2話
わたしは王都を追い出された。
森へと向かう馬車の中で、がたがたと揺られながら、ぼんやりと外を眺めている。
広場から連れ出されるとき、誰かが何かを言ったような気がする。
サラが何か叫ぼうとして、ミーナに腕を掴まれていたような。
カイルが歯を食いしばって、拳を壁に叩きつけていたような。
全部、どうでもいい。
馬車の外、王都の石壁が遠ざかっていく。
代わりに見えてくるのは、黒くうねる森。
黒の森。
瘴気が濃すぎて、普通の人間は数分と持たないと言われる場所。
わたしでも、そこに長くいれば、どうなるか分からない。
それでも、最後の務めとやらを果たすために、ここに来ている。
「聖女、荷物だ」
無愛想な騎士が、小さな袋を放る。
水袋と乾パンが少しだけ入っている。
「それで足りるだろ。どうせ長居はしないんだし」
長居させるつもりがないくせに。
もう少しマシな冗談を言えばいいのに。
「ありがとう」
とりあえず受け取って、軽く頭を下げる。
騎士は気まずそうに視線をそらした。
馬車が止まる。
扉が乱暴に開かれ、強い風が吹き込んでくる。
鼻の奥を、重たい匂いが刺す。
土と湿り気、それから焦げたような、金属の錆のような瘴気の匂い。
わたしは馬車から降りる。
目の前に広がるのは、どこまでも続く黒い森。
木々の葉は、どれも濃い緑を通り越して、墨を塗ったみたいに暗い。
地面からは薄い黒い靄が立ち上り、足首に絡みついてくる。
「ここから先は、お前一人だ」
王国の騎士が、冷たく言う。
ロベル本人は来ていない。
勇者は忙しいから。
聖女の送迎なんかに、わざわざ来る必要はない。
「……分かったわ」
瘴気が増えてきて、頭が少しぼうっとする。
それでも、足を前に出す。
馬車の車輪がきしむ音が背後で遠ざかっていく。
振り向かない。
振り向いたら、戻りたくなってしまう。
――戻る場所なんて、もうないくせに。
森に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わる。
重い。
まるで、見えない水の中を歩いているみたい。
肺に入ってくる空気が濁っていて、吸い込むたびに喉が焼ける。
「っ……」
思わず胸元に手を当てる。
そこから、じわり、と温かいものが広がっていく。
浄化の光。
わたしの体の奥から、自然ににじみ出る光。
足元の黒い靄が少し薄くなる。
空気が、ほんの少しだけ軽くなる。
その変化が、誰にも見えないのが、相変わらず腹立たしい。
「……どうせ最後なんだし」
小さくつぶやいて、歩き出す。
一歩進むたびに、靄がまとわりつく。
淡い光がそれを溶かしていく。
また靄が寄ってくる。
その繰り返し。
体の奥が、じりじりと焼けるように熱い。
でも、耐えられないほどじゃない。
こんな感覚、もう慣れている。
森の奥へ、奥へ。
鳥の声も、虫の音もほとんどしない。
代わりに、低い唸り声みたいなものが、遠くから微かに響く。
……魔物。
彼らは、瘴気の濃い場所を好む。
ということは、わたしが浄化していけば、そのうち怒った魔物が寄ってくる。
囮としては、上出来。
自嘲気味に笑いながら、さらに進む。
……どれくらい歩いただろう。
時間の感覚が薄れていく。
空は木々の枝に遮られてほとんど見えない。
ただ、頭上から落ちてくるわずかな光が、瘴気の中で歪んで揺れている。
「はぁ……」
肩で息をした瞬間、膝が笑う。
足先の感覚が少し薄い。
少し、浄化しすぎたかもしれない。
でも、ここでやめたら、それこそ来た意味がない。
「最後くらい、ちゃんと役に立たないとね」
誰に聞かせるでもなく、そう口にする。
ロベル。
サラ。
カイル。
ミーナ。
そして、王都の人たち。
わたしがいなくなった世界で、少しでも息がしやすくなるなら、それでいい。
そんなふうに考える自分が、我ながら馬鹿に思えてきた。
「……役立たず、か」
ロベルの声が蘇る。
胸の内側が、少しだけひりつく。
「わたし、本当に役立たずだったのかな」
呟きながら、木の幹に手をつく。
樹皮がざらざらと冷たい。
