熊撃ち :約3000文字
「オーイ! オーイ。おーい……」
声は掠れ、濁り、豪雨に叩き潰されて消えていく。喉がひりつき、胸の奥が縮み、おれはそのまま泣きたくなった。
おれの人生はどん詰まりだ。弱り目に祟り目とはよく言ったもので、弱った者をいたぶるのはなにも人間に限った話じゃないらしい。今まさに、その事実を全身で思い知らされている。
山で遭難した挙句に、この容赦のない土砂降り。視界は真っ白に泡立ち、もともと当てにならなかった方向感覚は、完膚なきまでにぶっ壊された。きっと神が上からションベンしているんだ。子供が蟻の巣に水を流し込むみたいに。
もっとも、こんな不幸はおれの人生ではそう珍しくもない。だが、何度味わってもつらさに慣れることなどないのだ。
思い出すだけで脳みそが縮むような学生時代を終え、どうにか就職したと思ったら、待っていたのは鮮烈なパワハラだった。心はすり減り、眠れなくなり、気づけばベッドの上で、それこそ踏み潰された蟻みたいに手足をぴくぴく痙攣させていた。
『とりあえず三年勤めて』なんて誰かの言葉を馬鹿正直に信じて――おれはそういうのが多いのだ――必死に毎日に食らいついてきたものの、結局鬱になって辞めた。食いつなぐために始めたバイトも、どれも長続きしなかった。
それでも、どうにかこんな人生を変えたくて、足掻いて、足掻き続けて、そして辿り着いた先が猟銃免許だった。
きっかけはよく覚えていない。猟師が足りないというニュースを見て、『こんな自分でも役に立てるかもしれない』なんて思った気がする。あるいは単純に自信が欲しかったのかもしれない。いじめられっ子が格闘技を始めるようなものだ。気に入らないやつをいつでも撃ち殺せる――そんな心の余裕を持ちたかったのかもしれない。
メンタルクリニックに行ったのは一度きりで、正式に鬱病と診断されたわけではなかった。だから、猟銃免許は取れた。
初めて銃を手にしたときの感動だけは、今でもはっきり覚えている。冷たく重く、そして確かな強さを感じた。
こいつ一本で食っていける。そんな根拠のない自信が胸の奥からじわりと湧き上がった。町や文明から離れ、山にテントを張って自給自足の生活をする。誰にも会わず、誰にも責められずに生きていく。そんな子供じみた妄想に浸っていると、自然と心が静まった。
だが、現実はこれだ。熊が出ると聞いて山に入ったものの、あっさり遭難。足を挫き、走るどころか歩くだけでもびっこを引く有り様だ。
――もしかしたら、おれが銃を求めていたのは自分の頭を吹っ飛ばすためだったのかもしれない。
そんな考えが頭蓋骨の内側をガンガン叩き、反響していた。
いっそ、本当に穴でもあけてやろうか――そう思ったそのときだった。
「穴……だ」
雨の帳の向こう、山肌にぽっかりと黒い穴が口を開けていた。少しかがめば入れる程度の大きさで、奥行きは浅そうだ。それでも雨をしのぐには十分だろう。
おれは足を引きずりながら近づき、穴の一番奥に腰を下ろした。背負っていた荷物を下ろした瞬間、堰を切ったように疲労が押し寄せてきた。
雨で冷え切った体は小刻みに震え、寒気は一向に引く気配がない。熱があるのかもしれない。頭だけが異様に熱く、ずっしりと重い。中にお湯でも溜め込んだかのようだ。何度擦っても、視界は水をかけられたガラスのようにぼやけたままだった。
それでも銃を胸に抱くと、不思議と心が落ち着いた。おれが銃に抱かれているのかもしれない。そんな気さえした。
おれはゆっくりと目を閉じた。眠りたかった。だが、体中に渦巻く不快感がそれを許してくれない。ただ、こうしてじっとしているだけでも少しは休めるはずだ。
おれは胸に抱えた銃に流し込むように、意識を溶かしていった。
……どれほど時間が経ったのだろう。おれの耳が慣れたのか、壊れただけなのかもしれないが、雨音が幾分か弱まった気がした。
