6話
――夜。
山の影が長く伸び、森のあちこちから、ぼうっと黒い靄が立ち上っているのが見える。
その靄は、一度見てしまうと、目を逸らせない。
あちこちに黒い指を伸ばして、人々の生活を絡め取ろうとしている。
(あれを、放っておけるほど、わたしの性格は良くない)
ゼルディアスの言葉を借りるなら、そういうことになる。
ベッドの上で横になってみたものの、目が冴えて仕方がない。
何度も寝返りを打っているうちに、外の気配が少し変わった。
城の中の灯りが落ちて、静けさが一段深くなる。
遠くの塔の上から、微かに魔力のうねりが聞こえる気がした。
(ゼルディアス様、また瘴気を抑えに行ったんだ)
そう思うと、胸が締め付けられる。
一人で身体を削りながら、世界中のバランスを支えようとしている。
わたしがやってきたことと、何が違うんだろう。
「……違う」
小さく呟く。
違う。
彼は、わたしに“全部やれ”とは言わない。
むしろ“休め”と言ってくれる。
だから、甘えていい。
そう分かってはいるけれど――。
(わたしも、なにかしたい)
布団の中で拳を握る。
南東の村の子どもたちの顔を、想像する。
見たこともない村なのに、目の前に浮かぶのは、ニコたちの顔だった。
あの子たちと同じ年頃の子どもが、苦しくて泣いている。
そのイメージが、頭から離れない。
(わたしの力なら、間に合うかもしれない)
距離は遠い。
魔王城から歩いて向かえば、完全に手遅れになるだろう。
けれど、瘴気が濃い森を抜けて、そこから一気に浄化すれば――
そんな計算が、頭の中で勝手に始まる。
わたしの体力。魔力の残量。瘴気を浄化する範囲。命の削られ方。
全部分かってる、今まで、何度もやってきたから。
(ゼルディアス様に相談したら、絶対に止められる)
それも分かりきっている、容易に想像がつく。
――だったら、言わなければいい。
頭の隅で、ひどく短絡的な結論が顔を出す。
それを即座に否定できない自分が、とても嫌な奴に思えた。
「……わたし、ほんとに厄介な性格だなあ」
自嘲気味に呟きながら、ベッドからそっと抜け出す。
裸足のまま床に足を下ろすと、石畳の冷たさがじんと伝わってきた。
厚手の外套を羽織り、足音を殺して廊下に出る。
夜の魔王城は、昼とは違う顔をしていた。
魔石の灯りは最低限に絞られ、廊下の影が深くなっている。
時折巡回の兵士が通るが、彼らの足音も小さい。
以前リーゼから聞いた、“結界の薄い場所”を頭の中でなぞる。
城の外壁近く、古い塔の裏手。
岩肌がむき出しになっていて、瘴気の侵入を完全には防げていない場所がある。
そこから出れば、森へ出るのは難しくない。
そう自分に言い聞かせながら、足を進める。
途中、角からふいに兵士が現れて、心臓が飛び出そうになる。
「……あっ」
「……ん?」
角張った肩と立派な角を持つ魔族兵が、眠そうな目でこちらを見る。
「クララ様?」
「えっと、こんばんは」
「こ、こんばんは。こんな時間に、どちらへ」
「少し、外の風にあたりたくて」
「ですが外は瘴気が……」
「分かっています。結界の内側で、ちょっとだけ」
にこ、と笑ってごまかす。
兵士はしばし口をパクパクさせてから、困ったように頭を掻いた。
「……陛下に報告してからの方が」
「ゼルディアス様は、今、瘴気を抑える作業中ですよね」
「は、はい」
「邪魔したくないので、その……少しだけ。ちゃんと戻りますから」
兵士はしばし逡巡し――。
「……お気をつけて」
そう言って道をあけた。
……後で絶対この人、怒られる気がする。
申し訳なさで胸が痛む。
(戻ってきたら、ちゃんと謝ろう)
そう心に決めて、足早に塔の裏手へ向かう。
夜風が肌を撫でる。
結界の境目に近づくにつれて、空気の質が変わるのが分かった。
城の中では感じなかった重さが、じわりと肩にのしかかってくる。
視界の端に、黒い靄がちらりと揺らめいた。
石壁の隙間。古い崩れかけた階段を下りた先に、小さな門がある。
そこが、結界の薄い場所だ。
門の向こうは、森。
瘴気の海。
扉に手をかけ、深呼吸を一つ。
「……大丈夫。わたしは平気だから」
自分に言い聞かせる。
いつも通りの口癖。
ゼルディアスに怒られるやつだ。
外套のフードを被り、そっと扉を押し開けた。
途端に、空気が変わる。
重い。
湿気た布を口と鼻に押し付けられたみたいな感覚。
肺に入ってくる空気が、ねっとりとしている。
