三刀流の虚像
その夜、スタジオの大型モニターに映し出された自分の顔は、どこからどう見ても「成功者の余裕」に満ちていた。
煌びやかな照明、熱狂的な観客の拍手、そして隣で微笑む女子アナウンサー。歌手として新曲をチャートの頂点に送り込み、主演映画の興行収入は二十億を突破、さらにドラマの視聴率でも独走を続ける。雅哉という男は、今のエンターテインメント界における「絶対的な正解」そのものだった。
生放送の音楽番組『ミュージック・フロンティア』。和やかなトークパートの終盤、司会の女子アナが台本にない、しかし視聴者が最も喜びそうな質問を投げかけた。
「これほど完璧な雅哉さんですが、逆に『この人には絶対に敵わない』と思うアーティストはいらっしゃいますか?」
雅哉は一瞬だけ考え、カメラに向かって完璧な角度の微笑みを向けた。彼の脳裏に浮かんだのは、ある一人の男の顔だった。
「いますよ。川上さんです」
スタジオに、意外そうな、それでいて納得したような「へえーっ」という声が広がる。
川上。雅哉とは正反対の場所にいる男だ。
年齢は三十代後半。ルックスはお世辞にも良いとは言えない。少し猫背で、腫れぼったい一重まぶたに、手入れのされていない髪。だが、彼がひとたびギターを抱えて口を開けば、その歌声と詞の世界観は聴く者の魂を鷲掴みにし、えぐり取る。まさに「怪物」と呼ぶにふさわしいシンガーソングライターだった。
「彼は本当にすごい。僕がどれだけ努力しても、あの歌声の深みや、胸を突くようなフレーズは作れません。純粋に音楽の神様に愛されている専門家ですから」
そこまでは良かった。謙虚な姿勢として、好感度をさらに上げるはずの発言だった。
しかし、雅哉の中に芽生えていた「全能感」が、余計な一言を付け加えさせた。
「まあ、僕の場合は、欲張りなんですよね。歌もやりたい、芝居もやりたい。例えるなら、僕はルックスと歌と俳優の『三刀流』。あ、最近はモデルも始めたから『四刀流』かな? 大谷翔平選手は二刀流であれだけ凄いですけど、僕は欲張って数で勝負、みたいな。彼は歌一本の『一刀流』を極めた職人。僕は多角的にエンタメを届けるジェネラリスト。住む世界が違うというか、それぞれの良さがあると思うんです。……もちろん、大谷選手は尊敬の対象でしかありませんけどね」
雅哉は軽やかなジョークのつもりで、最後は茶目っ気たっぷりにウインクして見せた。自分を「器用貧乏」と自虐し、川上を「孤高の天才」と持ち上げた――。
少なくとも、その瞬間の彼はそう信じて疑わなかった。
番組が終わった直後、楽屋に戻る廊下で、チーフマネージャーの佐藤が顔を真っ青にしてスマホを叩いていた。
「雅哉、お前……さっきの、あれは不味いぞ」
「え? 何が? 川上さんをリスペクトしてるって言っただけだろ」
「見ろ。もう燃え始めてる」
差し出された画面には、SNSのタイムラインが恐ろしい速度で流れていた。
『雅哉、何様のつもり?』
『川上を「歌しかない」って馬鹿にしたよね今』
『大谷翔平を比較に出すな。二刀流はどっちも超一流だから成立するんだよ。お前のはただの「中途半端な三股」だろ』
『ルックスを「刀」の一つに数える傲慢さ。川上は顔が悪いって言いたいのか?』
雅哉は凍りついた。
「……そんなつもりじゃ……。僕はただ、役割が違うって言いたかっただけで」
「お前の『つもり』なんて関係ないんだよ。言葉は受け手が決めるんだ」
炎上は、一夜明けても収まるどころか、巨大な渦となって芸能界全体を飲み込み始めた。
翌朝の情報番組では、かつてプロ野球で活躍した辛口コメンテーターが、苦々しい顔で雅哉の発言をぶった斬った。
「大谷選手の二刀流っていうのはね、投打の両方で歴史的な数字を残しているから賞賛されるんです。雅哉君? 歌も演技も人気はあるでしょうが、それはあくまで『タレント』としての人気だ。芸術性で川上さんと並べたと自惚れるのは、あまりにも野球を、いや表現をナメている」
