月の頭脳 ~Lunatic Scientist 【東方二次創作】
竹林の奥深くに、薬を調合する屋敷がある。立地がたいへん不便で、得体のしれない女が取り仕切っていることを除けば、薬はよく効いて値段も安い。名前は永遠亭といった。
月の初めになると、天狗の新聞に「永遠亭休診日」という短いお知らせが出る。月に何度か臨時で休むことがあり、月初めに新聞でお知らせするのが通例だった。
通院する者には役に立つ情報だったし、ちょっとした不調なら、家で置き薬を使えば事足りる。里の民にとってはささいな記事だったが──助手の兎にとっては話が別であった。
*
休診日のこと。鈴仙・優曇華院・イナバは、息抜きに里に出かけようと思い立った。
今日は診療助手の仕事がない。用もなく屋敷に留まっていたら、輝夜やてゐにちょっかいを出されるから、羽を伸ばしたいなら外に出るのが一番だ。廊下に向かって「出かけてきます」と告げ、返事を待たずに裏手に向かい、竹林に入るのがいつものやり方だった。
茶店に入ってお団子を食べたり、髪留めや石鹸を眺めて回ったりするのも悪くない。財布の銭を数えた後、畳に座って櫛で髪を整えていると、背後の障子が静かに開いた。
──嫌な予感がした。
振り返ると、永琳が戸口に立っている。
「うどんげ。ちょうど良かったわ」
「師匠」
まだ何も言われていないのに、逃げ遅れた、と思う。
「特に予定はないのでしょう。今日は診察がないから、勉強に充てましょう」
「勉強ですか?」
「ええ。支度ができたらいつもの部屋で待ってるわ」
「……わかりました」
「財布は要らないから置いてきて。手を消毒してから来てちょうだい」
障子を半開きにしたまま、師匠の気配が遠ざかる。畳に両手をついて天井を仰ぎ、鈴仙は溜め息をついた。
里で先約があるとでも言えばよかったのだ。テレパシーは玉兎同士でしか使えないし、師匠は約束を反故にさせるひとではない。里の人間と遊ぶ予定だと言えば「勉強」を別の機会に回してくれただろう。
そこまで考えたところで、師匠に小細工は通じない、と思い直す。次に里に薬を売りに行くときは、途中の茶店で時間をつぶしてやろうと心に決めた。
*
少し経って。
八意永琳は、膝丈ほどの患者用の術衣に着替え、手術台に腰掛けていた。傍らには車輪のついた台があり、糸鋸や鋏、よく磨かれたメスが収まっている。
「今日は下肢切断の術式を練習しましょう。私が患者役をするわ」
師匠の言葉に、鈴仙はしばらく言葉を失った。
「つまり、師匠の足を切れってことですか」
「ええ」
師匠いわく。
永遠亭は薬の処方を主にしているが、竹林で怪我人が出れば引き受けているし、妖獣の襲撃や不慮の事故で大怪我をする者もいる。数は少ないとはいえ、数年に一度は、治癒が見込めない手足を切断することもある。
里の民の間で「人間は手足を失えば再生しない」と知られている以上、手足を生やす薬をむやみに試すのは越権行為であり、外科的な手法に頼っている。
前に急患が出たときは、うどんげは薬売りに行っていて、手術するところを見せられなかった。今日は時間があるから実地で試してもらおう、と。
「急患は忘れた頃にやってくるものよ」
「……糸鋸とか使ったことないんですが」
「それなら練習しなさい」
永琳は術衣の裾をまくって片足を示した。ご丁寧にも、膝上にインクで印がついている。
*
台に仰向けになった師匠を前に、鈴仙は踵を返して、鍵つきの戸棚を漁り始めた。
「何を探しているの」
「何って、麻酔ですけど。エーテル麻酔」
永琳に何度か吸わされたことがあった。目が覚めたら喉が痛くて咳が出るのが難点である。吸入器を取り出しかけたところで、永琳に止められた。
「棚の麻酔はどれも効かないわ。掛けたつもりで進めて」
「掛けたつもりって……」
「動かないから安心しなさい」
師匠は不老不死で、病を知らず、毒も薬も効かないのだった。知識をもとに薬を無効化する──から、薬棚にあるものは何一つ効かないらしい。
うどんげは吸入器を片付けて、手術台の傍らに立った。手袋を着けた指で、膝上の印をなぞる。かさぶたすらない色白の肌、膝の皿を覆う肉の感触がいちいち伝わってくる。手を離したうどんげは、訴えるように声を上げた。