視界のあちこちに、黒い靄が漂っている。
風も、星の光も、少し歪んで見える。
(そうだ、この感じ)
何度も経験してきた瘴気の中。
けれど、王都の近くより、ここはずっと濃い。
一歩進むごとに、足首に絡みつくような抵抗がある。
森の木々も、どこか苦しそうに枝を垂らしているように見えた。
魔王城の灯りが背後で小さくなっていく。
その代わりに、遠くの方から、かすかな声が聞こえた気がした。
「……咳……い……」
「……た……い……」
錯覚かもしれない。
けれど、その小さな悲鳴みたいな声に、足が自然と速まる。
瘴気を感じ取る感覚を、少しだけ開く。
胸の奥で、光がじわりと熱を帯びた。
南東、そこから、濃い瘴気が渦を巻いている気配がする。
その中心に、ひ弱な灯りがいくつか揺れている。
(間に合って)
祈りながら、森の中を進む。
枝が外套を掠め、靴の下で枯れ枝が折れる音がする。
時々、どろりとした瘴気の塊が顔の横を通り過ぎていき、そのたびに視界が一瞬暗くなる。
何度か立ち止まり、膝に手をついて息を整える。
呼吸が浅くなっているのが分かった。
「……まだ、いける」
自分にそう言い聞かせて、また歩く。
やがて、森を抜けた。
眼下に、村が見える。
小さな家々が寄り添うように建っていて、その周りを畑が囲んでいる。
普段なら、きっとのどかな光景なのだろう。
今は、村全体が黒い靄の膜に包まれていた。
「……酷い」
思わず漏れた声は、瘴気に飲み込まれてしまいそうだった。
村の中央――井戸のある広場には、数人の人影が倒れている。
かろうじて動いているのは、膝をついて誰かの体を揺さぶる人たちだけ。
「誰か」
「誰か、助けてくれ」
「息をしているけど、目を開けないんだ」
声が、風に乗って届く。
そんな中に、かすかな子どもの泣き声も混ざっていた。
足が勝手に動く。
斜面を駆け下り、村へと飛び込んでいく。
瘴気が体中に絡みついて、内側から圧迫してくる。
頭がぼんやりして、足元がふらついた。
それでも、前へ、前へと進む。
広場に飛び込むと、一人の女性が地面に膝をついて泣いていた。
腕の中には、小さな男の子。
ぐったりとしたその体は、細い肩を上下させるのもやっとという様子だった。
「……聖女様?」
誰かが、わたしを見上げて呟いた。
人間の服装とは違う外套を着ているのに、その声には確信がこもっている。
「あなたは……聖女クララ様ですか」
別の老人が、震える声で尋ねてくる。
わたしは、その問いに頷いた。
「はい。私は聖女クララです」
そう名乗ることに、今まで少し抵抗があった。
でも、この瞬間だけは、その肩書きに助けてもらう。
「間に合って……本当によかった」
女性が、涙に濡れた顔でわたしを見上げた。
「どうか、この子を。この子だけじゃない、村のみんなを……助けてください」
その目に宿るのは、必死の祈り。
わたしを責める言葉なんて、どこにもない。
胸の奥で、何かが鋭く疼いた。
「……分かりました」
膝をつき、子どもの額に手を当てる。
皮膚は冷たく、呼吸は浅い。
体の中に瘴気が入り込んで、肺を圧迫している。
この子だけ助けても、村全体の空気がこのままなら、また同じことの繰り返しになる。
(だったら――)
わたしは、立ち上がって村全体を見渡した。
家々の屋根、畑、井戸。
それらを包む黒い膜。
ここに来るまでの道のりで、何度も計算した。
わたしの今の状態で、どこまで浄化できるか。
どれくらい命を削ることになるか。
算数は得意じゃないけれど、この計算だけは、嫌になるほど身についている。
「少し、離れていてください」
わたしは、広場の真ん中に立った。
周りの人たちが、不安そうに顔を見合わせる。
「大丈夫。絶対に、助けます」
胸に手を当て、深く息を吸い込む。
肺に瘴気が入り込んで、むせそうになった。
でも、その瘴気を、そのまま飲み込む。
体の中へ。
光のある場所へ。
胸の奥の光が、一気に燃え上がる感覚がした。
「――来て」
言葉にならない呟きが、光に変わる。
わたしの足元から、柔らかな光がじわりと広がった。
最初は、夜の闇に負けそうな弱い光。
でも、それはあっという間に強さを増していく。
足首に絡みついていた瘴気が、ひとつずつ弾けるように消えていく。
黒い靄が、淡い白金色の波に飲み込まれて、溶けていく。
空気が変わる。
さっきまで湿っていた風が、少しずつ軽くなっていった。
