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10話

 その日の午前中は、魔王城の図書室で過ごすことになった。

 高い天井まで本棚が並んでいて、古い紙と革の匂いが充満している。

 窓から射し込む光の中を、細かい埃がふわふわ漂っていて、それがなんだか幻想的に見えたりする。

 木の机の上には、瘴気についての古い文献や、聖女に関する伝承集が積み上げられている。

 ゼルディアスが持ってこさせたらしい。


「本当に、全部読むんですか」


「全部は多いね。興味のあるところからでいい」


 ゼルディアスはソファに腰を下ろし、私の向かいに座る。

 彼は城の防衛やら結界やらの指示を出しつつ、合間合間でここに戻ってくるらしい。

 魔王ってもっと「玉座でふんぞり返って命令するだけ」みたいなイメージだったけど、実際のゼルディアスは、よく動き回るし、よく気を回す。


(……なんか、あの勇者よりよっぽど働いてる気がする)


 頭の隅でそう思って、慌ててその考えを追い出す。

 ロベルのことを考えると、胸の中の違和感と罪悪感と怒りがごちゃ混ぜになって、気持ちがぐちゃぐちゃになるからだ。

 私は、とりあえず一番上の本を手に取る。

 黄ばんだページに、達筆すぎて読みにくい文字が並んでいる。

 内容は――昔、瘴気が初めて現れた頃の話らしい。


「“世界の傷は、目に見えぬ毒となって溢れ出し、人の心を曇らせる”……」


 声に出して読むと、なんとなく重みが出る。


「それを祓う者が“聖女”であり、抑える者が“魔王”である――って、さらっと書いてますけど」


「そうだね」


 ゼルディアスの返事はあっさりしている。


「昔の人は、もっと素直に世界を見ていたから」


「素直に、って」


「世界がこういう仕組みだって、分かっていた。聖女と魔王は対で、片方だけを持ち上げると、バランスがおかしくなるってことも」


 私は本の文字を追いながら、ちらりと彼を見る。


「でも今は、魔王は“絶対悪”で、聖女は“勇者のおまけ”みたいな扱いですよね」


「それで誰が得をするか、考えてみるといい」


 ゼルディアスはそう言って、肩をすくめる。

 教会か、王か、そのあたりを思い浮かべて、私は小さくため息をついた。

 ページをめくろうとしたとき、胸の奥がまたじわりと熱くなる。


「……っ」


 思わず胸元を押さえると、ゼルディアスの視線がすぐにそこに向かう。

 さっきよりはマシだけど、じんわりうずく感覚は続いている。


「さっきから、それは」


「なんか……この話読んでると、変に反応する感じがします。気のせいかもしれないですけど」


「気のせいじゃないと思う」


 ゼルディアスは真面目な顔で言う。


「きっと君の中で、昔の記憶が揺れ始めてる」


「昔の記憶なんて、そんなたいそうなもの、私に――」


 あるのかな、と笑い飛ばそうとして、言葉が喉で止まる。

 昨日から、変な夢をよく見る。

 誰かに抱きしめられて、誰かが泣いていて、自分がゆっくり崩れていく夢。

 顔も、声も、ぼやけているのに、胸の痛みだけは妙にリアルだ。


「クララ?」


「あ……すみません。ちょっと、夢のこと思い出してました」


「夢?」


「えっと……」


 説明しようか迷っていると、扉のほうで元気な声がした。


「聖女さま、遊びにきた!」


 インプの子どもが、元気よく飛び込んでくる。

 翼の生えた小さな背中、くりくりした真っ黒な瞳。両手いっぱいにクッキーの乗った皿を抱えている。


「怪我の調子はどう?」


 私が尋ねると、子どもは嬉しそうに尻尾をぶんぶん振る。


「ぜんぜん痛くない!聖女さまの光、すごい!」


「よかった」


 自然と笑顔になる。

 彼の膝に擦り傷ができていたのを、ほんの少し癒しただけだ。

 私からすると、日常の一コマみたいな出来事。でも、彼にとっては大事件だったらしい。


