俺の負けを、君が覚えている。
俺が引退を発表した翌日、宿敵が赤ペンを持って現れた。
「訂正して」
神崎葵は、ゲームセンターの休憩机に一枚の紙を置いた。
俺が昨夜、SNSに投稿した文章を印刷したものだった。
大学卒業を機に、この街を離れること。
来週の大会を最後に、競技としてのゲームから引退すること。
四年間、一緒に遊んでくれた人への感謝。
そして、一文。
〈才能のない自分でしたが、ここまで続けられたのは、皆さんのおかげです。〉
そこだけ、赤い線で消されていた。
「誤字?」
「事実誤認」
「大会でお前に二十七戦全敗してる人間の自己評価だぞ」
「じゃあ、その二十七勝は、誰でも取れた二十七勝だったわけ?」
答えるより先に、葵が机に赤ペンを置いた。
かちり、と小さな音がした。
「私の成績を勝手に安くしないで」
ゲームセンター『コメット』の天井では、一本だけ寿命の近い蛍光灯が明滅していた。
奥から音楽ゲームの低音が響いている。クレーンゲームの景品を入れ替えていた店長が、こちらを見て、すぐ見なかったことにした。
この店で神崎葵と瀬尾航の口論に仲裁を入れる者は、もういない。
「引退くらい自由にさせろよ」
「そこは消してない」
「止めに来たんじゃないのか」
「誰が」
即答だった。
少しだけ傷ついたので、俺は椅子の背にもたれた。
「じゃあ何」
「対戦」
葵は百円玉を二枚、紙の上に置いた。
「私の分と、あんたの分」
「奢り?」
「貸し。返す前に引っ越したら、交通費つきで取り立てる」
「百円のために県外まで来るなよ」
この女は、人を引き留めるのに借金を使う。
俺が立ち上がると、葵は自動販売機へ向かった。二本の飲み物を買い、片方を投げてよこす。
いつもの、甘くない紅茶だった。
「俺の好きなやつじゃん」
「コーヒー飲むと、あんた途中でトイレ行くから」
四年間争ってきた宿敵は、俺の剣筋から膀胱事情まで把握していた。
*
俺たちが遊んでいるのは、『剣境』という対戦ゲームだ。
画面にいるのは、同じ長さの剣を持つ二人の剣士。
できることは、前後への移動と、斬ること。それから、相手の剣を弾くこと。
たった一度でも斬られれば、一本を失う。
先に三本取ったほうが、その試合の勝者になる。
跳べない。空を飛ぶ必殺技もない。
攻撃を正しいタイミングで弾けば相手に隙ができるが、何も来ないところで弾こうとすれば、自分が無防備になる。
必要なのは距離と、間と、相手が次に何をするかを読む力だった。
そして、そのどれも、葵は俺より上手かった。
初めて対戦したのは、大学一年の春だ。
友達と冷やかしで参加した店内大会で、俺は一回戦を勝ち、次の試合で葵に負けた。
三本取られるまでに、ほとんど何もできなかった。
画面の中で倒れた自分の剣士を見ていると、後ろにいた知り合いが慰めてくれた。
「しょうがないよ。相手、葵ちゃんだし」
「この子、天才だから」
そうか、天才か。
だったら仕方がない、と納得しかけたとき、隣で葵が立ち上がった。
勝ったくせに、妙につまらなそうな顔をしていた。
葵は次の試合へ呼ばれていった。
俺は大会が終わるまで待って、帰ろうとする彼女を呼び止めた。
「もう一回」
葵が振り返る。
「大会、終わったけど」
「練習でいい。さっき、何されたかも分からなかった。もう一回やりたい」
彼女は俺を見た。
「次も分からないかもしれないけど」
「次は一個くらい分かるだろ」
しばらく俺を眺めてから、葵は対戦台へ戻った。
また、三対〇で負けた。
でも二回目には、分かったことが一つあった。
俺は斬りかかる前、必ず一度、後ろへ下がっていた。
葵はそれを見て、俺が踏み込んでくるのを待っていた。