とはいえ、ここを出て闇雲に歩き回り、また雨が激しくなったらと思うと体は動かなかった。
いっそ、このままここで――そんな考えが頭をもたげた、その瞬間だった。
穴の入り口から差し込むかすかな光が揺れた。何かがゆらりと横切ったのだ。
まただ。まるでこちらを覗き込むように影が揺れ動いている。
――熊だ。
おれは思わず飛び起きた。頭を天井にぶつけ、その反動で尻もちをついた。
ここは――熊の巣穴だったのだ。
一瞬、パニックになりかけた。突然、沸き上がった大量の泡に呑み込まれたように、自分がどこにいて何をしているのかわからなくなった。だが次の瞬間、体が勝手に動き、おれは銃を構えていた。
足元の水たまりに、ぽちゃんと一滴落ちた。おれの体から滴り落ちた雨水ではない。たぶん、汗だ。体の芯が焼けつくように熱い。心臓が胸の内側で暴れ回り、今にも破裂しそうだった。だが、先ほどまで胸にまとわりついていた不快なざわつきは、嘘みたいに消えていた。
もう一滴落ちた――その小さな音がやけに鮮明に耳に届く。
自分でも意外なほど、心は静まり返っていた。
狙いをつける。足の角度、腰の位置を意識。肩付けし、片目を閉じて頬に銃床を押し当てる――体が勝手に教本のページをなぞっていく。そして、引き金にそっと指をかけた。
指先に力を込めた瞬間、元上司や学生時代の同級生、これまで出会ってきた嫌な連中の顔が、ぶわっと脳裏に浮かんだ。
ただ、不思議と怒りも憎しみも湧いてこなかった。ただ決められた動作を、決められた順番に遂行する。それだけだ。そして、その単純さが妙に心地よく感じた。
脳の芯を叩き折るような銃声が轟いた。
――当たった……当たったぞ!
口を開くと、喉の奥から萎びた音が漏れた。そういえば、喉はずっと砂を飲み込んだみたいに乾いている。
おれは思わず照れ笑いし、鼻を擦った。やったぞ――今度こそ声に出そうとした。きっと大事なことだから。ちゃんと口にしておくべきだ。そう思った。
だが次の瞬間、開いた口から漏れたのは空気だけだった。
――もう一頭、いる。
おれは即座に銃を構え直した。
のそり、のそりと黒い塊が穴の中へ入ってくる。倒れた一頭目に覆いかぶさるように身体が重なった。
そして、その頭がゆっくりとこちらを向いた――おれを見ている。
来るか。来る――。
おれは狙いを定め、静かに引き金を絞った。
◇ ◇ ◇
穴を出て少し歩くと、雨は目に見えて弱まり始めた。やがて雲の切れ間から青空が覗き、その青は次第に広がっていった。だが、その色とは比べものにならないほど、おれの胸の中は澄み切っていた。
ふらふらと道なき斜面を下る。足は相変わらず痛み、全身は鉛のように重かったが、どうでもよかった。
たとえ、このままさらに深く迷い込もうが、足を滑らせて死のうが、惜しくはない。
おれは成し遂げたのだ。その確かな充足感が、胸の奥にどっしりと根を下ろしていた。
……が、拍子抜けするほどあっさりと舗装道路に出た。あの穴から大して離れていなかったらしい。まあ、そんなもんだ。人生ってのは。
おれは町まで歩き、銭湯を見つけると、そのまま暖簾をくぐった。番台の老人が、泥まみれのおれの姿を見て、露骨に眉をひそめたが、どうでもよかった。
シャワーで汗と泥を洗い流し、湯船に身を沈める。生きている――おれは生きている。
その言葉を胸の中で反芻するたび、じんわりと心が満たされていった。
――おれは、もう大丈夫だ……ん?
風呂から上がり、脱衣所で体を拭いていると、他の客たちが一様にテレビへ視線を釘付けにしていることに気づいた。
『救助要請を受け、山中で遭難者を捜索していた捜索隊の二名が、何者かに射殺される事件が起きました。犯人は現場となった穴に立てこもっているとみられ、警察は慎重に対応する方針で……あ、今、装備を整えた警察官が穴の中へ――』