週刊誌のネットニュースも容赦なかった。
『雅哉、本音露呈か。実力派川上を「容姿端麗な自分」の引き立て役に利用』
『「四刀流」発言に業界内からも冷笑。器用貧乏の勘違い』
雅哉の出演するCMの企業には問い合わせが殺到し、数日後に控えていた映画の完成披露試写会は「警備上の都合」という名目で雅哉の登壇がキャンセルされた。
彼は自宅のタワーマンションのベランダから、どんよりと曇った東京の空を眺めていた。
手元にあるスマホを投げ捨てたい衝動に駆られる。何を呟いても「火に油」だ。事務所からは「一切の反応をするな」と厳命されていた。
自分の何が間違っていたのか。
確かに、川上のルックスを「刀」ではないと思っていたのは事実だ。だが、それは差別ではなく、事実の整理だった。自分には恵まれた外見がある。それを武器にして何が悪い。エンターテインメントは総合力ではないのか。
しかし、世間が突きつけてきたのは、雅哉が最も恐れていた評価だった。
「お前の歌に、川上のような『一撃』があるのか?」
数日後。雅哉は人目を避けるようにして、都内にある古いレコーディングスタジオを訪れた。
そこには、騒動の渦中にあるもう一人の主役、川上がいるはずだった。
事務所同士の調整により、急遽、二人の対談が企画されたのだ。表向きは「不仲説の払拭」だが、実際は雅哉側の謝罪行脚である。
スタジオの重い扉を開けると、コーヒーの匂いと煙草の煙、そして微かなギターの音が漂ってきた。
ブースの椅子に座り、一心不乱に譜面を書き換えている男。川上だ。
雅哉は足がすくんだ。テレビで何度も共演したはずなのに、今の川上は、まるで触れると切れる刃物のようなオーラを纏っていた。
「……川上さん」
呼びかけると、男はゆっくりと顔を上げた。眠そうな、しかし底の見えない深い瞳が雅哉を射抜く。
「ああ、雅哉君。災難だったね」
その声には、怒りも、蔑みも、同情すらもなかった。ただ、凪のような静けさだけがあった。
「すみませんでした。あんな、軽率な発言を……。僕は本当に、あなたのことを尊敬していて……」
「いいよ。気にしてない」
川上はあっさりと首を振った。
「君の言ったことは、ある意味正しいよ。僕は歌しかない。それ以外は全部捨ててきた。君は全部持っている。それは才能だ。でもね、雅哉君」
川上は立ち上がり、雅哉の前に立った。
雅哉の方が背は高く、体格もいい。着ている服も、雅哉の方が圧倒的に高価だ。
しかし、雅哉は自分がひどく小さく、裸にされているような感覚に陥った。
「君が言った『三刀流』とか『四刀流』っていう言葉。あれ、面白いね。でも、刀ってのはね、何本持っていても、最後に相手を斬るのは一本だけなんだよ」
川上は壁に立てかけられた、ボロボロのアコースティックギターを指差した。
「僕は、この一本の刀を一生研ぎ続けてる。他の刀を持つ余裕なんてなかった。君は、腰にたくさんの綺麗な飾り刀をぶら下げている。でも、その中に、僕のこのボロい刀とぶつかって、折れない刀が一本でもあるかい?」
雅哉は言葉を失った。
自分は、効率的に、器用に、大衆に受ける形に自分を成形してきた。歌も、演技も、モデルも。どれも「合格点」だ。だが、それは誰かの心に消えない傷をつけるほどの「一撃」を持っていたか。
大谷翔平の二刀流がなぜ凄まじいのか。それは、投打の両方で、誰よりも鋭く研ぎ澄まされた「一本の刀」を二本持っているからだ。
自分のは、刀ですらなかったのかもしれない。ただの、光るおもちゃだったのではないか。
「……僕は、怖かったんだと思います」
雅哉は、震える声で絞り出した。
「何かに絞って、そこで負けるのが。だから、いくつも武器を持っているふりをして、逃げ道を作っていた。川上さん、あなたの歌を聴くたびに、僕は自分の空っぽさを突きつけられている気がして……それを隠したくて、あんな傲慢な言い方をしたんです」