帰りに買った大学ノートの一ページ目に、こう書いた。
〈斬る前に下がる。自分では気づいていない。〉
それが、四年間の始まりだった。
大会で負ける。
録画を見る。
ノートを書く。
練習する。
負けた理由を、一つずつ潰す。
潰したはずのものが、本番で顔を出す。
それも乗り越えたと思ったら、別の理由で、また負ける。
俺のノートは増えた。
葵への敗北も、増えた。
最初は一方的だった試合が、一対三になり、二対三になるようになった。普段の対戦なら、ときどき勝てた。
それでも大会では、最後の一本だけが届かなかった。
葵は強かった。
俺と同じ二十二歳なのに、俺が見つけたと思った道の先に、いつも先回りして立っていた。
いつしか店の常連たちは、俺のことを「門番」と呼ぶようになった。
決勝へ進みたければ、まず瀬尾を倒せ。
ただし瀬尾が決勝へ行っても、だいたい葵に負ける。
便利で、よくできたあだ名だと思った。
自分が扉の向こうへ行けないことにさえ、目をつぶれば。
*
引退を決めた理由は、就職だった。
四月から県外の会社で働く。家を探し、引っ越しをして、知らない仕事を覚えなければならない。
学生時代と同じだけ練習できるはずがなかった。
ただ、それだけが理由ではないことを、俺は自分でも知っていた。
最後の大会へ向けて書いていた投稿の下書きには、もう、負けたあとの文章があった。
〈最後まで神崎選手には勝てませんでしたが、悔いはありません。〉
書いてみると、しっくりきた。
勝てないままでも、綺麗に終わることはできる。
負けて、頭を下げて、拍手をもらって。
よく頑張った人として、この椅子から立ち上がる。
仕事は本当の理由だった。
けれど俺は、その本当の理由の陰に、別のものを隠していた。
まだ全力を出せる自分で負けるのが、怖くなっていた。
練習時間が減れば、今までより勝てなくなるかもしれない。
だったら、まだ惜しいと言ってもらえるうちに辞めたかった。
家で練習するために買ったコントローラーも、売るつもりの箱に入れてあった。
大会の三日前。
店で常連たちと話していたとき、誰かが笑って言った。
「葵ちゃん、最後なんだしさ。一回くらい勝たせてやりなよ」
悪意はなかった。
それは、その場にいた全員に分かっていた。
俺も笑いかけた。
ところが、葵だけが笑わなかった。
「私がわざと負けたら、瀬尾が喜ぶと思ってます?」
場が、わずかに静まった。
「いや、冗談だって」
「なら、本人が笑えるやつにしてください」
葵はそれ以上何も言わず、対戦台へ戻った。
俺は曖昧な笑みを片づけられないまま、その背中を見ていた。
その日の練習が終わってから、俺は彼女を呼び止めた。
「さっき、あんな言い方しなくても」
「何」
「俺が気にしてないんだから」
「私が気にしたの」
葵は振り返った。
「四年間かけて勝ちたいって言ってた相手から、お情けで一勝もらって喜ぶような奴と、私がずっと戦ってきたみたいに言われた」
俺は黙った。
「違うなら、あんたも笑わないでよ」
ゲームの効果音が、やけに遠く聞こえた。
葵は肩から鞄を下ろし、休憩机に置いた。
中から、端の傷んだ黒いファイルを一冊出す。
「本当は、見せたくなかった」
表紙には、白いラベルが貼ってあった。
〈瀬尾航 対策 1〉
「……何これ」
「読めない?」
「読めるから聞いてる」
人の名前が、駆除対象の害虫みたいに分類されていた。
葵がファイルを開く。
日付。
対戦結果。
録画の一場面を印刷したものに引かれた線。
手書きの矢印。
〈攻撃前、必ず後退。距離確認のため?〉
〈弾かれたあとは右手が止まる。追撃が通る。〉
〈三本目から歩く幅を変えてきた。気づくのが早い。〉
一番上の日付を見て、俺は顔を上げた。
