3話
柔らかい。
沈み込む、というより、包まれている。
体の重さを全部受け止めてくれる、ふかふかの何か。
……何だろう、この幸せな感触。
意識の一番上だけがふわふわと浮かんでいて、頭の奥はまだ靄がかかったみたいにぼんやりしている。
けれど、頬に触れる布の手触りと、背中を支える弾力だけは、やけに鮮明だった。
(あれ……森で、倒れて……)
そこで記憶がぷつりと途切れている。
次に思い出せるのは、誰かの腕の中の温かさと、「やっと会えた」という言葉だけ。
ゆっくりと瞼を持ち上げる。
最初に飛び込んできたのは、見慣れない天井。
白ではなく、やや暗い灰色の石を組み合わせた天井に、細い金属の装飾が走っている。
高い天井からは、魔石でできたと思しき照明がほのかな光を落としていて、部屋全体がやわらかい陰影に包まれていた。
体を少し動かすと、背中を支えていたのが、厚い羽毛布団だと分かる。
王都の城で与えられていたベッドより、ずっと……いや、比べものにならないくらい、柔らかい。
「……ベッド、だ……」
思わず小さく声が漏れる。
森の中で、あのまま地面に倒れ込んだはずなのに。
そこでようやく、鼻先をくすぐる香りに気づいた。
湿った土や瘴気の重たい匂いじゃない。
微かに甘くて、草花の香りと、どこか冷たい夜気みたいな匂いが混じった、不思議な香り。
(ここ……どこ……)
上体を起こそうとした瞬間――。
「起きたかい?」
落ち着いた低い声が、すぐ近くから聞こえてきた。
驚いてそちらを向くと、ベッドの横に置かれた椅子に、ひとりの男が腰掛けていた。
長い脚を組み、肘を膝に乗せて軽く身をかがめた姿勢で、こちらを覗き込んでいる。
漆黒の髪が肩までさらりと落ち、その隙間から覗く瞳は、深い紅。
森で見上げた、あの瞳と同じ色。
ただ、今は、少し安堵したように細められていた。
「無理に起き上がらなくていい。まだ、体が本調子じゃないはずだから」
そう言って、彼――魔王ゼルディアスは、ベッドの縁に手を乗せた。
その指がかすかに布を撫でるだけで、妙な緊張が走る。
「……ここは」
喉がひどく乾いている。
かすれた声を聞いて、ゼルディアスはすぐに立ち上がった。
「ごめん、先に水を。喉、痛いだろう?」
小さな机の上に置かれた銀のポットから、水をグラスに注ぐ。
注ぐ動作ひとつとっても無駄がなくて、わたしよりよほど優雅だ。
差し出されたグラスを両手で受け取り、一口含む。
冷たすぎず、ぬるすぎず、ちょうどいい温度の水が喉を通り、乾きが少しずつ癒されていく。
「……ありがとう、ございます」
礼を言うと、彼はほっとしたように息をついた。
「ここは、魔王城。僕の城だよ」
さらりと告げられた言葉に、グラスを持つ手に力が入る。
「ま、おう、じょう……」
「うん、魔王城。言葉通りだね」
ゼルディアスは、くす、と小さく笑ってみせた。
普通に会話が成立しているのが、余計におかしい。
「魔王城、って……あの、“人間を滅ぼそうとしてる恐ろしい場所”の?」
「だいぶ盛られてるね、その評判」
肩をすくめる仕草が、思ったより柔らかい。
「少なくとも、今ここには、君を滅ぼしたい者はいないよ。むしろ逆だ」
「ぎゃく……?」
「君を守りたい奴ばかりだってこと。僕を含めてね」
さらっと、照れもなく言うものだから、胸の鼓動が一つ跳ねた。
(な、何この人……魔王、だよね……?)
