないただの青年男子としか見られないという訳だ。
俺と亜里沙は⒚歳という同年齢。仕事場の人にそれを説明すると、いっそ結婚してしまえという大胆な提案に走ったので聞き流した。
「あれ、こんな所に眼鏡ケースがあるじゃない」
ベッドの上には俺の眼鏡ケースが置いてあった。あれ、しまい忘れたんかな……。亜里沙がケースを開けると、その中には黒縁のメガネが入っていた。
「アンタって目悪かったっけ?」
「まぁな。この頃から目がぼやけてくる違和感を感じたから買った」
「…………ふーん」
何かを疑いかけるかのようにジーと見つめられた。どうやらまた喧嘩をしたのではないかと勘違いをされている模様。
「あのさぁ、俺が喧嘩沙汰起こしたらどうなると思う? 俺を狙ってる奴が速攻来ちゃうよ!」
「別にそんな事言ってないじゃない! バッカじゃないの!? 心配されてると思った!? 心配してないからバーカ!」
「うっせんだよタコ! そんな目で見られたらそう思われてるって思われるに決まってんだろ!」
何か起こると必ずと言っても喧嘩が起きる。
しかし、その会話はほぼ日常的にあり、俺にとってその会話があるから安心できる。
逆に言えば、その会話がないと、彼女が何かでへこんでいる事が大いに伝わる。だから心配してしまう。
つまり、今の所異常なし。不安はないということだ。
「さてと、仕事行くから留守番頼むわー」
正に私服と言えるこの格好のまま、玄関で黒スニーカーを履く俺の口から出るのは「仕事に行って来る」だ。もうこの時点でよく分からない職場にいく予感が過ぎない。
そして見送る女の子は「いってらっしゃい」ではなくいつも朝の喧嘩が続いた末路であるゆえに、指で頭の上に鬼の印を作りながら「べー!」と言って見送る。もう何だこの面白い家庭。
イヤホンを付けて曲を聴き、タバコを口にくわえて歩く。とてもじゃないがこれを朝の出勤という人はこの国でいないだろう。
「おい佳志ィ!」
交差点の路上、そのコンビニの駐車場から耳に響く怒鳴り声が聞えた。予想がついた俺はすぐにイヤホンを外し、タバコをペッと吐き、その吹っ飛んできた男の足を避けた。
「昨日の続きだぁ! 決着つけようぜ佳志ィ!」
この馬鹿そうな格好をした男は、ドラストという不良チームのリーダーを務めている志藤武雄だ。
「テメェ……昨日は歯ブラシ買った後にいきなり殴りかかるわ、今日は出勤途中で蹴り食らわされそうになるわ……お前の脳につまってるのは全部『喧嘩』か!? 何か凄い脳髄だなおい! 昨日もお前壁に後頭部ぶっつけて死んだ感じになっただろ!」
「いーや! まだ死んでないから決着はついてないぞ! ほら! かかってこいよ佳志!」
ため息をついた俺は、再びイヤホンをつけ、タバコに火をつけた。くだらん世界ではめを外す必要はない。俺は道端にいるバカな不良に絡まれただけだ。そう思えばどうってことない。
焦った志藤は引き止めようと必死になっていたが面倒臭かったのでエルボーで黙らせて引き続き出勤した。
特に何も考えることがなく、いつの間にか職場に到着。入口には「相羽探偵事務所」と刻まれている。
そう、俺の就職先は探偵の助手であり、探偵の用心棒である。そして何故かいつも調査は俺がしてる。さて……今日は何があるかな。
「ちーっす」
中は至って普通で、いかにも『探偵事務所』的なオーラを醸し出す光景である。毛利探偵事務所とそう大して変わらないと言っても過言じゃない。
奥の机を見ると、パソコンのキーボードをひたすらカタカタと打ちまくる白い髪をかざした女性が見えた。
彼女が、相羽探偵事務所の探偵、相羽鳴海である。まぁコイツは……とにかく個性的だ。特徴が外見から性格まで隅々まである。
まず、喋り方だ。
「おぉ、佳志殿でありますか」
そして、外見だ。
「お前……髪黒に染めないの?」
「これは多分地毛でありますな。何か気にくわないのでありますか?」
「いや……別に。前々から思ってた疑問だしな」
「そうでありますか……佳志殿は私の指摘をちょくちょくする事がありますな」
「まぁ何でもいいけどさ……」
そして、彼女の能力だ。
「いつも思うけど、パソコンで何打ってんの?」
「そうでありますねぇ……、タイピングゲーム?」
「エェ!?」
あまりの驚きと怒りと関心が一気に心に響いたせいか、机をひっくり返すところだった。
「いっつも忙しそうにカタカタ打ってるから任務を俺に雇わせるのは仕方がないことなのかなぁと思っててアンタ何してんの!? 任務に関しての詳細とか給料とのバランスとかそういうので使ってるんじゃなくてタイピング!? もうアンタ十分過ぎるよ! 何遊んでんすか!?」
「そう怒らないでください。冗談でありますよ。ちゃんと任務の詳細を調べていますよ」
はぁ……。本当かよ。
他にも色々聞いてみたが、結局今回も任務なし。の様だ。しかしこれでは仕事にならない……。と、思っていたのはもっと遠い過去の話だ。
まぁ、ちょっと隠れた位置にあるのも原因だな。めったに客が来ない。
つまりほんとした生活を、俺はひたすら毎日続けているという事だ。
しかし時々くる任務は、少し異様な件だ。ほとんど退屈で事務所でくつろぐ毎日とは限らない。
一つだけあったが、鳴海がなぜか蘇生チーム「B3(ビースリー)」に侵入してくれと頼んできた。訳も言ってくれず、俺は着々とスパイをして難なく終わった訳だが、結局今でもその任務をした理由が分からない。
B3というチームが気になったからなのか? と、短絡的な予想で自問自答して疑問は晴れたが、よくよく考えてみるとアイツの口から話してもらったことなどない。
まぁどーでもいいけどさ。
「つーか要件ないんなら俺帰っていいか?」
「家庭の事情でもあるのでありますか?」
「いや……ココにいても退屈だし……」
「そうでありますか。では少し質問をしましょう」
鳴海がいじっていたキーボードから手を離し、メガネをはずして席を立ち上がった。
「今、何月あたりでしょうか?」
「確か…、3月ぐらいじゃない?」
当たり前の質問に答えると、鳴海は悪い予感を感じる様にニヤリとした。
「まぁ、時期に大変な任務が佳志殿を襲うでありましょう。楽しみに待っていただけると光栄であります」
そのまま振り返り、席に戻って引き続きパソコンをいじり始めた。
な……何だ? 大変な任務って……。
月と任務に何か関係があるのか……。
治まらない不安と、ムズムズ感が脳髄を襲い、結局自宅に戻ってきた。
あぁ~……腑に落ちない! 腹の虫がおさまらんわ!
