ファム・ファタールの午後
南面の飾り窓から、午後の光が床へと注ぐ。
美しい装飾格子は下ろされた紗幕と床に細やかな模様を映し出す。床は滑らかに磨かれた石床で、窓辺だけ温かくあとはひんやりとしていた。
部屋の中央にはどっしりとした作りの円卓があり、清潔な白い布がかけられたその上には、丁寧に盛りつけられた料理が湯気を立てている。中央に置かれた硝子の水差しの表面には細工の一部であるかのように水滴が付着していた。
男はその水滴が増えたり消えたりするのを睨むようにしながら、座っていた。扉から最も離れた奥の席、艶のある木で組まれた大きくゆとりのある椅子は、彼が腰掛けてから一度も軋む音を立てない。彼はまったく動かなかった。
給仕が入ってきたならすぐにお暇したくなるだろう。男――ユグ・エクレールは不機嫌の権化のように、そのただでも厳つい部類の顔を顰めていた。眉間に深く刻まれた皺は赤い前髪で隠れてはいるが、想像には難くない。白麻で仕立てられた外套の肩からも彼の内面が滲み出ているようだった。
座る椅子の横には、これまた彼の意識を表すように武器が立てかけられている。鞘の中ほどに細やかで複雑な模様の飾りが留められている、男の腰ほどもの長さがある長剣だ。更には――彼が前傾姿勢でいる為に見えないが、彼の腹には小刀も置かれている。
紗幕の色が部屋を薄青に調和させる部屋は、これから何か重大な会議でもあるのかというほど、張り詰めた空気で満ちていた。
それは突如として破られる。
硬い靴底が床を歩いてくる音が聞こえ、一分もしないうちに部屋の扉が開いた。部屋に巡らされた緊張感などまったく些細なことと考えるように平然と開いた。ノックの音は無かった。
扉を開けて顔を覗かせた女は座る男を見て、口紅の引かれていない薄い色の唇の端をニヤリと持ち上げた。
「なんだい、そんなにかっちり座りこんで」
ユグは黙ったまま、扉の開く前からそちらへと向けていた薄茶の目でじっと彼女を見つめた。
金茶の短い髪と細い眉、同色の睫毛に縁取られた夜空のように暗く落ち着いた色の瞳。それらを備えた顔はやや彫りが深くしっかりとした作りで、うっかりしていれば男と見誤りそうだ。ただし、その性別曖昧な首を頂く体はなだらかな曲線でふっくらと凹凸を描いている。
「今日はお前が客だよ? もっとどっかり、ふんぞり返ってくれて構わない」
曲線美を無駄にするように男物の衣装を纏った女、この建物の中で最も偉いセイレーヌという女は男の向かいに腰を下ろしつつ、低めに柔らかな声で言う。聞いて、渋い顔をした男はようやく口を開いた。
「首や腹を晒すのは好かない」
声は当然、女より低い。表情と同じく不機嫌を滲ませた音で、誰が聞いても、怒っていると分かるそれだ。しかし女は気にしない。
「気を抜くときとそうでないとき、切り替えてこその剣士だろう」
「此処が抜く場所か? ……与太はいい。何だ」
襟を飾る鮮やかな赤色のタイを解きつつ言うセイレーヌに、ユグは間髪いれずに言葉を重ねた。後半は半ば呆れたような、諦めたような声になった。
彼女は心底愉快そうに笑んで、細く長い指で水差しを取る。
「何だとはご挨拶じゃあないか。近くに来ていると聞いたから、食事に誘ったまでさ。小鳥が会いたがっていたしね」
伏せられていた細長い硝子杯に水を注ぎ、己の分が終わると勝手にユグの分まで水を満たす。水差しを置いた手はすぐにナイフへと伸びた。
「……当人が居ないようだが」
「タイミング悪くおつかいにやってしまった」
宥めるような声音にも、ユグの目つきは宜しくない。しかし元からそんなものと知って、決めつけているセイレーヌには、その鋭い眼差しに平伏すことや媚びへつらうことなど、考えもつかなかった。
そして、ユグも目の前の女がそうする俗物でないことは身に染みていた。彼女はむしろ、相手を平伏し媚びさせる側なのだ。
「なに、すぐに愛しいあの子は帰ってくるさ。冷めないうちに食べようじゃないか」
セイレーヌは言いながら、二人分にしては明らかに多い、丸いパイを切り分ける。表面に菱形で描かれた星模様からして、本当なら八等分するのが正しい物らしい。ムラなく艶出しされた狐色の生地から立ち上がる湯気はバターと香草の匂いがした。
仕方なく、ユグもフォークとナイフを手にする。よく磨かれたそれは、晩餐会に似合いの銀製で、このようなちょっとした食事にはそぐわない品だ。