「初めてやった日じゃん」
「そうだけど」
「あの日、三対〇だったろ」
「大会も、そのあとの対戦もね」
「じゃあ、何でこんなに」
葵は、俺がよく知っている顔をした。
見当違いの攻撃を弾いたときの、少し苛立った顔だった。
「次も勝つために決まってるでしょ」
ページをめくった。
二度目の大会。
三度目の大会。
俺が初めて一本取った日には、赤い字があった。
〈前回と同じ追撃は通らない。見てからでは遅い。〉
初めて二本取った日。
〈最後、こっちも焦った。瀬尾は追い込まれると弱い、は取り消す。〉
めくる指が、遅くなった。
俺にとって、負けた試合だった。
何が足りなかったのかを探すため、何度も見返してきた試合だった。
同じ日付の下で、葵は、どうにか勝った理由を探していた。
「これ、今も書いてるのか」
「六冊目」
「六」
「言っておくけど、それは昔の。最近のは絶対見せない」
葵はファイルの端に指をかけた。
「何をやっても勝てる相手に、六冊も使わない」
俺は自分の手元を見た。
紙の端に、薄い茶色の染みがあった。
途中からペンの色が変わっているページもある。文字の上から、別の文字が書き直されているところもあった。
綺麗な資料ではなかった。
俺のノートと同じだった。
「……俺、お前のこと、ずっと天才だと思ってた」
「知ってる」
「悪かった」
「天才って呼ぶのは別にいいよ。格好いいし」
葵はそう言ってから、少しだけ視線を落とした。
「何もしてないみたいに思われるのが、嫌なだけ」
店長が奥の照明を消し始めた。
閉店まで、あと少しだった。
「私、写真屋で働き始めたとき、半年くらい練習が減ったの、覚えてる?」
「覚えてる」
二年前だった。
遅れて店に来ることが増えて、来ても短い時間で帰っていた。
「その時期にあんたに負けたら、仕事が忙しいからって言いそうだった。それが嫌で、来るのも嫌になったことがある」
知らなかった。
俺が一人で越えようとしていた壁の向こうに、葵は最初から立っているのだと思っていた。
「だから、引退するのは止めない。あんたの仕事のこと、私には分からないし」
葵はファイルを閉じた。
「でも、積み上げてきたものまで、『才能がなかった』の一言で片づけて終わるのは、嫌だ」
「そこまでは言ってない」
「あの一文、私にはそう読めた」
鞄の口が閉じられる。
「私が四年間、何を倒そうとしてたのかまで、なかったことにしないでよ」
返事をしようとしたが、声にならなかった。
葵は、そんな俺を困った顔で見た。
「あと」
「……何」
「泣くのは大会が終わってからにして」
「泣いてねえよ」
「そう。じゃあ、その顔は仕様ね」
葵が先に出口へ歩いていった。
俺はスマートフォンを取り出した。
〈最後まで神崎選手には勝てませんでしたが、悔いはありません。〉
まだ試合もしていないのに書いた文章を、しばらく見つめた。
それから、全部消した。
部屋へ帰り、売るつもりの箱を開けた。
コントローラーを取り出すと、底からノートの切れ端が落ちてきた。
〈壁際。焦って斬らない。〉
自分の字だった。
俺はそれを拾い、机に戻した。
コントローラーも、戻した。
*
最後と決めていた大会には、三十二人が参加した。
派手な舞台はない。
いつもの対戦台の後ろに椅子を並べて、店長がマイクを持つ。
優勝賞品は小さなトロフィーと商品券。
入口の自動ドアは、途中まで閉まって一度戻る。
四年間、何度も来た場所だった。
でも、その日は、よく見えた。
椅子の脚に挟まった紙片。
操作台の、手首が触れる部分だけ薄くなった塗装。
俺が試合をしているあいだ、飲み物を持っていてくれる人の手。
こんな場所から、俺は綺麗に逃げようとしていた。