「これ、おれのお母さんが焼いたやつ。聖女さまに食べてほしいって」


「え、そんな。ありがとう」


 皿を受け取ると、クッキーから甘い香りがふわっと立ち上る。

 シナモンみたいな香りと、バターの香り。焼きたてでまだ少し温かい。

 胸の奥の痛みと、こういう温かさが、変な具合に混ざり合う。


「聖女さま、さっき泣いてた?」


「え」


 不意打ちの一言に、私は瞬きをする。


「泣いてないよ?」


「でも、顔、くしゃってしてた。おれのちいさい弟が痛いときと同じ顔」


 子どもはじっと私を見上げてくる。

 ゼルディアスの視線も、横からそっと重なる。


「……ちょっと、胸が痛かっただけだよ。今は平気」


 そう言って笑顔を向ける。


「いたいの、やだ」


 子どもは私の指をぎゅっと握る。


「聖女さま、ここにいると、みんな楽になる。だから、痛くないといいなって思う」


 そんなことを、当たり前みたいに言う。

 胸の奥が、また違う意味でぎゅっとなる。


「……ありがとう」


 私は子どもの頭を撫でる。


「ここにいると、私も少し楽になるよ」


 それは、嘘じゃない。

 王都にいたころより、ずっと呼吸しやすい。誰かに面と向かって感謝されることのほうが多いし、「お前のせいで」と責める声もない。

 それなのに――私のどこかは、まだ「ここにいていいのかな」って問い続けている。


(王国の人たちが苦しんでいるのに、私は魔王城でクッキー食べてる)


 その事実に、罪悪感がついて回る。

 クッキーはおいしい。温かい。嬉しい。でも、それを素直に受け取るのが、まだ下手だ。

 ゼルディアスが、そんな私の心を見透かしたみたいに、横から口を挟む。


「クララはここにいていい」


「勝手に心を読まないでください」


「表情が、全部しゃべってる」


「うっ」


 ぐうの音も出ない。

 インプの子どもが「ケンカ?」と首をかしげるので、私は慌てて手を振った。


「違う違う。……ねぇ、クッキー、一緒に食べよ」


「たべる!」


 子どもは尻尾をさらにぶんぶん振って、椅子によじ登ろうとする。

 ゼルディアスが苦笑しながら手を貸す。その光景が、なんだか家族みたいで、自然と頬がゆるむ。


***


 昼過ぎ、私は少し横になることにした。

 図書室で本を読んでいるときより、胸の痛みが増してきたからだ。

 ゼルディアスに素直に申し出たら、ものすごく真剣な顔をされて、そのまま部屋まで送られた。


「本当に、少し休むだけですから」


「少しでも休んでほしい」


「はいはい」


 ベッドに寝転んで、天蓋を見上げる。

 白い布越しに、柔らかい光が揺れている。

 外では、かすかに風の音。鳥の声。遠くの兵士たちの掛け声。


「ここにいるね」


 ゼルディアスが、ベッドの端に腰を下ろす。


「眠るまで、手を握っててもいい?」


「ゼルディアス様のほうが疲れてると思うんですけど」


「僕はいい。君がちゃんと眠れるほうが大事」


 そう言って、何のためらいもなく私の手を取る。

 ……ここまでされると、逆にどうツッコミを入れればいいのか分からない。


「分かりました。じゃあ、寝るまで」


「うん」


 指と指が絡む。

 大きな手の中に、自分の手がすっぽり収まる感覚。

 胸の痛みが、波紋みたいに広がって、少しずつ薄れていく。


(やっぱり、変だ)


 意識が沈んでいく中で、私はぼんやりとそう思う。

 ゼルディアスに触れられると、胸の痛みが和らぐ。

 まるで、彼のほうに熱が流れていって、私の中の負担が軽くなっているみたいに。

 それはきっと、魔王としての力とか、瘴気を抑える能力とか、そういうものの一部なんだろう。

 でも――それだけじゃないような気もする。

 まぶたが重くなって、視界が暗くなる。

 ゼルディアスの体温と、指の感触と、心臓の音だけが、やけに近くにある。


(また、変な夢見たりして)


