第一話 「地下鉄の声」
斎藤悠太は、30歳の広告代理店に勤めるサラリーマンだ。日々の業務に追われ、家と会社を往復するだけの単調な生活が続き、彼の心身はすり減っていた。毎朝、満員電車に揺られながら、これから始まる長い一日を思うと、重たい疲労感が一層強まる。
いつものように家を出て、最寄り駅に向かう。通勤通学の人々は皆、忙しなく駅に飲み込まれていく。その中で、悠太はふと視覚障害者の姿を目にする。白杖を頼りに慎重に歩くその姿に、悠太はぼんやりと見入ってしまった。
目が見えないということは、あらゆる行動に制約があるはずだ。その制約された中で生活することがどれほど大変か、悠太には想像もつかない。また、逆に考えてみると見えない世界の中で、音や感覚だけを頼りに歩く姿に、自分とはまるで別世界を生きているのだろうと巡らせた。彼は、その大変さを思い、尊敬の念を抱いた。
「きっと音と感覚で世の中を感じ取っているんだろうな。どんな世界なんだろうか?」
そんな思いから、悠太はふと目をつぶって歩き続けてみた。通路を行き交う人々の靴音と改札を通過する音だけが冷たく耳に届く。少し不安を感じながらも、「ピッ」という音に意識を集中させ、目を閉じたまま自分も定期券をかざして改札を通り抜けた。
無事に通過できた安心感からゆっくりと目を開くと、真っ白な視界が広がった。まるで光が自分に飛び込んでくるような感覚だった。一瞬だけ足元が揺らいだが、すぐに意識が元に戻り、何事もなかったかのように歩き続けた。
電車はいつものように満員状態。人に押されながら辛く、暑苦しく感じたが、いつもとは違う経験ができたことに、悠太は少しだけ満足していた。
会社の最寄り駅に到着し、定期券を改札にかざした。「ピッ」という音がした瞬間、少し妙な違和感を感じた。
駅を出て歩いていると、違う男性と目が合った。
すると「今日は早く帰れるかな…」と突然声をかけられた。
悠太はその声に反応し、知り合いだったのかと思い慌てて男性を目で追うが、男性はそのまま歩き去って行った。
気のせいかと思い、会社に向かうが、すれ違いざまに目が合った女性が「急がなくっちゃ」と言った。
悠太が反応し、「今、何か…?」と声をかけるが、女性は悠太の言葉を無視して歩き去っていった。
悠太は戸惑いながらも、聞き違いだと思い込み、再び会社への道を急いだ。