一回戦と二回戦を勝ち、準々決勝は三対一。
準決勝は三対二だった。
準決勝の相手は、去年、別の大会で俺を負かした選手だった。
最終局面、あのときと同じように間合いを詰められた。
俺の指は止まらなかった。
相手の剣を弾き、踏み込んで斬った。
勝利の文字が出る。
後ろで誰かが叫んだ。
「瀬尾、今の上手い!」
上手い。
その言葉を、俺はちゃんと受け取った。
運がよかったとも、たまたまだとも言わなかった。
隣の操作台から立ち上がった対戦相手が、手を出してくれた。
「決勝、勝てよ」
俺は握り返した。
「勝つ」
声に出したら、腹の底が熱くなった。
向こうの試合を先に終えていた葵が、壁にもたれていた。
俺と目が合うと、預かっていた紅茶を差し出してくる。
「トイレは?」
「大丈夫」
「言い訳は?」
「置いてきた」
葵は一瞬、目を細めた。
それから、いつもの嫌な笑い方をした。
「じゃあ、倒しがいあるね」
決勝の呼び出しがかかった。
対戦台に、肩を並べて座る。
俺の剣士は青。
葵の剣士は赤。
四年間で、何千回も見た組み合わせだった。
店長がマイクを持ち直す。
「それでは決勝です。神崎葵選手、瀬尾航選手。三本先取の一試合制で行います」
拍手が鳴った。
開始の表示が消える直前、葵が言った。
「最後でも、手加減しないから」
俺は画面を見たまま答えた。
「そのために来たんだよ」
*
一本目、俺は早々に壁際まで押し込まれた。
斬られる。
そう思った瞬間、ほんの少し下がり、踏み込みざまに剣を振った。
直したはずの動きだった。
四年前から、焦ると出てしまう動きだった。
葵の剣が、待っていたように俺の剣を弾く。
反撃。
青い剣士が、崩れ落ちた。
〇対一。
心臓の音が、途端に大きくなる。
ああ、またか。
そう思いかけて、俺はレバーを握り直した。
また、ではない。
今、一本取られただけだ。
二本目。
葵は一歩近づき、止まり、もう一歩近づいた。
一歩目で相手を焦らせ、二歩目で攻撃を誘う。
何度も負けた間の取り方だった。
俺は二歩目が終わるのを待たず、斬った。
赤い剣士の胸元に、青い剣の軌跡が走る。
一対一。
背後で椅子が軋んだ。
誰かが息を吐いた。
葵は動じなかった。
ほんの少しだけ椅子を引き、画面との距離を変えた。
その仕草を、俺は知っている。
集中し直したとき、彼女は一度、姿勢を変える。
三本目。
同じ一歩目。
同じ停止。
俺は二歩目を狙った。
だが、葵は来なかった。
来るはずの場所へ振った俺の剣が、空を斬る。
戻しきる前に、赤い剣士が踏み込んだ。
一対二。
「……っ」
舌打ちが漏れた。
葵は、昨日までの俺を倒しに来ていなかった。
たった今、二本目を取った俺への対策を、その場で作っていた。
画面の端に、彼女の勝利まであと一本と表示される。
見慣れた景色だった。
二十七回の、どこかで見た。
ここから焦って動いた。
ここから待ちすぎた。
ここから、自分より強い相手が勝つのは当然だと思った。
隣で、葵の右手が一度だけ操作台から離れた。
指を開き、閉じる。
その手が、戻ってくる。
俺は初めて、彼女の呼吸の速さに気づいた。
俺だけじゃなかった。
追い込まれているのは俺なのに、彼女も、楽ではないのだ。
あのファイルに書かれていた文字が浮かんだ。
〈最後、こっちも焦った。〉
四本目が始まる。
俺は前に出た。
葵も下がらない。
二人の剣士が、互いの剣が届く直前で止まる。
俺の指は、斬れ、と急かしていた。
それを押さえて、相手の足元を見た。
赤い剣士が、わずかに進む。
来る。
下がれば、また距離を詰められる。
先に斬れば、それを待たれているかもしれない。
俺はその場に踏みとどまった。
葵の剣が動く。
