5話
魔王城の一日は、人間の城とそう変わらない時間に始まるらしい。
こうして窓辺に腰を下ろして、湯気の立つ紅茶なんて飲んでいると、ここが“人類の敵の本拠地”だなんて、正直ぜんぜん実感が湧かない。
窓の外には、切り立った山々と、濃い森の緑が広がっている。
遠くの空は、ほんのり灰色を帯びた青。
ところどころに瘴気の黒い筋みたいなものが絡みついているけれど、ゼルディアスが抑え込んでいるおかげで、この城の周りは割と穏やかだ。
手の中のカップから、ふわりと良い香りが立ちのぼる。
人間の世界では嗜好品扱いされていた高級茶葉より、正直こっちの方が好きだ。
少し甘くて、どこかスパイスみたいな香りが混じっていて、癖になる。
「……ああ、幸せ」
思わず、ぽつりとこぼれてしまう。
背後では、魔族たちが談笑する声が聞こえる。
食堂の長いテーブルでは、角の生えた男や、尻尾のある女の子たちが、好き勝手に朝食を頬張っていた。
「聞いたか、昨日の巡回」
「東の谷で瘴気がやっと落ち着いたらしいな!」
「陛下が夜通し抑え込んでくださったそうだ」
「ほんっとありがたいよな。聖女様がここに来られてから、城の中も随分と楽になったし」
“聖女様”という単語が出るたび、耳がぴくりと反応する。
しかし当の本人は窓辺で紅茶を飲んでいるだけなので、話題に混ざるわけにもいかない。
と、そのとき。
「クララ様、クッキー焼けました!」
元気な声が飛んできた。
振り向くと、丸い耳と小さな角を持つ魔族――たしか名前はニコだったはず――が、トレイを抱えて走ってくる。
「待ちなさいニコ。走ったら転びますよ」
リーゼが慌てて追いかけている。
うちの侍女さんは今日も苦労が絶えない。
「大丈夫だよー。ほら、聖女様に一番にあげたいんだもん」
ニコが得意げに、真ん中が少し焦げた丸いクッキーを一枚差し出してきた。
焼きたてらしく、まだほかほかと湯気が立っている。
「ありがとう。これは……ニコが作ったの?」
「うん! 昨日怪我を治してもらったお礼」
「この前の膝の擦り傷の?」
「そう。あれ、ぜったい跡になると思ってたのに、綺麗になくなったもん! お母さんもすっごい喜んでた!」
ニコが満面の笑みで胸を張る。
そんな顔をされてしまったら、こっちも笑うしかない。
「そっか。よかった」
クッキーをひとくちかじる。
……うん、正直、見た目どおりちょっと焦げてるけど、それはそれで香ばしくておいしい。
「おいしいよ」
「ほんとっ」
「ええ。ニコはお菓子作りの才能あるかもね」
そう言うと、ニコは顔を真っ赤にして飛び跳ねた。
「やったぁ! 聖女様にほめられた」
「こらこら、だから走らない」
リーゼがまた慌てる。
食堂のあちこちから、くすくすと笑い声が上がった。
――こういう時間が、好きだ。
世界が瘴気に蝕まれているなんて、嘘みたいな、穏やかな朝。
「おはよう」
低い声が背後から降ってきた。
振り向く前から、誰なのかは分かる。
「おはようございます、ゼルディアス様」
椅子から立ち上がると、ゼルディアスが少しだけ眉をひそめた。
「立たなくていいよ。まだ完全回復じゃないだろう」
「もうだいぶ元気です。昨日よりずっと楽ですし」
「それ、全然あてにならない台詞だよね」
彼は肩をすくめながら、わたしの向かい側の席に腰を下ろした。
その視線が、手元のクッキーに留まる。
「……ニコの作品?」
「はい。怪我のお礼だそうです」
「ふふ。彼女、君のことが大好きだからね。厨房に入り浸っては、“聖女様に食べてもらうんだ”って張り切ってた」
「聞いているだけで可愛いですね」
思わず頬が緩む。
ゼルディアスもつられて微笑んだ。
「君の周りは、いつも光が集まるね」
「光なんて、大げさです」
「大げさじゃないよ。さっきも、君の周りだけ空気が柔らかかった」
「それは窓のせいじゃ……」
「窓はそこにずっとあるけど、君がいない朝はこんなに明るくない」
さらっと、こういうことを言う。
しかも、恥ずかしがる素振りひとつない。
「……ゼルディアス様って、たまにずるいですよね」
「ずるい?」