村人たちの咳が、少しずつ収まる。
井戸の水の上に漂っていた黒い膜が、ぱちん、と音を立てて砕けた。
「すごい……」
「瘴気が……消えていく」
誰かの呟きが聞こえる。
でも、わたしの意識は、もうそこに集中していなかった。
目の前の光景が、遠ざかっていく。
体の感覚も、どこか遠い。
胸の奥の光が燃えれば燃えるほど、それに引き換えに、何かが削れていく感覚がある。
骨から髄を抜かれているみたいな、ぞわぞわする痛み。
「まだ……まだ足りない」
村の端っこ――畑のあたりには、まだ瘴気の塊が残っている。
そこにも光を届かせようとして、さらに力を注ぎ込んだ。
足元がぐらり、と揺れる。
膝が笑う。息が苦しい。
「クララ様!」
誰かが叫んだ。肩に手が伸びてくる。
でも、今そこで止まりたくない。
(ここまで来たら、全部やらないと)
中途半端に浄化したら、逆にバランスがおかしくなってしまう。
世界の瘴気の流れは、そう簡単じゃない。
また計算する。残りの瘴気の量。わたしの命の残量。
(いける)
いける、はず。
大丈夫、まだ平気なはず。
「――っ」
歯を食いしばる。
視界が真っ白になった。
村全体を包むように、光が弾ける。
夜空へ向かって、太い柱になって伸びていく。
はるか上空まで届いた光は、周囲の瘴気の流れを変えた。
黒い霧が、音もなく後退していく。
その瞬間。
わたしの足から、力が抜けた。
「クララ様!」
誰かの悲鳴。
地面が迫ってくる。
(あ、まただ)
どこか他人事みたいに、そう思う。
森で倒れたときと同じ感覚。
でも、今回は、すこし違った。
倒れ込む寸前、村の人たちの息が楽になっているのを確かに感じたから。
肩を揺さぶる手。
遠くから聞こえる泣き声。
でも、そのすべてが、だんだん遠くなっていく。
身体が、重い。
胸も、頭も、足も、全部。
それでも、心のどこかで、小さな声が笑った。
(よかった)
この村だけでも助けられた。
わたしにも、まだ、役に立てることがある。
「聖女様……」
誰かが、泣きながらわたしの名前を呼んだ。
かすかに目を開ける。
視界には、さっきの女性と、その腕の中で目を開けかけている子どもの姿が映った。
「……息が、楽になってきた」
老人が、自分の胸を押さえながら呟く。
別の子どもが、大きく息を吸い込み、咳をしながらも、笑った。
「痛くない……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんと熱くなる。
「聖女様、本当にありがとうございます」
「あなたのおかげで、村が……」
「どうお礼を言えばいいか……」
次々と感謝の言葉が押し寄せてきて、耳がくすぐったい。
でも、不思議と嫌じゃない。
(ああ、やっぱり、わたし――)
役に立てるのが、嬉しい。
誰かの役に立って、“ありがとう”って言ってもらえるのが、こんなにも嬉しい。
そんな、当たり前の感情が胸を満たしていく。
……同時に、その喜びに、罪悪感が混ざる。
(わたし、自分が満たされるために、ここに来たのかな)
誰かを助けたい気持ちと、自分の価値を確かめたい気持ち。
その境目がぐちゃぐちゃになっていく。
(どっちでもいいか)
今は、考えられない。
眠気が、波のように襲ってくる。
もう、瞼を開けていられない。
「……少しだけ、休ませてください」
かろうじてそう告げると、誰かが慌てて頷く気配がした。
「もちろんですとも」
「誰か! 聖女様をベッドへ!」
そんな声を聞きながら、意識がすうっと沈んでいく。
***
同じ頃。
村から少し離れた丘の上。
重い鎧を着た兵士たちが、息を切らしながら斜面を登っていた。
先頭には、金の刺繍が施されたマントを翻す青年――勇者ロベルの姿がある。
「見えてきたぞ」
彼の隣を歩く騎士が、遠くの景色を指さした。
南東の村の方向だ。
「瘴気が濃くなっている、と報告があったのはこの辺りだな」
「ああ。教皇猊下は、“魔王が儀式の準備を進めている兆候だ”と」
「魔王め……聖女を連れ去っただけでは飽き足らず、世界まで」
ロベルが歯ぎしりする。
その瞳には、怒りと焦りと、そしてほんの少しの――恐怖が混じっていた。
そこへ。
「勇者様!」
別の偵察兵が駆け上がってくる。
「村の方角に、異常な光が!」
「光?」
「はい。魔王の儀式と思しき光柱が――」
言葉が終わる前に。
丘の向こう側から、夜空を突き破るような光の柱が立ち昇った。