世界中から恐れられている“魔王”が、そんな台詞を自然に言うなんて聞いてない。
もっとこう、冷酷で人を見下していて、「人間など虫けらだ」みたいなタイプだと思っていた。……いや、そう聞かされていた。
戸惑っていると、ゼルディアスは少しまじめな顔に戻った。
「体調はどう? 呼吸は苦しくない? 頭痛は?」
立ち上がって、ベッドのそばに腰を下ろしなおす。
距離が近い。
そして、ごく当たり前のように、わたしの手を取った。
「ひゃっ……」
つい変な声が出てしまう。
冷たい指先を想像していたのに、彼の手は驚くほど温かかった。
「ごめん。嫌だった?」
「い、いえ、その……ただ、びっくり、して……」
「それならよかった」
ほっとした表情を浮かべながら、彼はわたしの指先を軽く挟む。
脈を測っている……という感じではない。
温度を確かめるように、掌で包み込むような触れ方。
握られた部分から、じんわりと熱が広がる。
そう感じた瞬間、胸の奥の重さが少しだけ和らいだ。
(……あれ? さっきまで、もっと苦しかったのに)
森で倒れたときの、肺が圧迫されるような重さ。
瘴気に押しつぶされるような息苦しさが、今はほとんどない。
「君の体、今はもう瘴気の影響はほとんど残っていない。だけど、無茶はしたからね。しばらくは休まないと」
「無茶……」
どうして知っているのか、と聞きかけて、森での記憶が一気に蘇る。
足元にまとわりつく瘴気。
世界が暗くなっていく感覚。
そして、地面に倒れ込む寸前で、わたしを抱き上げた腕。
「……助けて、くださったんですよね」
「ああ」
彼はあっさりと頷いた。
「君があんな場所で倒れているのを見て、放っておけるほど性格は悪くないつもりだけど」
「わたしの知っている魔王と違いますね……?」
「こう見えても、自分では善人寄りだと思っているんだよ。世間の評判は別としてね」
さらりととんでもないことを言う。
冗談なのか本気なのか判断がつかない。
でも――
彼の手から伝わる温かさ。
声の柔らかさ。
そして、あの時の「やっと会えた」という言葉。
どれも、わたしが知っている“悪そのもの”のイメージとは遠かった。
「……どうして、わたしを」
口をついて出た問いに、ゼルディアスが目を細める。
「理由が、必要?」
「だって、わたし、人間で……。あなたは魔王で、世界を……その、脅かす存在で」
勇者がいつも言っていた言葉を、そのまま口にすると、ゼルディアスは露骨に顔をしかめた。
「……その“設定”を広めた奴には、今からでも文句を言いに行きたいね」
「せ、設定……?」
「後で話すよ。今は、君の方が先だ」
そう言って、彼はすっと立ち上がる。
「朝食、食べられそう?」
「あ、はい。たぶん……」
「じゃあ、軽いものを用意させる。少し待ってて」
そう言いつつ、部屋の扉へ向かおうとした彼は、途中で立ち止まり、振り返った。
「ベッドからは、できればあまり動かないで。君は、平気だって言いながら限界超えるタイプに見えるから」
「……っ」
図星を刺されて、言葉に詰まる。
わたしは、そんなに分かりやすいのだろうか?
「あぁそれと、ここでは大丈夫、とは言わなくていいよ」
彼は少しだけ柔らかい目をして、付け加えた。
「君が弱音を吐いたって、誰も責めたりしない」
その言葉が、胸にずしんと落ちる。
思わず視線をそらすと、彼はそれ以上何も言わずに、扉の外へ出て行った。
扉が閉じる音がして、部屋に静けさが戻る。
改めて周りを見回すと、この部屋がどれだけ“居心地の良さ”を詰め込んだ場所なのかがよく分かった。
ベッドのシーツはさらさらで、枕元には小さな花瓶が置かれている。
そこに生けられているのは、人間世界では見ない紫色の花。
香りの正体はこれだろう。甘すぎず、ほのかに鼻をくすぐるいい香りだ。
壁には、外の光を取り込むための大きな窓が設えられている。
カーテンは薄い布で、黒い城のイメージとは違って、淡い青。
窓の外から吹き込む風が、その布をやさしく揺らす。
(……魔王城、って聞いて想像してたのと全然違う)
もっと薄暗くて、じめじめしていて、鉄と血の匂いしかしない場所だと思っていた。
ここは、少なくともわたしが寝ていたこの部屋に関しては――安心できる場所のように感じる。
胸元に手を当てる。
森で最後に感じた、あの光。
ゼルディアスの腕の中で、応えるように揺れた温かさ。
あれはいったい、何だったんだろう。
考えかけたとき――扉がコンコン、とノックされた。
「クララ様、失礼いたします」
コツ、と規則正しい足音と共に現れたのは、長い耳を持つ女性だった。
人間より少し背が高く、銀色の髪をきっちりと結い上げている。
制服らしき黒のドレスの上に白いエプロンをつけていて、まさに侍女といった風情だ。
「私、侍女のリーゼと申します。以後、聖女であるクララ様のお世話を任されております」
深々と頭を下げられて、慌てて上体を起こそうとする。
「あ、あの、そんな、頭を上げてください! わたし、聖女とかはもう――」
「いえ」
リーゼは穏やかに首を振った。
「聖女様は、私たちにとって“光”でございますから」
「……ひかり?」
「はい。瘴気が濃くなるたび、遠くからでも、クララ様の光を感じていました。こうしてお側に仕えられること、光栄に存じます」
さらっと、とんでもないことを言われる。
(光? 感じていた?)