ちなみに薄汚れた白いアパートの二階にある左から三番目の部屋が我が家、即ち亜里沙の部屋だ。
扉を開けて深いため息とともに「ただいまー」と言うと、キッチンでフライパンを握って器用に材料を上下左右に振っているエプロン姿の亜里沙が見えた。
………髪が結ばれている。
「あら、今日早かったじゃない」
「あぁ……まぁ。でもその昼飯自分の分だけだろ?」
二度目のため息を吐くと、何故か真顔で見つめてきた。
「ん? 顔に何かついてる?」
「いや……何でもない。それより…さ、髪ちょっと変えたんだけど……」
恥ずかしげに自分の髪に指を指す。しかし指摘する気力もない。
「あー、変わったね」
「えぇ!? それだけ!?」
「いや、それだけだけど!?」
「ホンット最低! 女心もへったくれも分からないぐらい鈍感とは思わなかったわ! 心底見損なった! 女の子が髪型を変えたらそこを指摘して大らかに褒め讃えるべきでしょう!?」
「いや知らねぇよ! たかがツインテールにしたぐらいで逐一指摘とかしとったらキリねーよ! しかも訳も分からず心底見損なられた男の気持ち分かる!? 多分お前が思ってる以上に傷付いてるよ!? 大体お前だって俺が髪極端に切りまくったとはいえ切った初日なんか全く違和感のない感じで一夜あけたじゃねぇか! こっちは逆に違和感ありまくりだよ! 肩まで伸びて茶髪で挙げ句に全身白ジャーで生活したのをある日突然髪は黒に染め直して髪も耳が見えるくらいに切りまくって挙げ句に服装もめっちゃ一般人ぽく変えたっつーのにお前、まるでマジで目が見えてない人かと思ったじゃねぇか! あん時は涙が出ちゃうほど驚いたよ! すげぇよ逆に! こんなに鈍感な女がこの世に――」
「うっっっっっっっるさいわねぇ! アンタの呂律の良さの方が逆に感動ものよ! マシンガントークしても何にも伝わってこないから!? 舌の構造どうなってる訳!? 宇宙人!? ジュゲムの本名2秒で言えるんじゃない!? 凄い勢いでギネス記録に登録されて大金持ちにでもなってさっさとこっから孤立でもしたらどうなの!?」
こいつの呂律もはたから見たら十分良過ぎる。色々言われたが、最後の言葉は正直ショック過ぎた。
一息着けて黒ダウンをハンガーにかけてベッドに腰をかけた。
―――志藤から聞いた話によると、前にも説明したとおり俺は町中からの的にされているらしい。
とは言ったものの、実際狙っているのは1人や2人程度だ。しかしその二人が相当の強者と聞いた話だ。多分、志藤は負けたんだろうな。
キング・オブ・ストリートという正体不明の二つ名をかけられている俺であるが、俺自身は大して喧嘩が強くない。
たまに絡んでくる不良を追い払うだけで、別にワルの集団のトップになった訳でもない。そもそも興味がない。まず暴力事件なんか起こしたら鑑別所送りだし、無駄な喧嘩なんてもっての他だ。
――俺は、亜里沙を一生守るって、あの日から決めたではないか。
だから、もう無駄な暴力沙汰を起こして迷惑をかけることなんてしないって決断したんだ――。
と、思っていたはずなのだが。
さっきまで作った飯をモグモグと喰っていた亜里沙が突然顔を真っ赤にし、驚いた目でこっちを見ていた。
「え……アンタ……」
ハシは口の手前で持っているのだが、ご飯がハシからポロポロこぼれている。
もしかしてさっきの事声に出しちゃった感じっすか?
……うむ、よろしい。冷静に考えてみればさっきから結構口動かしてたわ。心に声を出すってこんなにも楽なんだなーって薄々感心してたと思ってたけど実際で喋っていたとは想定外だ。
さて、どうやって誤魔化そう。多分ハッキリ言っちゃったと思うでなぁ…。
「いや、今の台本の練習。次やる任務で使うんだよ、スパイとして色々やらなあかんことがあるんでな……」
と、嘘丸出しの言い訳を言ってみたが、彼女はまるでフリーズしたかのように固まっていた。
おーい、と目の手前で手を振っても反応がない。
そして訳の分からない気まずい雰囲気のまま、日が暮れていった。