 そんなことを考えた瞬間、意識がふっと途切れた。


***


 白い光の中に、私は立っている。

 どこか分からない場所。

 空も地面も、全部がぼんやりと白くて、輪郭が曖昧だ。


「……ここ、どこ」


 自分の声が、やけに響く。

 足元を見ると、裸足の足が、淡い光の上に立っている。

 靴も、ローブも、いつもの服もない。白い布をまとっているような気がするけど、視界がぼやけすぎて、よく分からない。

 胸のあたりが、じんじんと熱い。

 現実で感じていた痛みによく似ている。むしろ、それが強くなったような。


「クララ」


 呼ばれた。

 振り向くと、そこに誰かがいる。

 背が高い。黒い衣。長い髪。

 輪郭は見えるのに、顔だけがどうしても焦点を結ばない。

 目があるはずの場所も、口があるはずの場所も、柔らかくぼやけている。


「君は、いつもそうだ」


 声だけが、はっきり届く。

 低くて、落ち着いていて、どこか懐かしい響き。


「世界よりも、誰かひとりを優先する」


 胸の奥がきゅっと締め付けられる。


「だから、こうなるんだ」


 男の人の手が、そっと私の頬に触れる。

 冷たくない。むしろ熱い。けれど、その熱は、胸の奥の焼けるような熱とは違う、涙がにじむような温度だ。


「それでも、君を責められない」


 ぼやけた顔が、私の額に額を寄せる。

 額と額が触れ合ったところから、温かいものがじわりと広がる。


「君が、そういうふうに誰かを選ぶところが、好きだから」


 好き、って言葉が、胸の中で弾ける。


「だって、あなたが――」


 言い返そうとして、喉がつまる。

 代わりに、胸の中がじりじりと焼けるように痛む。

 足元から、白い光が崩れていく。

 ゆっくりと、私の体がほどけていくような、不快な感覚。


「いやだ……」


 誰かが泣いている。

 私じゃない。目の前の誰かだ。

 ぼやけた頬を、透明な雫が伝って落ちていくのが見える。


「死なないでくれ」


 声が震える。


「君がいない世界なんて、いらない」


 その言葉に、胸の奥がぐしゃぐしゃになる。


(なんで、そんな顔をしているの)