「最後に会ったのはいつだっけねぇ? 一年前かな?」
「一年半前だ」
アヒルと思われる肉の焼物を一口大に切り分け、口に運ぶ前に問いかけがある。簡潔に必要なことだけ言って、彼は魚と潰した芋のパイを取り皿に移す女から視線を逸らした。肉に添えられていた色鮮やかな柑橘のソースは、酸味と苦味を舌に残す。
「腕の悪い料理人だな」
引き続いて不機嫌に聞こえる声でユグは呟いた。
聞いたセイレーヌが手を伸ばした。まだ大皿に残りがあると言うのに、フォークの切っ先はユグの前にある、切り分けられた肉の一枚を攫う。当然と、それは彼女の口へと吸い込まれた。
飲み込んで唇を舐めた女は言う。
「ああ、確かに、焦がしたかな。――これを作ったのは私だと言ったら、どうする、お前」
「……聞かなかったことにする」
真面目に味を批評する顔で放たれた言葉が真実か冗談か、男には料理の味ほど分からなかった。
幸いにも肉自体は上手く桃色に焼けていたので、彼は横に置かれた塩で味付けを妥協することにした。近くの海で作られた物は旨味も多い。
「じゃあ、可愛い小鳥が作ったものは、どれだ?」
その様を面白くなさそうに見て口直しにパイを食べはじめた女が、思いつきににやとして問いかけた。それまでに比べ女らしい悪戯な顔だったが、ユグには何かを企む悪女――それも可愛い意味ではない――にしか見えず、げんなりとする材料を追加されたに他ならない。
それでも、女が部屋に来る前から此処に居た男はテーブルを確認に一瞥した後、すぐに答えた。
「コンポートだろうな」
ついでに白パンを手に取り、硬い指でちぎりながら。淡々としたその答えにセイレーヌが眉を寄せた。
花かレースのように縁を開いた白硝子の器に盛られているのは、まだ冷たいままでいる薄紅に色づいた果実だ。甘く煮詰められて表面をとろりとさせた初桃の一品はユグが言い当てたとおり、料理人たちではなくセイレーヌの愛娘が作った物だった。
「何だ面白くない。もしかしてお前のレシピだったかな?」
「食わずにわかるか。作ってすぐに出さないものなどそれぐらいだろう」
おつかいにやったと言ったのはお前だろう、とユグの眼が言う。セイレーヌは舌打ちして視線を一度、窓の方へと投げた。紗幕のあるお陰で、明るい街の様子は僅かにしか覗かない。ただ、特注の薄織りの色が彼女の義弟の瞳に似た色をしていたので、彼女は早々に意趣返しを思いついた。
「ああ嫌だ。お前もリーシルみたいになってきたじゃないか」
「そこで何故あいつの名前が出る……」
呟き一つで、パンを飲み込んでアサリをフォークで突いていたユグの眉間に今まで以上に深く、露骨に感情表現をする皺が寄った。口の端まで歪んでいる。
肩を竦めて様子を見ていたセイレーヌは、なんともないような表情で
「共通の知り合いだからさ」
と言った後、嫌がらせの成功に、それはそれは優雅に微笑んだ。絵画に描かれるようなわざとらしい美しさを持った表情だった。
名前の出た男はユグにとって何度か共に仕事をした相手に過ぎず、好悪も決めかねるところである。が、まったく他人としての評価は別として、自己と重ねられるのは九割以上が嫌がるタイプの人間だ。ユグも例外ではなかった。名前を出した女自身、義弟として、元部下としてはそれなりに評価していたが、誰かに「似ている」とでも言われればそいつを虫けらのように扱ってやる自信を持っていた。
苛立ちながら、味の足りなかった白ワイン蒸しに塩を振る男の顔がまた微妙に歪む。そうするうちに塩をかけすぎて、彼の機嫌の悪さはここ一月で最高潮にまで達していた。
厳つい顔つきの割に事なかれ主義で穏健派の彼が、此処が彼女、セイレーヌの城という四面楚歌の地でなければ、剣を抜いてもやぶさかではないと考え始める程度には。
「これもお食べよ、自信作だと言っていたから」
男の気持ちを知ってか知らずか――否、ほぼ把握していながら転がして愉しみを覚える質の悪い女は、一切れ分だけ欠けたパイを示して言った。ナイフやフォークが皿に触れる音の中、舌打ちが交じる。
「誰がこんなところで星飾りの付いた物を喰うか」
「星のパイを食うのは結びの印、なんて、古風なこと言ってるのかい。お前、宗派が違うだろうに……」
