止まないノイズ
彼女が二週間前に行方不明になった。彼女の家族からの知らせを、電話越しに呆然と聞いていた。
その頃からだろうか。ごく小さな耳鳴りが始まり、今では生活に支障が出るようになっていた。
これはただの耳鳴りなのだろうか。今日こそは病院に行こう。そう心に決め、家を出た。
耳鼻科に到着した俺は、問診票に記入を済ませて椅子に座った。待合室で流れるテレビの音が、耳鳴りに打ち消される。
順番が来て、診断された結果は――原因不明だった。
これは彼女からの『助けて』という信号なのではないだろうか。彼女はどこで、何をしているのだろう。仕事も手がつかず、休職届を提出してしまった。貯金があるから金銭的な面で生活に困ることはないが、心身の不調が致命的である。
「どこにいるんだよ……」
呟きながら、車を走らせる。家にいるより、彼女を探していた方が気は楽だ。その車中で、カーナビからニュースが流れる。
「今日、身元不明の遺体が発見されました。場所はK市、N倉庫で――」
発見現場は自宅から割と近い。まさか、彼女では。悪い予感が走り、内容もまともに聞かずに現場へと向けてハンドルを切っていた。耳鳴りが、エンジン音さえ掻き消さんとする。
適当な場所へ車を停め、倉庫へと急ぐ。その途中で誰かの気配を感じ、振り返る。しかし、口を塞がれ意識を失った。
次に目を開けた時には、コンクリートの四角い空間で、手足を縛られて床に転がされていた。声を出そうにも、テープが貼られていて喋れない。
「やっとお目覚めか?」
三十代くらいの男が一人、パイプ椅子に座って俺を見下ろしている。
「君は被検体だ。大事な実験のね」
こいつは何を言っているのだろう。突拍子もない話に、眉をひそめる。
「彼女は失敗したが……きっと君は上手くいくだろう」
名前を出しはしないが、俺が一番大切にしている彼女のことでは――失敗したとは、彼女はどうなったのだろう。不安は一気に広がっていく。
言葉にならない声を発し、目をつりあげて男を威嚇してみる。しかし、その男は満足そうに笑うばかりだ。
「耳鳴りがするだろう?」
心臓がドクンと跳ね上がる。
「彼女が君に薬を与えていたからな。準備は整っている」
確かに、失踪するまで、彼女は手料理を振舞ってくれていた。それに薬が混ざっていたというのだろうか。まさか、彼女がそんなことをする筈がない。だが、耳鳴りは確かに現れていて――。考えてみれば、おかしな所はあった。料理の後味が、なんとなく苦かったのだ。それに、旨味ではない『甘い何か』が舌に残ったのだ。
急に吐き気を催す。食事を摂っていなかったのが幸いしてか、喉に込み上げるものは口に到達することなく治まっていった。
「苦しいのはもう嫌だろう。すぐに終わる」
男は懐から注射器を取り出し、針をセットする。床に置かれていた瓶の中身を吸わせると、躊躇いもなく俺に近づいてきた。
「やめろ!」と叫んでみるが、実際には言葉になってくれない。芋虫のようにのたうち回ってみるが、いとも容易く注射針は上腕部を刺した。身体に何かが入ってくる感覚がし、意識は遠ざかっていった。
再び目を開けると、耳鳴りは止んでいた。そこはまだコンクリートの部屋だ。あの男がサバイバルナイフを片手に、俺の目の前にしゃがみ込んでいる。
「さあ、その力を見せてくれ」
囁くとにたりと笑い、サバイバルナイフを振りかざす。殺される。恐怖は絶望へと変わっていき、ナイフが身体に吸い込まれた。
刺された筈なのに、痛くない。呆気にとられ、自分の胸を見てみる。服には血が滲んでいて、刺されているのは確かだった。
男はナイフを引き抜くと、高笑いを始める。
「やはり! 俺の推理は間違っていなかった! これで俺も不老不死になれる!」
気が狂ったように叫ぶと、男は自分の腕にも注射針を勢い良く刺した。目を見開いたまま男は倒れ、二度と起き上がることはなかった。
喉が乾き、空腹で雷のような音が鳴る。拘束された状態では為す術もなく、一週間が経ち、ようやく警察が駆けつけてくれた。食べ物も、飲み物すらないのにどうやって生き延びられたのか。質問されたが、答えようがなかった。
そして、警察の口から、彼女が命を落としたことを聞かされたのだ。病室で茫然自失となりながら、夜には涙に暮れた。
俺も彼女の元へ行けたらどれだけ良いだろう。十階の病室から飛び降りようとも考えたが、やはり怖い。足がすくみ、夜風に吹かれながら泣き声をあげるしかなかった。
退院した俺は、すぐに家を売り払った。職を転々としながら、各地をさまよい歩く。それしか道は残されていなかったのだ。病気にはならないくせに、心が冷えていく。老いることもない。怪我をしたとしても、一瞬で治る。そんな不気味な存在となってしまったのだ。
俺は、いつか死ねるのだろうか。彼女の笑顔を胸に、あの男の死に様を胸に。たった一人で、今日も雨が降る夜道を傘もささずに歩く。