弾く。
金属音が響き、赤い剣が跳ね上がった。
レバーを前へ倒す。
開いた隙へ、斬り込む。
何百回も練習した順番で、指が動いた。
青い剣が、赤を捉える。
二対二。
後ろで歓声が上がった。
俺には、半分も聞こえなかった。
右手の指先が熱い。
口が乾いている。
四年間のどの試合より、次の一本が欲しかった。
ここまで来られたから満足だ、なんて思えなかった。
勝ちたい。
隣にいる、この女に。
五本目。
葵は、少しずつ俺を後ろへ追いやった。
無理には斬らない。
俺が逃げた先へ、正確に自分の間合いを置いてくる。
残りの距離が狭くなる。
画面の中の壁が、青い剣士の背後に近づいた。
観客の誰かが、あ、と言った。
その小さな声まで聞こえた。
ここを知っている。
二十七敗目。
最後に葵と戦った大会でも、俺は壁際にいた。
下がる余地をなくして、怖くなって、斬った。
葵は待っていた。
弾かれて、終わった。
何度も、あの録画を見た。
ノートには、何度も同じ言葉を書いた。
〈届く距離と、押したくなる距離を混同しない。〉
〈怖くなって斬らない。〉
〈待つ。〉
それなのに、今日の一本目でも、俺は同じことをした。
葵も、それを見ている。
俺は、ごく短く下がった。
そして、踏み込む。
斬る直前にしてしまう、あの動き。
四年前から葵が知っている。
この試合でも、彼女が一本取った動き。
今度は、自分で選んでやった。
踏み込んだところを斬られれば、俺の負けだ。
安全な選択ではなかった。
でも、俺は見ていた。
四本目に自分の攻撃を弾かれてから、葵が、俺に剣を振らせようとしていることを。
葵の剣士が、弾く構えに入る。
俺の指は、ボタンの上にあった。
押さなかった。
ほんの短い時間だった。
四年間、欲しくてたまらなかった一勝が、そのボタンの向こうにある。
取られる前に取りたかった。
また駄目になる前に、手を伸ばしたかった。
それでも、待った。
赤い剣が、何もない空間を払う。
空振り。
葵の体が、隣でわずかに動いた。
その瞬間、俺は斬った。
青い剣士の剣が走る。
画面が一瞬、止まった。
赤い剣士が、倒れた。
三対二。
勝利の文字は、青い側に出ていた。
*
最初に思ったのは、何かの間違いではないか、だった。
自分の色を見た。
点数を見た。
もう一度、自分の色を見た。
後ろで誰かに肩を叩かれた。
店長の声がした。
「優勝、瀬尾航選手!」
拍手が響く。
俺は立ち上がろうとして、膝がうまく伸びなかった。
椅子に座り直すと、ようやく、笑いが出た。
勝った。
俺が。
葵に。
隣を見る。
葵は、画面を見ていた。
レバーから離した左手を、右手で握っていた。
口元が、一度きつく結ばれた。
その顔を見て、俺の胸に浮かんだのは、勝者らしい立派な感情ではなかった。
知ってる。
俺、その顔、知ってる。
喉の奥が詰まっているのに、周りが見ているから何でもない顔をしようとする。
終わった試合の、たった一か所を頭の中で繰り返す。
あと少し、違うことができたはずだと思う。
葵は、俺の視線に気づいた。
「何」
声が、少しだけ掠れていた。
俺は言いかけた。
たまたまだよ。
今日は運がよかった。
次はまた、お前が勝つだろ。
いつもなら口にしていた言葉が、喉元まで来た。
言わなかった。
「俺、強かっただろ」
葵の眉が寄った。
少し間があって、彼女は頷いた。
「……強かった」
その一言で、危なかった。
後ろの拍手より、店長の優勝宣言より、ずっと危なかった。
俺は上を向いた。
「そっか」
「うん」
「そっかあ」
蛍光灯が滲んだ。
葵は俺を見上げて、鼻で笑った。
「勝ったほうが泣くな。どっちが勝ったか分かんなくなる」
「仕様だよ」