そんな話、人間の教会からは一度も聞かされたことがない。
わたしの浄化は痕跡が残らないから、と言われ続けてきたのに。
「さあ、お食事を。陛下が自ら選ばれたメニューでございます」
「え、陛下って……魔王様が?」
「はい。クララ様の体調を気にされて、“消化のいいものを”と何度も確認されておりました」
(過保護……)
思わず心の中で呟く。
けれど、用意されたトレイの上の料理を見た瞬間、そのツッコミもどこかへ飛んでいった。
白い陶器の皿に、柔らかく煮込まれた野菜と、ほろほろに崩れる白身魚。
それから、香りのいいスープが小さな椀に入っている。
脂っこいものは一切ないのに、見た目からしておいしそうだ。
「……すごい」
「お口に合うとよいのですが」
スプーンを手に取り、おそるおそる一口。
舌に触れた瞬間、思わず目を見開いた。
優しい。
味付けは薄いはずなのに、いろんな旨味が重なって、何度も噛みたくなる。
胃のあたりが、じんわりと温まっていく感覚が心地いい。
「おいしい……」
漏れた言葉に、リーゼが少しだけ嬉しそうに微笑む。
「それは何よりでございます。陛下も、きっとお喜びになります」
「魔王様が……?」
「はい。クララ様がお目覚めになるまで、ずっとそばを離れようとされなくて。先ほど侍従長に“少しくらい休まれては”と言われて、ようやく食堂へ向かわれたところです」
その光景がありありと浮かんで、胸がくすぐったくなる。
あの魔王が、わたしのそばを離れない。
侍従長に注意されるくらい、ずっと。
(……なんで、そこまで)
まだ何もしていない。
むしろ迷惑しかかけていないはずなのに。
スープを飲みながら、ふと視線を窓へ向ける。
薄いカーテン越しに差し込む光が、やけに懐かしく感じた。
(……この光景、どこかで)
胸の奥が微かにざわめく。
目を閉じれば、似たような風景が浮かびそうで、怖くて瞼を閉じられない。
「……クララ様?」
「あ、ごめんなさい。少し、ぼーっとしていました」
「ご無理なさらず。お食事の後、陛下がお会いになりたいと仰っていましたが……その前に少しお休みになりますか?」
「あの、魔王様には、会います。ちゃんとお礼も言いたいので」
はっきりそう告げると、リーゼは嬉しそうに頷いた。
「では、食器を下げましたら、お部屋にお通し致しますね」
リーゼが出ていったあと、ゼルディアスは待ちきれないと言わんばかりにすぐ現れた。
さっきと同じ椅子に腰掛けると、軽く首を傾げる。
「食べられた?」
「はい。すごくおいしかったです。ありがとうございます」
「それはよかった。料理長も喜ぶ」
自分で作ったわけでもないのに、どこか誇らしげだ。
その様子が、なんだか微笑ましい。
「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」
「僕に答えられることなら」
「どうして……そこまで、わたしに優しくしてくださるんですか」
聞くつもりはなかった。
けれど、喉元までせり上がってきた問いを、どうしても飲み込めなかった。
「森で助けてくださったことも、ベッドもご飯も、侍女さんまで……。わたし、あなたにとっては敵の陣営の人間でしょ? 勇者のパーティだったし、聖女だって言われてて……」
「敵、ね」
ゼルディアスは、少しだけ寂しそうに笑った。
「僕にとって、“人間”という括りは、あまり意味がないよ」
「意味が、ない?」
「君が人間だろうが、聖女だろうが、勇者の元婚約者だろうが、正直どうでもいいんだ」
「どうでもいいって……」
「重要なのは、君が“君”であるってことだけだ」
迷いなく言い切られて、胸がきゅっと縮む。
そんなふうに見られたことなんて、一度もなかった。
聖女。
勇者の婚約者。
王国に仕える存在。
そういう「役割」でしか、誰もわたしを見てくれなかった。
ゼルディアスは、ふっと視線を落とした。
わたしの手元――ベッドの上で握りしめていたシーツから、ゆっくり目を上げて、そのまま正面から見つめてくる。
「君は知らないだろうけど、僕はずっと探していたんだ」
「……探して、いた?」
「ああ」
彼の声が、少し低くなる。