 言いたいのに、うまく声が出ない。

 口を動かしても、空気が震えない。代わりに、胸の光だけが激しく脈打つ。


「もっと、生きて」


 ぼやけた人影が、私を抱きしめる。

 ぎゅっと。さっきまでゼルディアスがしてくれていた抱きしめ方と、どこか似た強さで。


「君と、もっと生きたかった」


 耳元で、そう囁かれた瞬間――

 視界が、白い光の中で弾け飛んだ。


***


「クララ!」


 低い声が、耳に飛び込んでくる。

 私は、はっと目を開けた。

 視界の上に、見慣れた天蓋。白い布。淡い影。

 呼吸が荒い。喉が焼けるように乾いている。

 胸の奥が、さっきの夢の続きみたいに熱くて痛い。


「だいじょ……ぶ、です」


 自分で言って、自分で説得力のなさに頭を抱えそうになる。

 ゼルディアスの顔が、視界に飛び込んでくる。

 いつもよりずっと近い。

 紅色の瞳が、大きく見開かれていて、その中に私の顔が映っている。


「すごくうなされていた」


 彼の声は、いつもの落ち着きを欠いている。

 握られている手には、微かに震えがある。


「何を、見た?」


「夢、です……たぶん」


 私は荒い呼吸を整えながら言う。


「よく分からない場所で、誰かがいて。顔はぼやけてるんですけど、誰かが、私を抱きしめてて」


 言葉をつなげていくうちに、涙が勝手ににじんでくる。


「すごく、泣いてて。“死なないで”って言ってて……でも、私は、どんどん崩れていく感じで」


 喉が勝手に震える。

 夢の中で感じた胸の痛みと、抱きしめられたときの温度とが、現実の感覚とごちゃ混ぜになっている。


「苦しかったかい?」


「……はい」


 絞り出すように答えると、ゼルディアスの眉間の皺が深くなる。


「でも、同時に、すごく……懐かしくて、安心してました。変ですよね。死にそうなのに安心するなんて」


「変じゃない」


 ゼルディアスは、私の手をさらに強く握る。


「その夢で、君はひとりだった?」


「いえ……最後まで、誰かが抱きしめてくれてました」


「その誰かの顔は、見えなかった?」


「はい。すごく近くにいるのに、どうしてもぼやけてて」


 私はゆっくり息を吐く。


「声は、ゼルディアス様に似てました」


 そう言った瞬間、彼の体がびくりと震えたのが伝わる。


「……そう」


 短くそう言って、彼は視線を少し伏せる。

 睫毛が、影を落とす。横顔のラインが、苦しそうに歪んでいるように見える。


(また、何か隠してる)