「そういうこと言われると、わたし、どう返せばいいか分からなくなります」
「黙って笑っててくれていれば、それでいい」
真顔で言われて、なんだか少し心がほっとする。
ここに来てから、ずっと何かに追われているような感覚がしていた気がして。
わたしの胸の奥では、別の何かがずっと、静かに重く沈んでいる。
瘴気のこと。
外の世界のこと。
勇者ロベルのこと。
窓の外の空は、昨日より少し暗く見える。
瘴気を映しているような、鈍い色。
(……わたしは、ここで紅茶なんか飲んでていいのかな)
すこし冷めかけたカップを見つめていると、食堂の入り口から息を切らせた魔族が飛び込んできた。
「陛下、報告です!」
場の空気がぴんと張り詰める。
ゼルディアスは椅子から立ち上がり、真剣な顔で振り向いた。
「どうした」
「南東の村から、瘴気被害多数との知らせが……村人が次々と倒れているそうです」
わたしの手から、カップが滑り落ちそうになる。
リーゼがすばやく受け止めてくれて、ぎりぎりで惨事は免れた。
「詳しく」
「はい。昨日の夕刻から急に瘴気が濃くなり、老人と子どもを中心に、呼吸困難や意識障害が出ているとのこと。村の祈祷師ではまったく浄化が追いつかず……」
報告を聞くゼルディアスの表情が、わずかに歪む。
彼の周りの空気が、じり、と熱を帯びた気がした。
「……昨夜、北側地方の抑え込みに魔力を割きすぎたか」
彼が小さく呟く。
その頬には、薄い影が差している。
思えば、ここ数日、ゼルディアスはずっと寝不足みたいな顔をしていた。
夜になると、玉座の間や高塔へ向かって、瘴気を押さえ込む作業をしているらしい。
「陛下、南東の村にも出向かれますか」
「行きたいが……今、僕が城を離れすぎると、他の地域のバランスが崩れる」
ゼルディアスは、深く息を吐いた。
「距離的に、今から魔王城から直接魔力を流しても、到達が遅れる。……参謀を呼んで」
「はっ」
魔族が飛び出していく。
ゼルディアスは、ふとこちらを見る。
「クララ」
「は、はい」
「気分が悪くなったら、すぐに言って。さっきから、君の胸のあたりの光の揺れが少し荒い」
「……え」
自分の胸に手を当てる。
確かに、さっきよりも鼓動が早くなっていて、何かがざわざわと騒いでいる感じがする。
「瘴気の動きと、君の光は繋がっている。無理に感知しようとしなくていい。大丈夫、僕がなんとかするから」
そう口にする彼の顔は、明らかに疲れている。
そのまま食堂の一角――壁にかけられた大きな地図の前まで移動すると、参謀らしき魔族が駆け込んできた。
「陛下、お呼びですか」
「ああ。南東の村の報告、聞いているかい?」
「はい。南東の村……こちらです」
参謀が地図の一点を指さす。
そこは、赤い光がじわじわと濃くなっている場所だった。
地図全体を見ると、この世界がどれだけ危機的状況にあるのかが、一目で分かる。
あちこちに点在する赤い染み。
その範囲は、わたしが王都を出る前より明らかに広がっていた。
「……こんなに」
思わず呟く。
「君が王都にいた頃は、まだここまで酷くなかったはずだね」
ゼルディアスが、淡々と言う。
「君が各地を回って浄化していたから、ギリギリ保っていた。君が追放されてから、あっという間にこれだ」
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
「つまり、原因は、わたしが……」
「違う」
ゼルディアスの声が、ぴしゃりと遮る。
「原因は、君の力を理解せず、必要な場所から遠ざけた連中だ。君は、ただ命じられるままに動いていただけだろう」
「それは……そうですけど」
「君は被害者であって、加害者じゃない」
真っ直ぐすぎる視線に、思わず目を逸らす。
そんなふうに言ってもらえるのは、嬉しい。
でも、地図の上で広がる赤い染みは、どうしても「わたしがいなくなったせい」という言葉を連想させた。
(わたしが、もっとしっかりしていれば)
(もっと、自分の力を上手く使えていたら)
(追放された後のことまで考えて動けていたら)