白金色の、それでいてどこか温かみのある光。
村全体を包み込むように広がり、瘴気の黒を押しのけていく。
「な……」
ロベルが、言葉を失う。
兵士たちも、その場に立ち尽くして光を見上げた。
今まで共に旅をしてきたカインやミーナ、サラ、その場にいた誰もが、本能的に理解していた。
この光が、“何かを救っている”のだと。
だが――人は自分の信じたいものしか信じない。
「み、見ろ……!」
「魔王の儀式だ……!」
「世界を書き換えるための……!」
誰かが叫ぶ。
その言葉に、ざわめきが広がった。
「違う」
ロベルの口から漏れた言葉は、誰にも届かない。
自分自身でも、何に対して否定しているのか、うまく分からなかった。
胸がざわつく。
あの光を見ていると、なぜか――懐かしい感覚が甦る。
何度も、その光に包まれたことがあるような。
しかし、その感覚もすぐに瘴気のざわめきにかき消された。
光の柱が収まった時。
村の上空から、黒い霧が一気に後退していった。
「瘴気が……」
「消えた……?」
兵士たちがざわつく。
ロベルは、手にした剣の柄を握りしめたまま、光が消えた村の方角を睨み続けていた。
「……クララ」
誰にも聞こえないくらいの声で、昔の婚約者の名前を呟く。
その光が、彼女のものであることを、本能が理解していたから。
だが、すぐに別の声が頭の中で囁く。
『魔王に堕ちた聖女は、世界を歪める』
教皇の声。
王の言葉。
周囲の期待。
「……あれは、魔王の力だ」
自分に言い聞かせるように、ロベルは呟いた。
「魔王が、クララの力を利用しているんだ。俺が……取り戻さないと」
剣を握る手に、力を込める。
その指先には、うっすらと黒い靄がまとわりついていた。
***
魔王城の玉座の間。
高い天井から吊り下げられた魔石の灯りの下で、ゼルディアスはひとり、目を閉じていた。
意識は城にありながら、その感覚は世界中へと広がっている。
瘴気のうねり。
人々の祈り。
魔族たちのざわめき。
そのすべてを、彼は一度受け止めてから、必要な場所へ力を流していく。
――そのとき。
胸の奥で、鋭い痛みが弾けた。
「……っ」
思わず目を見開く。
意識が、一点に引き寄せられた。
南東の方角。
村ひとつ分の広さの瘴気が、一瞬で弾け飛んだ。
白金色の光。
優しくて、あたたかくて、誰よりもよく知っている光。
「クララ」
その名前が、喉から飛び出す。
すぐに理解が追いついた。
彼女が、ひとりで村へ向かったのだと。
命を削る浄化を、またやったのだと。
玉座の間の空気が、凍りつく。
参謀たちが、何事かと顔を上げる。
「陛下?」
誰かが声をかけた瞬間には、ゼルディアスの姿は玉座から消えていた。
影が裂ける。
黒い闇が床から立ち上がり、彼の体を包み込んでいく。
「また……君は」
握りしめた拳が白くなる。
「同じ死に方をしようとする」
その声には、怒りと、恐怖と、どうしようもない哀しみが混ざっていた。
「させるものか」
ゼルディアスの体が、影とともに消える。
次の瞬間、彼の意識はあの村の上空へ飛んでいた。
ちょうど、光の柱が収まりかけたところ。
地上には、人々に囲まれて倒れ込むクララの姿。
その小さな体が、ぐったりと力を失っているのを見た瞬間――ゼルディアスの紅い瞳が、蒼白に変わった。
「クララ!」
叫びと同時に、影が地面へと落ちる。
村人たちが驚きと恐怖の声を上げる。
魔王が、目の前に現れたのだ。
しかし、ゼルディアスの視線はただひとりにしか向いていない。
地面に倒れている聖女へ。
彼は迷いなく駆け寄り、クララの体を抱き上げた。
抱き上げた彼女の体には、確かな温もりがあった。
「……また、間に合わないのかと思った」
彼の唇から漏れた呟きは、誰にも聞こえないほど小さい。
村人たちのざわめきが、遠くに聞こえる。
「魔王だ……!」
「あの方が、魔王……」
「でも、聖女様を抱きかかえて……?」
ゼルディアスは、腕の中のクララの顔を見下ろす。
その頬に指を滑らせながら、絞るような声で言った。
「また君は、自分ひとりで全部背負おうとする」
胸の奥に渦巻く怒りと恐怖が、彼の魔力を震わせた。
「……二度と、同じ死に方はさせない」
ぎり、と奥歯を噛みしめる。
その決意の声を受け止めるかのように、村の空には星空が光っていた。
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