川上は少しだけ目を見開き、それから今日初めて、短く笑った。
「あはは。君、今の顔、最高にいいよ。テレビで笑ってる時より、ずっとマシだ」
川上はギターを手に取ると、パイプ椅子を雅哉に向けた。
「対談なんて、言葉でやっても無駄だ。事務所の連中には適当に書かせとけばいい。それより、ここで僕と一本ずつ、歌ってみないか。君の『三刀流』の中の一本でいいからさ。僕のこの刀と、勝負してみようよ」
スタジオの空気は一変した。
雅哉の心臓が、早鐘を打つ。
外ではまだ、彼を罵倒する声が渦巻いているだろう。キャリアは傷つき、好感度は地に落ちた。
だが、今の雅哉の胸にあるのは、絶望ではなかった。
彼は、マネージャーから渡されていた高級なミネラルウォーターを飲み干すと、マイクの前に立った。
「……負けませんよ」
「いい返事だ」
二人のセッションが始まった。
それは、カメラも、観客も、SNSの反応もない、ただ音楽だけが支配する空間。
雅哉は、初めて自分を飾ることをやめた。綺麗なビブラートも、完璧なフェイクもいらない。ただ、自分の中心にある「情けなさ」や「渇望」を、そのまま声に乗せた。
一時間後。
スタジオを出た雅哉の顔は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。
待機していた佐藤マネージャーが駆け寄ってくる。
「どうだった? 謝罪のコメント、事務所が用意したやつで出すからな。あと、SNSの沈静化のために――」
「佐藤さん、それ、もういいです」
雅哉は、マネージャーの言葉を遮った。
「僕、次のドラマ、降板させてください」
「はあ!? 何を言ってるんだ、お前。違約金がどれだけ――」
「その代わり、次のアルバム、全部自分で曲を書きます。川上さんと勝負するために、もっと刀を研ぎたいんです。時間がかかるかもしれないけど、そうしないと、僕は一生『偽物』のままです」
佐藤は呆然と雅哉の顔を見た。
そこには、かつての「完璧なイケメン」の表情はなかった。代わりに、何かに飢えた、野生動物のような鋭い眼差しがあった。
その後、雅哉の炎上騒動は、彼がすべてのレギュラー番組を降板し、表舞台から姿を消したことで、急速に収束していった。
「自業自得だ」「消えて当然」
ネットの海には、そんな言葉がしばらく漂い、やがて新しいスキャンダルに上書きされて消えていった。
一年後。
音楽業界に、ひとつの衝撃が走った。
「M」という無名のアーティストが突如として配信した楽曲が、一切のプロモーションなしに、チャートを逆走し始めたのだ。
その歌声は、かつての「雅哉」を彷彿とさせたが、決定的に何かが違っていた。
もっと泥臭く、もっと痛切で、聴く者の耳を切り裂くような、鋭利な一撃。
SNSでは、再び「雅哉ではないか」という噂が飛び交った。
しかし、今度の反応は以前とは違っていた。
『もしこれが雅哉なら、彼はもう「何刀流」なんて言わないだろう』
『この声は、一本の刀で戦ってるヤツの声だ』
ある夜、川上は自身のラジオ番組で、その楽曲をフルコーラスで流した。
曲が終わった後、彼は一言だけ呟いた。
「いい刀になったね。雅哉」
その言葉は、誰にも届かないほど小さな声だったが、電波に乗って、ある男の耳に届いた。
都内の小さなアパートで、指先に硬いタコを作りながらギターを抱える雅哉の頬を、一筋の涙が伝った。
彼は今、三刀流でも、四刀流でもない。
ただ一人の「歌い手」として、そこに立っていた。
かつて彼を嘲笑った世界は、もう、彼の歌声を無視することはできなかった。
窓の外では、また新しいスターが「マルチな才能」を武器に現れては消えていく。
だが、一度研ぎ澄まされた刃は、決して錆びることはない。
雅哉は再びマイクを握った。
今度こそ、誰にも折られない、自分だけの「一本の刀」を振るうために。