ぐるぐると、自己嫌悪が回り始める。
「……クララ」
ゼルディアスが、そっと肩に手を置く。
その手の重みで、かろうじて現実に引き戻された。
「君は、今、ここで休む権利がある。世界のバランスは僕がなんとかする。君に全部を背負わせるつもりはない」
「でも」
「“でも”は禁止」
彼は少しだけ口元を緩めた。
「君が自分を責めると、こっちまで息苦しくなる」
「そんな、大げさな」
「大げさじゃないよ。僕は君に甘くするって決めているから」
さらっと宣言される溺愛方針。
こっちはそれに追いつけていない。
そんなやりとりをしていると、別の魔族が駆け込んできた。
「陛下、人間側の動きについても報告が」
「人間側?」
「はい。王国の広場で、勇者ロベルが大規模な演説を行っているとの情報が入りました」
ロベルの名前を聞いた瞬間、心臓がひゅっと縮む。
ゼルディアスの横で、思わず息を飲んでしまった。
「内容は」
「“聖女クララは魔王に堕ちた”と。魔王に操られ、世界を滅ぼす儀式に利用されている、と」
「そんな……」
わたしの視界から色が少し消える。
ゼルディアスは、あからさまに顔をしかめた。
「相変わらず、都合のいい物語を作るのが得意だね、人間の王家と教会は」
「広場には多くの市民が集まっており、“聖女奪還”を掲げて、王国軍の士気を煽っているとか」
「へえ、“奪還”ね。捨てておいて」
ゼルディアスの声に、冷たい棘が混じる。
「陛下、どうされますか」
「しばらく静観だ。向こうが何を言おうと、今は僕たちのやるべきことは変わらない。……クララ」
「……はい」
「今の話、聞いてしまったね」
「……はい」
嘘はつけない。
胸の中に、ずしん、と重たい石が落ちたみたいな感覚が広がっている。
ロベルが叫ぶ姿が、目に浮かぶ。
広場で、人々の歓声を浴びて――
その口から「魔王に堕ちた聖女」という言葉が出ているところを想像すると、喉の奥がきゅっと締まった。
「わたし……裏切ったって、思われていますよね」
どうにか絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「王国を。勇者を。民を守るための聖女が、魔王のところにいるって」
「思ってない奴もいるよ」
ゼルディアスが、即座に返す。
「実際、王都の中でも“聖女様は本当に危険だったのか”、“勇者様の言うことだけが真実なのか”って疑っている者は多い。……とはいえ、声の大きい方が『真実』として扱われるのが、残念ながら社会の常だ」
その“社会の常”に、わたしはずっと振り回されてきた。
「わたし、全部放り出して逃げてきたみたいに見えますよね」
「逃げてきたんじゃなくて、捨てられたんだろう」
「そうですけど……でも、結果として、わたしはいなくなった」
王都の瘴気を浄化していたのも。
各地の村を回っていたのも。
もう全部、止まっている。
「わたしがいなくなったことで、誰かが苦しんでる。そう考えると、ここで紅茶を飲んでる自分が、すごくずるい人間みたいに思えて」
言葉を続けながら、手が震えてくる。
カップを握る指先が冷たくなっていて、自分でもびっくりする。
「クララ」
ゼルディアスが、そのカップをそっと取り上げた。
代わりに、彼の手がわたしの手を包む。
「君は、命を削って世界を支えてきた。誰に認められなくても、誰に感謝されなくても、ずっと」
「でもそれは、わたしの役目で」
「その役目を押しつけたのは誰だ?」
ゼルディアスの紅い瞳が、静かに燃える。
「君が自分から望んで、“全部自分でやる”って言い出したわけじゃない。君は、求められたことを、黙って引き受けただけだ」
「でも、わたしも、“必要とされている”って思いたくて」
「うん」
ゼルディアスは、頷いた。
「それを否定するつもりはない。誰だって、必要とされたい。君がそう思うのは、ごく当たり前のことだ。……ただ、その願いに甘えた連中が、自分の責任を放り出した」
彼の声はとても優しく、子供をあやすように言葉を紡ぐ。
そんなふうに言われてしまったら、わたしはもう、自分ひとりだけが悪いなんて言えなくなってしまう。