「不具合でしょ、それ」
彼女も、一度だけ目元を拭った。
俺は見なかったことにした。
ただし、覚えておくことにした。
葵が右手を出した。
「おめでとう」
握る。
思っていたより、強く握り返された。
「ありがとう」
「本当に、腹立つ」
「知ってる」
「知らないでしょ。大会であんたに負けるの、初めてなんだから」
「その腹立ちなら、俺は二十七回知ってる」
「先輩面しないで」
俺たちは、ようやく笑った。
*
表彰式が終わると、店の中はいつもの騒がしさに戻った。
トロフィーは、想像していたより軽かった。
底のフェルトが少しずれている。
俺は何度も持ち替え、鞄へ入れず、机に置いて眺めた。
葵が隣に座った。
しばらく何も言わなかった。
「最後の、待ってくるかもしれないとは思ってた」
ぽつり、と呟いた。
「最近の対戦でも、あんた、余計な攻撃が減ってたし」
「じゃあ、何で弾いたんだよ」
葵は自分の指を見た。
「一本目。同じ動きから斬ったでしょ。壁まで追い込めば、もう一度出ると思った」
「うん」
「四本目は、こっちから斬って弾かれた。だから、最後はあんたに先に振らせたかった」
俺は黙って聞いた。
「一本目から、最後のを狙ってた?」
「まさか。あれは普通に焦った」
「……そっか」
葵は、もう一度、決勝の画面を見るように目を細めた。
「あの最中に、使うって決めたんだ」
「そう」
「腹立つ」
「それは、もう聞いた」
俺が笑っても、葵は笑わなかった。
負けた試合の話をしていた。
次に同じ負け方をしないために。
「次は、そこも——」
言いかけて、彼女は口を閉じた。
机の上には、赤ペンの入った、俺の引退告知があった。
ノートに挟んでいたものを、荷物を整理するときに出したのだった。
葵は紙から視線を外した。
「……いや」
一度、息を吐く。
「お疲れさま。四年間」
不意打ちだった。
お前には勝たせない。
次は負けない。
逃げるな。
そんな言葉なら、いくらでも受け止める準備をしていた。
葵の口から、俺を送り出す言葉が出るとは思わなかった。
「楽しかった」
彼女はそう言った。
綺麗に終わることができる。
俺が望んだとおりに。
勝って、拍手をもらって、宿敵にも認められて。
これ以上ない引退だった。
俺は、机の下で自分の手を握った。
まだ、レバーの感触が残っていた。
「葵」
「何」
「四月から、今までみたいには来られない」
「知ってる」
「まず、仕事と生活を落ち着かせる。練習も減ると思う」
「うん」
「大会にいつ出られるかも、分からない」
葵が俺の顔を見た。
俺は、まだ起こっていない敗北の言い訳をしないように、言葉を選んだ。
「でも、もう二度と出ないって決めるのは、やめる」
彼女の目が、少しだけ大きくなった。
「家庭用も持っていく。空いてる日に、オンラインで対戦しないか」
葵はすぐには答えなかった。
ペットボトルの蓋を閉め、開け、また閉めた。
「引退は?」
「競技との付き合い方を、いったん変更する」
「急に会社っぽい言い方になった」
「社会人になるから」
「便利ね、社会人」
俺は笑った。
「……一回勝っても、別に満足しないんだな」
もう一度、あの間合いへ入りたかった。
葵が次は何をしてくるのか、考えたかった。
負けたら、たぶんまた悔しい。
でも、その続きを知りたかった。
葵は机に頬杖をついた。
「連絡すれば。私も空いてたらやる」
「いいのか」
「別に、あんたが何時間練習しようが、倒すときは倒すし」
「だよな」
「仕事を始めたら弱くなるって決まったわけでもないでしょ」
「……うん」
「勝手に、未来のあんたまで引退させないで」
俺は頷いた。
スマートフォンで、引退告知を開く。