ひたすらにアサリとキャベツを貫くフォークは、パイに伸びない。ああ愉快、と喉を転がして笑った女はちらりと視線を扉へと流した。
やがて、大急ぎで近づいてくる足音にユグも気づく。
軽やかな足音に続いたのは、一転して激しい、扉を打ち破るように開ける音。最初に男女の視界に入ったのは白く細い子供の腕だった。
「ただいま!」
やや息の乱れた声で帰還を告げたのは、十四、五歳に見える少女。艶やかに腰まで伸びた銀の髪を振り乱し、息せき切って駆け込んでくる。どれほど走ったのか、顔は随分と紅潮していた。
「おかえり、小鳥」
立ち上がったセイレーヌが乱れた髪を撫で整える。普段ならその手を大人しく受けている少女は、今日ばかりはと興奮を抑えきれぬ様子で、すり抜けるように動いて男の横まで進んだ。菫色の目を二度瞬いてにんまりとする。
ユグは呆気にとられて目の前に現れた少女を眺めていた。感じている驚きとは裏腹に、彼の表情筋はろくに稼働しなかったのだが。
多民族国家であるこの国でも並外れて目立つ色合わせの少女は、ユグの記憶も予想も裏切って凄まじい成長を遂げていた。座っていても見下ろす相手だった幼子は、立派に大人と子供の中間地点まで駆け上がっていたのだ。
悪党は美しい猫や鳥を飼うとは、言うものだが。笑う子供は大層美しい。詩人なら、天使の如くと褒め称えるだろう。
白く手触りの良い布で作られたワンピースは、首の後ろで結ばれた紐だけで彼女の体に留まっている。指先から肩、爪先から太腿と、惜しげもなく若い肌を晒して、自信に満ち溢れた顔と佇まいで彼女は倍以上も年上の男の前に堂々と立つ。
「いらっしゃい! リィは居ないの?」
開口一番は、そんなものだった。ユグの口からとうとう溜息が吐き出される。
「……俺はいつもあいつと居るわけではない」
養い親と似たことを、という呆れもあるが、それ以上に、変わったのは外見だけであることがその一言で覗えて安堵したのだ。
嫌がる声を作って答えたユグに少女は薔薇色の唇を尖らせる。
「なんだー、残念。でもユグだけでも嬉しいよ」
残念ながら、周囲の影響をふんだんに受けてしまっているのも数秒で覗えた。少し屈んで尖らせた唇をそのまま男の頬に触れさせ、くるりと身を翻すそれは、この建物の女たちがよくやる心得た動作の影が見える。丁寧に織られたレースの裾が少しだけ浮いた。
「つれないねロシニル、私よりこの男の方がいいかい」
「レーヌとユグは別ー」
笑いながら動向を見守っていたセイレーヌが胸ポケットからリボンを取り出し、名前で呼びなおした少女の髪を慣れた調子で結わえる。一束になった銀髪にさらりと手櫛を通して近い椅子を引いてやるその様は、服装の所為で、母子と言うよりも執事と令嬢のように見える。
少し大人びて見えるその髪型の下の方を、少し気にして触り。椅子に腰掛ける前に爪先立ちをして、ロシニルは円卓の奥へとすらりと腕を伸ばす。産毛が細腕に光を纏わせた。
爪まで手入れの行き届いた手が熟成の進んだチーズの一切れを摘まんで口へと運ぶ。咀嚼して、彼女は指を擦り合わせた。
「しょっぱい」
呟き、引き戻された手は硝子の取っ手を掴む。
水差しの中で、半分に減った氷と檸檬の薄切りが踊る。カランと小さな音がして水滴がテーブルクロスの上に落ちた。染みが広がる。
「ねえ、いつまでいるの。剣もちょっとは上手くなったから遊んでよ」
まだ座らないまま、目は楽しげに輪郭を歪める檸檬を見たまま、上機嫌に少女は囀った。紫と黄色の対比は、白い夏の午後の中で美しい。
菫色の瞳は幼子の持ち物であるように、無邪気な好奇心で輝いていた。ユグが一年半前に見たのとまったく変わりないのはその色だけだ。それさえも恐らくは、近い内に変わってしまうだろうと彼は予想した。いつの日に変質するのかは考えたくなかった。詩人が悪魔の如くと形容する時期が来てしまうのは。
彼がこの国に来て間もない頃は、向かいに座る女もまだ普通の悪女に納まる程度の顔つきをしていたのだが。思えばあれは、今とは比べ物にならない可愛いものだったのだ――
現在は可愛げの欠片も感じられない女王を見て、次に、女王予備軍である少女を見て。
水の注がれる音が部屋を満たすように響く。二人の女は笑っていた。
ユグ・エクレールは相変わらず不機嫌に見える表情で末席の文句を考えながら、とうに温くなった冷水を口に含んだ。