 そう思った瞬間、胸の奥の熱が、別の種類の痛みを増した。


「ごめんなさい。変なこと言って。夢の話ですから、気にしないでください」


「気にする」


 彼はきっぱりと言う。


「君の見る夢は、ただの夢じゃないことが多いから」


「そうなんですか?」


「君の魂は、世界と深く繋がっている。瘴気の流れも、人の祈りも、過去の残響も、全部少しずつ君のところに集まってくる」


 難しいことをさらっと言う。


「だから、君が見る夢の断片には、意味があることが多い」


「……なんか、責任が重くなってきました」


「全部背負わなくていい」


 ゼルディアスは、私の額に手を伸ばす。

 指先が、そっと髪をかき上げて、額に触れる。


「君が感じることができる範囲でいい。無理に背負わなくていい」


「でも、思い出したほうがいいこともあるんですよね?」


 私は彼を見つめる。


「私が、何をしてきたのか。本当は何を望んでいたのか。……そういうの、ちょっと知りたいです」


 王国での私は、いつも「求められる役割」をこなしていた。

 聖女として、勇者の婚約者として、王国の都合のいい“象徴”として。

 本当に自分が何をしたかったのかなんて、考える余裕もあまりなかった。

 だから、夢の中の「もっと生きたかった」という言葉が、妙に胸に刺さる。


「今の私と、夢の中の私が、同じかどうかも分かりませんけど」


「関係ないさ」


 ゼルディアスは即答する。


「君は君だ。どんな名前で呼ばれていたとしても」


 さらっと、また心臓に悪いことを言う。


「……ゼルディアス様、たまにずるいです」


「どの辺りが?」


「そういうこと、そんな顔で言われたら、反論できないじゃないですか」


 私が睨むと、彼は少しだけ目を細める。

 笑っているのかもしれない。


「反論してもいいよ?」


「しません」


 即答すると、彼はわずかに肩の力を抜いたように見える。

 そのとき、扉のほうから控えめなノックがした。


「失礼します。お話中、申し訳ありません」


 侍女の落ち着いた声。

 ゼルディアスが「入って」と答えると、彼女はそっと扉を開ける。


「聖女様のお加減はいかがでしょうか」


「少し夢見が悪かっただけです。もう落ち着きました」


「それは何よりです」


 侍女は一礼してから、どこか言いにくそうに言葉を継いだ。


「廊下の警備の者たちが、少々騒がしくしておりまして……聖女様の耳におかしな形で入る前に、お伝えしたほうが良いかと」


「騒がしい?」


 私が首をかしげると、ゼルディアスの表情が固くなる。

 侍女はちらりと彼を見て、それから慎重に言った。


「王国軍が、国境近くに兵を集めているとの報告がございました。“聖女奪還”の旗を掲げているとか」


 空気が、ぴたりと止まる。

 胸の奥の熱が、またじくりと強くなる。


「……やっぱり」


 私の口から、思わず声が漏れた。

 ゼルディアスは侍女に向き直る。


「報告は受け取った。詳しい話はあとで参謀と確認する。……クララの前では、あまり騒がないように伝えて」


「はっ、承知しました」


 侍女は深く頭を下げて、部屋を出ていく。

 扉が閉まったあと、部屋の中に静寂が戻る。

 でも、私の胸の中は、騒がしいままだ。


「やっぱりって、どういう意味?」


 ゼルディアスが、静かに尋ねる。


「なんとなく……そんな気はしてました。王国が黙ってるわけないし。私のこと、“魔王に奪われた聖女”って扱いたいでしょうし」


 口調が、少しだけ自嘲気味になる。

 私も自分でそれに気づいて、内心で苦笑する。


「王城の演説とか、想像つきます。“堕ちた聖女を取り戻すために、勇者は立ち上がった”とかなんとか。物語としては、分かりやすいですし」


「君は、そういうふうに話を組み立てるのがうまいな」


「褒めてるんですか、それ」


「半分くらいは」


 ゼルディアスの口元が、わずかにゆるむ。

 でも、その目は笑っていない。


「さっきも言ったけど、君は裏切っていない。裏切ったのは、君を切り捨てた側だ」


「でも、王国の人たちは、そう思ってくれないですよね」


 私は天井を見上げる。


「私が魔王城でこうして守られている間に、誰かが瘴気で倒れてて、勇者が“魔王のせいだ”って叫んでて。……それ、どう考えても、私、悪役に近いですよ」


「悪役は僕でいい」


 即答だ。


「君は、どの物語でも、光の側にいる」


「そんなこと、誰が決めたんですか」


「僕が決めた」


「勝手に決めないでください」


 反射的に言い返してから、私は思わず口元を押さえる。

 ゼルディアスの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


「でも、実際そうだから」


「……ずるい」


 私が顔を背けると、彼の手がそっと私の頬に添えられる。

 指先が、涙の跡をなぞるように動く。


「怖い?」


 静かな問い。


「王国が攻めてくることも。勇者とまた顔を合わせるかもしれないことも」


 胸がぎゅっとなる。


「……正直に言うと、怖いです」


 私は素直に答える。


「目の前で“役立たず”って言われて、捨てられた相手ですから。できれば一生会いたくないです」


「うん」


「でも、私のせいで戦が起きてるなら、それから目を背けるのも、嫌です」


 自分でも面倒くさい性格だと思う。

 逃げたいのに、逃げきれない。守られたいのに、守られてるだけなのも嫌。


「私、わがままですね」


「それくらいがちょうどいい」


 ゼルディアスは、迷いなく言う。


「君が何も言わなくなったほうが、僕は怖い」