赤ペンで消された一文を削り、これからのことを書き直した。
〈四年間、一緒に強くなってくれた皆さん、ありがとうございました。
就職後は仕事と生活を優先しながら、自分のペースで対戦を続けます。
大会への参加は、生活が落ち着いてから考えます。
これからも、よろしくお願いします。〉
葵が、横から覗き込んだ。
「優勝したこと、書かないんだ」
「それは別で書く。写真も載せる」
「何枚?」
「八枚くらい」
「一回の優勝を八方向から見せるな」
俺は、机の上の紙を折り畳んだ。
赤い線の入ったそれは、ノートに戻しておいた。
葵が、ようやく少し笑った。
「これで二十七勝一敗か」
「急に勝ってるほうから数え始めたな」
「公式記録なので」
「いつかひっくり返す」
「どうぞ。簡単に追いつけるとは思わないでね」
途方もない話だった。
その途方もなさが、嬉しかった。
俺は、もう一つ、言っていなかったことを言うことにした。
「あと、今度、飯に行かないか」
葵は当たり前のように頷きかけた。
「反省会?」
「いや」
「引っ越しの送別会?」
「それでもなくて」
一度、唾を飲み込む。
最後の一本より、こういう場面を練習しておくべきだった。
「デートで」
葵が止まった。
初めて見る種類の隙だった。
ただし、どう攻めればいいかは全く分からなかった。
「……そういうの」
彼女が言った。
「勝たなくても、誘いなさいよ」
今度は俺が止まった。
「え」
「四年あったでしょ」
「いや、だって」
「だって何」
葵は赤くなった耳を髪で隠した。
「あんたが私にする連絡、全部『今日やる?』なんだもん」
対戦の誘いとして、これ以上簡潔な文章はないと思っていた。
人間関係としては、四年間にわたる手抜きだったらしい。
「……すみません」
「日曜なら空いてる」
「はい」
「あと、店は対戦台がないところ」
「ある飲食店のほうが少ないだろ」
「あんたとだと、念のため言っとかないと」
葵はそう言って、目を逸らした。
俺も紅茶を飲もうとした。
もう空だった。
手持ち無沙汰になって財布を出し、そこで思い出した。
「これ、借りてた分」
百円玉を机に置く。
「覚えてたんだ」
「県外まで取り立てに来られる前にな」
葵は硬貨をつまんだ。
けれど、まだ財布にはしまわなかった。
店長が遠くから声をかけてきた。
「おーい。大会の片づけするけど、対戦台、まだ使うか?」
俺と葵は、同時に顔を上げた。
葵がこちらを見る。
さっき泣きそうになっていた目は、もう、いつもの負けず嫌いの目だった。
「もう一回」
四年前の俺と、同じことを言った。
俺は立ち上がった。
「手加減しないからな」
「それ、こっちの台詞」
並んで、いつもの椅子に座る。
俺の引退試合は、もう終わっていた。
次の試合を始める百円玉は、彼女のほうが先に入れた。
「最後だから勝たせてあげる」よりも、「最後でも絶対に勝たせない」のほうが、相手への敬意になることがあります。
この二人の場合、優しくするために手を抜いた瞬間、四年間ずっと交わしてきた言葉が、嘘になってしまうのだと思います。
同じ試合でも、負けた側のノートには「まだ足りなかったこと」が、勝った側のノートには「次は通じないかもしれないこと」が残る。
航が自分の敗北を見つめていたあいだ、葵は、その敗北に追いつかれないよう必死だったのでしょう。
そして、勝つことと、誰かを好きになることは、別の話です。
航が食事に誘うために、本当はトロフィーも一勝も必要ありませんでした。
対戦相手の攻略には四年かけた彼ですが、食事への誘い方については、ようやく一ページ目に入りました。
こちらの対策ノートも、たぶん長くなります。
お読みいただき、ありがとうございました。