「世界中の瘴気が、少しずつ落ち着いた時期があった。何百年も続いた不安定さが、ほんの少しだけ和らいでいく、奇妙な時期だ」
それが――と、彼はわたしを指さすでもなく、ただ視線で示した。
「そう、君が生まれた。その瞬間だよ」
「そんなことが?」
「人間たちは理解していなかったみたいだけどね。こっちから見れば一目瞭然だったよ。世界中に、君の光が薄く広がっていた。それが何日も、何年も続いたんだ」
世界中。
そんな大層なことをしている実感はなかった。
ただ命じられるままに、各地を回り、瘴気を浄化していただけ。
「ある日、君の光が薄れてから、また瘴気は一気に濃くなり始めた。……君が無茶をし続けていたからだろうね」
ゼルディアスは、少しだけ怒ったような目をする。
「それでも僕は、君の在り処を掴みきれなかった。人間の王都の中というのは、さすがにノイズが多くてね」
「ノイズ……」
「王都には色んな感情と祈りが渦巻いているから。君の光が紛れちゃうんだ」
軽く肩をすくめて見せる。
「そんな中で、昨日――いや、あれは一昨日になるのかな。君の光が、一瞬、悲鳴みたいに揺れた」
それは、きっと婚約破棄と追放を言い渡された瞬間だ。
その場にいた人間は誰も気づかなかったのに、遠く離れた魔王が気づいたということになる。
「それを感じた時、僕は正直……心臓が止まるかと思ったよ」
「……そんな、大げさな」
「大げさじゃない」
即答されて、こちらがたじろぐ。
「やっと、君の気配の方向が分かった。やっと、辿り着けると思った。その次の瞬間には、君の光が森の中で消えかけていた」
ゼルディアスの指先が、かすかに震えた。
ベッドのシーツを握りしめるその手は、さっきまでの余裕を感じさせない。
「君を失いかけた瞬間を、僕は一度経験している」
「……え?」
「だから、二度目はごめんだ」
ぽつり、と落とされた言葉の意味が掴めない。
「一度……って」
「今はまだ、詳しくは言えない」
ゼルディアスは視線をそらし、悔しそうに唇を噛んだ。
「君の魂と、世界のバランスに関わる話になる。あと少しだけ、時間が必要だ」
わけが分からない。
でも、彼が本気で苦しんでいることだけは伝わってくる。
「今はただ――」
再びこちらを見る瞳が、ひどく真剣だ。
「君がここにいてくれることが、嬉しい。それだけは、信じてくれる?」
胸の奥で、何かが小さく震えた。
信じていいのか分からない。
でも、信じたいと思ってしまった自分自身がいて、困る。
「……わたし、ここにいても、いいんですか」
気づけば、そんな言葉が口から零れていた。
「勇者にも、王国にも必要ないって言われて。邪魔者だとも、危険だとも言われて。なのに、魔王様のところになんて来て……そしたら今度は、人間たちから“裏切り者”って言われるかもしれないのに」
「言わせておけばいい」
あまりにもあっさりと返されて、思わず顔を上げる。
「君は、誰かの持ち物じゃない。勇者のものでも、王国のものでも、魔王のものでも、本当に違う」
ゼルディアスは少しだけ笑い、続けた。
「……まあ、僕は、“僕のものになってくれればいい”とは思ってるけどね」
「っ!? な、なにをさらっと……」
「冗談半分、本気半分かな」
悪びれずに言うその顔が、少しだけ意地悪そうだ。
頬が熱くなる。
こんなこと、誰にも言われたことがない。
勇者ロベルですら、「俺の婚約者だ」という所有の宣言はしても、そこに“個人としてのクララ”は含まれていなかった気がする。
「……分かりません」
ようやくのことで、口に出せたのはそれだけだった。
「でも、少なくとも、わたしにここにいてほしいと言った言葉は、信じたいです」
……それが、今のわたしにとって一番大きな違いだったから。
ゼルディアスは、驚いたように目を瞬き、それから、ゆっくりと微笑んだ。
「君を役立たずだなんて、世界のどこを探しても誰も言えないよ。……言えたとしても、それはただの愚か者だ」
彼の言葉が、また胸の奥に落ちていく。
なんだか、今まで空っぽだった場所が、少しずつ埋まっていくみたいだった。
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