人のいない森の中で、ようやく、強がりが剥がれていく。
王都では、泣けなかった。
人目があったからとか、そういう理由もあるけれど、それ以上に――負けを認めた気がして、嫌だった。
でも今は。
誰もいない。
見ているのは、病んだ木々と、濁った空気だけ。
「わたし、ちゃんとやってたつもりだったんだけどな」
世界中の瘴気を浄化してきた。
人が眠る村で、夜通し祈り続けた。
魔物の群れが押し寄せる前線で、震える兵士たちの背中に手をかざした。
その全部が、「勘違い」だったなんて。
「……笑える」
頬を伝うものが、涙なのか汗なのか分からない。
足元の靄が濃くなる。
視界の端が、じわじわと暗くなっていく。
呼吸が浅くなる。
頭が痛い。
でも、足は止めない。
止めたら、本当にただ無駄死にした無能な聖女になってしまう。
せめて、倒れるまで、瘴気くらいは削ってみせる。
「大丈夫、わたしは平気だから」
いつもの口癖が、勝手に口をつく。
全然平気じゃないけれど。
次の一歩を踏み出そうとして――足が、空を踏んだ。
「……あれ」
膝が、勝手に折れる。
体が前に傾く。
地面が近づいてくる。
黒い土と、絡みつく靄。
このまま顔から突っ込んだら、ちょっとみっともないな、なんてどうでもいいことを考える。
視界の端で、何かが光る。
胸の奥。
さっきまで鈍く熱かった場所が、突然、ふっと軽くなる。
そこから、柔らかな光が広がる感覚がある。
目を閉じてしまっても分かる。
眩しいわけじゃない。
懐かしい暖炉の火みたいな、じんわりとした温かさ。
ああ……わたしは、きっとこれで終わる。
その確信と同時に、不思議なくらいの安堵が胸に満ちる。
ようやく休める。
そんな、ずるい考えが頭をよぎったとき――
目の前の世界が、突然、破れた。
闇を裂くみたいに、空気が音もなく割れる。
黒い影が広がり、その中から、何かが飛び出してくる。
地面に叩きつけられるはずだった体が、ふわりと宙で止まる。
抱きしめられている。
硬い胸板。温かい腕。頬に触れる布の感触は、上質なマントのそれ。
鼻先をくすぐるのは、微かに冷たい夜気と、どこか甘い香り。
瘴気とはまったく違う、澄んだ気配。
「……間に合った」
低く、落ち着いた声が、耳元で震える。
知らない声。
なのに、妙に懐かしい音色。
重たかった世界の色が、ふっと薄くなる。
瞼を持ち上げると、視界いっぱいに、漆黒の髪と、深い紅の瞳が広がる。
彼は、わたしを抱き上げていた。
長い外套が闇と溶け合い、背中には大きな黒い翼の影が見える気がする。
顔立ちは整っていて、どこか人間離れした美しさを持っている。
その瞳が、ひどく切なそうに細められていた。
世界で最も恐れられている存在。
幾度となく討伐を目指していた――魔王。
「……あなたは」
言葉にならない声が漏れる。
彼は、そっとわたしを抱き直す。
崩れ落ちそうな体を、まるで壊れ物でも扱うみたいに、大切に大切に腕の中に収める。
その仕草に、恐怖よりも先に、戸惑いが込み上げる。
魔王って、もっとこう……
冷酷で、残忍で、人間を見れば笑って踏みつぶすような存在だと思っていた。
目の前の彼は、違う。
頬に触れる指先が、驚くほど優しい。
わたしの髪を避ける動きひとつにも、丁寧さが宿っている。
そして何より、その瞳。
燃えるような紅い色の奥で、何かが震えている。
悲しみなのか、歓喜なのか、言葉ではうまく形にできない感情。
彼は、唇をかすかに震わせながら、言葉を紡ぐ。
「……やっと会えた」
その声は、今にも泣き出しそうなくらい、必死で抑えられている。
「君とまた会える、この日を」
彼の喉が、ごくりと鳴る。
「ずっと待っていた」
世界の終わりみたいな一日。
勇者に捨てられ、婚約を破棄され、囮として死ぬために来た森の中。
そこで初めて、誰かにそんなふうに言われる。
――ずっと、待っていた。
胸の奥の光が、応えるように、ぽうっと揺れた気がした。
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