「君は今、休むべきだ。世界のためにもね」
「世界の、ため」
「君がここで壊れたら、本当に世界が終わる。」
さらっと恐ろしいことを言う。
「だから、しばらくは僕にやらせてほしい。瘴気の抑え込みも、人間の相手も。君は、君の体を万全な状態に戻すことだけ考える」
「……わたし、何もしなくていいんですか」
「何もしなくていいとは言ってないよ」
ゼルディアスは口元だけで笑った。
「ちゃんとご飯を食べて、よく眠って、時々笑ってくれる。それで十分だ」
「それ、子ども扱いされてませんか」
「僕の中では、それが一番大事な仕事だから」
真正面からそんなことを言われると、顔から火が出そうになる。
でも、同時に、胸の奥の重石がほんの少しだけ軽くなる。
……それでも、完全には消えない。
南東の村の人たち。
今この瞬間にも苦しんでいるかもしれない人たちの姿が、頭から離れない。
***
その日の夕方。
魔王城の廊下を歩いていると、角を曲がった先からひそひそ声が聞こえてきた。
「聞いたか、南東の村の話」
「ああ。子どもが何人も倒れてるって……」
「さっき戻ってきた連絡魔が、“息をするのも苦しそうだった”って」
「祈祷師も、薬師もお手上げだってさ。もっと早く聖女様がいれば――」
そこまで聞いて、足が止まった。
心臓が、どくん、と乱暴に跳ねる。
胸の奥が、またざわざわと騒ぎ出す。
(わたしがいれば)
その言葉が、耳の奥で反響した。
わたしがいれば、浄化できる。
村の空気を一気に軽くして、子どもたちを楽にしてあげられる。
それは、分かっている。実際、今までもそうしてきた。命を削りながら。
「クララ様」
後ろからリーゼに呼ばれて、はっとする。
「廊下は冷えます。お部屋に戻られた方が」
「……ねえ、リーゼ」
「はい」
「南東の村まで、ここからどれくらいですか」
リーゼが目を瞬いた。
「それはただの興味で、という意味ではございませんよね」
「もちろん。魔王城の外に出るだけでも、結構な時間がかかりますし」
魔族の足で半日以上。
人間のわたしなら、それこそ数日はかかるだろう。
「でも、瘴気の濃い地域には、結界の薄い場所もあると聞きました」
「それは……」
リーゼが言い淀む。
「陛下の命で、城の周囲には瘴気を遮る結界が張られています。ただ、地形の関係で、完全に密閉されているわけではなく……」
「薄い場所があるんですね」
「はい。しかし、そこは同時に外から瘴気が入り込みやすい場所でもありますので、決して近づいては――」
リーゼはそこで言葉を切り、わたしの顔をじっと見た。
「……クララ様」
「なに」
「もしや、黙って何か考えておられませんか」
「いえ、別に」
全然別じゃない。
けれど、ここで本音を言えば、絶対に止められる。
「本当に。何も」
「その目はまったく信用できません」
リーゼの目が細くなる。
さすがに長年仕えてきた侍女の目はごまかせないらしい。
「陛下におかれましても、“クララ様は平気だと言いながら限界を越えるタイプ”と認識しておられます」
「ひどい」
「事実でございます」
ぐうの音も出ない。
「いいですか、クララ様。今、世界は確かに危機です。南東の村も、楽観視できる状態ではございません。ですが、だからといって、クララ様御一人が全部背負う必要はないのです」
「……分かっています」
「本当に」
「本当に」
自分で言っておきながら、言葉が軽い。
リーゼもそれを感じ取ったのか、深いため息をついた。
「陛下がお戻りになったら、今のご様子をお伝えしておきます」
「ちょっと待って、それ告げ口では」
「ご報告です」
きっぱり言い切られた。
この侍女さん、見た目よりずっと強い。
「クララ様。どうか、今日はお部屋でゆっくりお休みください」
リーゼはそう言い残し、仕事に戻っていった。
その背中を見送りながら、わたしは自室への廊下を歩き出す。
窓の外は、すでに夕暮れに染まっていた。
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