「やっぱり無理です。師匠の足なんか、切れるわけないじゃないですか!」
「あら」
何もおかしなことは言っていないはずなのに、師匠は微笑して言った。
「それなら妹紅を呼んでこようかしら。あの子も蓬莱人だから問題ないわ」
「問題あります。……分かりました。今から切るんで指示をください」
半ば自棄になって、銀色のメスを掴んだ。
*
皮膚にメスを入れると、永琳は細かな指示を出し始めた。
「もう少し外側。そう──そこ。次は鋏を使うの」
背中に冷たいものが流れるのを感じた。
手術台に仰向けになっていて、天井しか見えていないはずなのに、見透かしたように指示を出してくる。刃を入れても身じろぎせず、足は静かに台に乗ったまま。どんな術を使えばそうなるのか想像がつかない。
顔をなるべく見ないようにして、鋏の先だけに意識を向けた。頭の奥が痺れたようで、師匠の声だけが聞こえていた。
「……後で縫合するから、もう少し深く」
鋏を滑らせてから盆に置いた。糸鋸に持ち替えて、師匠の顔のほうを見ると、額に汗が滲んでいる。目は薄く開いていて、どこか分からないところを眺めていた。体の内側を視ているのかもしれない。
痛くないのか、と問うのは止めた。答えを聞けば、もっと怖くなるだけだ。
不意に喉が詰まって、叫び出したい衝動に駆られた。絶叫して道具をひっくり返し、この場から逃げればいい──と思いついたとき。
師匠が瞬きをして、こちらに視線を向ける。片手の指をひらりと動かして「落ち着いて」と云った。鈴仙は頷いて、何度か深呼吸をして、糸鋸を押し当てて引いた。
──今は手術の練習をしているんだ。手術中に逃げ出すようでは、弟子は務まらない。
糸鋸を引くたび、永琳の体がかすかに揺れ、反対の足先が震えた。切っている方の足は、麻酔もないのに弛緩したままだ。
普通なら、痛みに身をよじるはずなのに。ただ天井を見たまま、呼吸だけを速めていた。
*
縫合を終えて、器具を片付けたところで、師匠が上体を起こした。残った足を床に下ろし、手術台の縁に腰掛ける。鈴仙は近寄って背中を支えた。
「お疲れ様。初めてにしては上出来ね」
何か言おうとしたが、喉が渇いて言葉が出てこない。お礼と文句のどっちを言えばいいかも分からず、ただ頷いて返した。
「車椅子を持ってきて頂戴。自分で動ける試作品のほう」
「安静にしたほうがいいんじゃ……」
言いかけて、口を閉じた。そんなこと、この人に言うまでもない。
廊下に停めてあった車椅子をそばに持っていくと、永琳は腰を浮かせてそっちに移り、車輪に手をかけて漕ぎ始めた。
「執刀は体力を使うから。台所でお結びを食べてきなさい」
それだけ言って、体を前に傾けて車椅子を漕ぎ、廊下を出て行ってしまった。
残された鈴仙は、しばらく壁に寄りかかって目をつぶった。廊下の向こうから、車輪のこすれる音と、師匠の独り言が聞こえてくる。
「……外は起伏が多いのが問題ね。寸法と、腰への負担は……」
声が遠ざかったところで、鈴仙はおぼつかない足取りで台所に向かった。
*
永琳は廊下を進みながら、車輪の感触を確かめていた。庭に出ようとして、段差の前で止まる。
かつて担当した何人かの患者を思い出す。足を切断して命は助かっても、ほとんどは家から出なくなり、なかには自ら命を絶った者もいた。
外に出れば土の道ばかりで、細かな起伏とぬかるみが多い。出かけるには荷車に乗って押してもらうしかなく、段差を越えるのは一苦労だ。
自走できる車椅子か、下肢の装具があれば、一人でも外に出られるだろう。車輪にこだわらず、起伏やぬかるみに強い構造を探しても良さそうだ。
件数は少ないとはいえ、いつ誰が怪我をするか分からない。誰にとっても無駄にはならないはずだ、と永琳は思う。
今日の手術は上々だった。鈴仙にも経験を積ませられたし、車椅子の試験の後は、装具をつけて歩いたときの負荷や改良点を確かめるつもりだ。
まだ昼下がり。休診日だし、十分に観察ができるだろう。足を治したあとで記録をまとめ、次の課題を洗い出せばいい。実りの多い一日になりそうだと、永琳は車椅子を切り返した。