第1話:悪役令嬢の錬金実験場
「ここは、破滅へ向かう乙女の物語──ではなく、匂いと色で真実をひもとく令嬢の実験場だった。」
大理石の床に反射する朝の光を浴びながら、カロリナ・ユグレナは小さな硝子ビーカーに目を落とした。そこには、昨夜、庭で拾った泥が入っている。匂いを嗅ぎ、色を見て、そして一つずつ成分を分解し、再構成する──錬金術の初歩だ。いや、初歩とはいえ、普通の令嬢には絶対できない芸当である。
「ふむ……この泥には、わずかに鉄分と香草の痕跡がある。ん?これは……庭師が使った特製の肥料の匂いだわ」
カロリナは小指を立て、淡く光る魔力の粒子をビーカーに流し込む。泥の匂いが一瞬にして薄れ、かわりに甘い香草の香りだけが残る。小さな成功に、彼女は思わずにんまりした。
「これであの『消えた指輪事件』も、もう一度現場を再現できるわね」
一年前に宮廷内で起きた、誰も原因を突き止められなかった失踪事件。魔法騎士団ですら迷宮入りにした謎だ。しかし、カロリナの錬金術なら、現場の微妙な匂い・体液・物質の痕跡を再現し、失われた証拠を“取り出す”ことができる。
そのとき、扉が静かに開き、王宮顧問の青年が入ってきた。長身で冷静沈着、そして見事に整った顔立ちのレオンだ。
「おはようございます、カロリナ嬢。早朝から実験ですか」
「おはようございます、レオン様。今日も宮廷は平和です……とは言い難いので、事件の予習をしているのです」
カロリナは、ビーカーの中で微かに光る液体を見せながら説明した。
「昨夜、庭でこの泥を拾いました。微量の香草、鉄分、そして……土中微生物の痕跡。この組み合わせ、どこかで見覚えがあるはずです」
レオンは眉を上げたが、口元は少しだけ緩んだ。
「……君、本当に令嬢の範囲を超えているな」
「令嬢ですもの、趣味の範囲で済ませますわ」カロリナは茶目っ気たっぷりに答え、魔力を緩めると、泥は元通りになった。
今日のカロリナの予定は、宮廷で発生した小さな事件の現場確認だ。ある令嬢が“消えた香水瓶”の件で騒いでいる。大した事件ではない。だが、彼女にとっては絶好の錬金術トレーニングになる。
「まずは現場を確認して……」
宮廷の奥深く、絨毯の香りと古い木材の匂いが混ざる廊下を進む。被害者の部屋に入ると、カロリナは鼻をひくつかせ、目を細めた。
「ふむ……香水瓶の残留成分はここに……あ、やはり誰かが手を加えた形跡がありますね」
カロリナは小さな錬金器具を取り出すと、微量の残留香料をビーカーに移す。液体を光にかざすと、ほのかな金色の光が揺れた。匂いはそのまま、誰が触れたかまでわかる。手掛かりの再現だ。
「なるほど……これは、ルナ嬢の手の香り……違います、カイエル卿の手の香りですわね。巧妙に混ざっているけれど、錬金で分離できました」
カロリナの声は淡々としているが、心の中は小さな興奮で満ちている。人々が“不可解”と言う事象も、彼女の前ではパズルのピースに過ぎない。
「さすがです……」レオンの声が低く響く。
「ふふ、でもこれくらいは朝食前のウォーミングアップですわ」
事件現場を後にし、カロリナは再び自室の錬金机に戻った。ここが、彼女の本当の戦場である。匂い、色、微量物質――すべてが手に取れる証拠として再現され、事件の全体像が少しずつ形作られていく。
「今日も、破滅フラグ回避のための作業開始ですわ……!」
小さなビーカーに光を注ぎ、匂いを確かめ、魔力で成分を再構成する──その瞬間、カロリナは自分が悪役令嬢であることを忘れ、純粋に錬金術に没頭していた。事件解決も恋愛も、すべてこの小さな光と香りの中に宿るのだ。
その目に、確かな決意が宿っている──宮廷の闇も、破滅ルートも、すべてこの手で紐解いてみせる、と。