 その一言が、胸の奥にすとんと落ちる。


「……じゃあ、ひとつ、わがまま言ってもいいですか」


「どうぞ」


「全部とは言わないですけど、戦のこと、王国のこと、私に関係ある部分だけは、隠さないで教えてほしいです」


 言いながら、喉が少し震える。

 怖い。知るのは怖い。でも、知らないまま巻き込まれるのは、もっと怖い。

 ゼルディアスは、長く息を吐いた。


「約束する」


 紅色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。

「全部はまだ無理でも、君に関わることは、できる限り話す」


「“できる限り”」


「そこはゆずれない」


 彼は少しだけ目を伏せる。


「君の魂が、まだ耐えられないこともある」


 その言葉の意味はよく分からない。

 でも、彼なりの本気の線引きなんだろうな、ってことだけは伝わる。


「……分かりました。じゃあ、“できる限り”で」


 私はうなずく。


「その代わり、胸が痛いときは、ちゃんと呼びます」


「約束」


 彼は私の指先を軽く握り、微笑む。


「それにしても」


 私は、さっき見た夢を思い出しながら言う。


「ゼルディアス様の声、夢の中の人に似てたって言いましたけど、あれ、たぶん半分くらいは、現実のゼルディアス様が混ざってます」


「混ざってる?」


「最近、よく言われてましたから。“生きて”“無茶をするな”“君がいない世界はいらない”的なこと」


 自分で言ってて、顔が熱くなる。

 言葉を引用すると、破壊力が増すの、なんとかならないかな。


「……そんなに言ってたかな」


「言ってます」


 私は断言する。


「だから、夢の中の人の声が、ゼルディアス様に似てるっていうか、ゼルディアス様が夢の中の人に似てるっていうか。ややこしいですけど」


「ややこしいね」


 ゼルディアスは、少し苦笑する。


「でも、君が覚えてるなら、それでいい」


「それでいいって」


「君が“生きてほしい”と言われた記憶を持っているなら」


 彼は真剣な目で言う。


「それは、とても大事なことだと思うから」


 その言葉に、何かが胸の奥でカチリと音を立てた気がする。

 さっきまで焼けるように熱かった胸の中心が、少しだけ違う温度になる。

 痛みというより、じんわり温かい火種みたいな。

 私はその感覚を確かめるみたいに、胸元に手を当てた。


「……あ」


 指先の下で、何かが微かに脈打つ。

 心臓の鼓動とは別の、小さな光の震え。

 今までの“痛み”とは違う、柔らかい振動。


「どうした?」


「何か、今……」


 うまく説明できない。

 言葉を探していると、ゼルディアスがそっと私の手の上に、自分の手を重ねた。

 その瞬間――

 胸の奥の光が、ふわっと広がる。

 痛くない。

 むしろ、全身が温泉に浸かったみたいにじんわり温まっていく。

 ゼルディアスの手のひらから、静かな魔力が流れ込んできて、それが私の中の光と混ざり合う。


「……あったかい」


 思わず声が漏れる。

 さっきまで、焼けるような熱だった場所が、今は柔らかいぬくもりに満たされている。

 怖さや不安や罪悪感でギュッと縮んでいた心の真ん中に、少しだけ余裕ができる。


「君が楽になっているなら、それで十分」


「適当ですね」


「クララは僕の世界の中心なんだ」


 その言葉に、また胸の光が震える。


(私、きっと)


 私は自分の胸に当てた手に、力を込める。


(誰かに“生きてほしい”って言われるのに慣れてないんだ)


 王国では、いつも“役に立て”“もっと浄化しろ”“倒れるな”だった。

 生きていることそのものを望まれたことなんて、一度もなかった気がする。

 だから今、夢の中の「もっと生きたかった」という言葉と、ゼルディアスの「生きていてほしい」が重なって、胸の奥で暴れている。

 それが、さっきまで痛みとして出ていたのかもしれない。


「なんか、少し……分かった気がします」


「何が?」


「胸が痛い理由、かもしれない理由、というか。仮説、くらいですけど」


 私は笑う。


「多分、私、自分で自分の“生きたい”とか“こうしたい”を全然ちゃんと見てこなかったんだなって」


 誰かのため、世界のため、勇者のため。

 そうやって、自分の願いはいつも一番後回しにしてきた。


「それが、ゼルディアス様に“生きて”って何度も言われて、夢の中でも言われて、ややこしく絡まってるんだと思います」


「ややこしく……ね」


「ややこしく……です」


 でも、そのややこしさが、少しだけ愛しく思える。

 ゼルディアスが、私の手を握る指先に力を込める。


「絡まったものは、少しずつほどいていけばいい」


「わたし、そんなに器用じゃないですけど」


「僕が手伝うさ」


 当然のように言われる。


「君一人でほどくものじゃない」


「……そういうところ、本当にずるいです」


 私は笑いながら、目尻の涙を拭う。

 胸の奥の光は、まだじんじんしている。

 でも、それはもう、ただの痛みじゃない。

 罪悪感と、不安と、わずかな希望と――どこか懐かしい温かさが、全部混ざり合っている、不思議な光。

 その正体は、まだ分からない。

 王国軍がどう動くのかも、勇者が何を考えているのかも、教会がどんなことを企んでいるのかも、私はまだ知らないことだらけだ。

 それでも――ゼルディアスの手に触れられているこの瞬間だけは、胸の奥の光が、静かに安定している。

 私はそっと目を閉じて、その温度を確かめるように、深く息を吸い込んだ。


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