第86話:トロン
「リンさんには、ずっと会いたい思ってたんだよ」
別室に入るなり、風間首相がフレンドリーに話かけてくる。
「え、あ、はい、ど、どうも……」
挙動不審そのものの態度で答えるわたし。
2か月までは、自分が総理大臣と直接に話するなんて、天地がひっくり返ってもないと思ってた。創さんや星と一緒じゃなければ、緊張で声さえ出せない気がする。
「どうぞ、緊張なさらずに」
首相の隣の、橘環境庁長官が穏やかに言う。
風間首相より5歳ほど年上の橘長官は、今でこそスーツを着ているものの、国民の間では作業着のイメージの方が強い。「災害現場に誰よりも早く着く男」の異名を取り、天災が発生するたびに、作業着に身を包み、自ら陣頭指揮を取ってきたからだ。
スマートで弁が立つ若干50歳の首相と、実直な現場畑の橘長官は、対照的だからこそ、相棒的な形で、お茶の間の人気を博していた。
実際、橘長官は、”風間内閣誕生の立役者”ともいわれている。
……というのも、もともと汚職疑惑で支持率が低迷していた前首相が退任する決定打となったのは、巨大台風が北九州を直撃する中で、料亭で泥酔し緊急対策会議に遅刻してきた前首相を、橘大臣が公然と批判したことだったからだ。
「上に厳しく、下に優しい」ことでも有名で、一説には副首相のオファーもあったにもかかわらず、災害対策現場の人たちを守るため、申し入れを固辞したという噂だった。
「それで、敢えてわたし達三人だけを、ここに呼んだ理由はなんでしょう?」
創さんがストレートに訊ねる。
――完全に同感だった。
創さんやカイはともかく、わたしなんかより、カイや十萌さんを呼んだ方がよっぽど役に立つはずだから。
風間首相は、下を向いて少し考える様子を見せ、やがて口を開いた。
「ま、君たちの前で遠慮しても仕方ないか」
そう言って、わたしたちを見たその表情は、既に笑ってはいなかった。
対象を射貫くようなその目は、まるで獲物を狙う鷹のようだ。
マスコミの前に見せる顔とは全く違うその表情に、思わず怯んでしまう。
「率直に訊こう。君たちは、カイ君を、信頼のおける人物だと思うかね?」
――え!?
唐突な質問に思わず変な声が漏れる。
風間首相は言葉を継ぐ。
「今や、父親のルカ・ローゼンバーグ氏と、その息子のカイ氏の二人は、世界にとって最重要人物になったと考えていい。アイロニクスという会社の影響力もさることながら、AI研究のみならず、脳波研究でも世界最先端を走っている」
背後のスクリーンに、船上会議でのルカの映像が映される。
『私たちの共通目的とは何か?それは、未来に一人でも多くの人類を、この地球上に生き残らせることに他ならない』
「もしこの言葉に嘘はないなら、ルカ氏の行動原理は、ある程度は理解できる。少なくてもこの目的に反しない限り、日本と敵対することはないだろう。今後の日本の”3つの成長戦略”は、まさに人類生存に不可欠なのだから」
――”3つの成長戦略”って、何だっけ?
わたしはこっそりと星に訊く。
「メタンハイドレート、海洋食料資源、そしてナノテクノロジーの開発だよ」と星が耳打ちする。
「だが、カイ君については、その行動原理が分からない。個人的な見解を言わせてもらえば、もし、ビジネスの拡大だけが目的なら、母国でもあるアメリカで行うのが、最も合理的なはずだ。それでも、今もなお、日本に留まっている理由は何なのだろう?」
――正直、その疑問はわたしも抱いたことはある。
三式島に研究所を建てた理由も、「海中サーバ」や「地熱発電」がどうこうものの、本当のところは良く分からない。別に同じ条件の島なら。アメリカにだってあるはずだ。何より、今となっては、三式島自体が噴火で入島禁止となっているのだから。
「言い換えよう。これ以上、カイ君がこのまま日本にいることで、国家機密上の問題はないかについて、君たちの考えを聞きたい」
――ようやくわたしがここに呼ばれた事情が吞み込めてきた。
「つまりそれは、”カイがアメリカのスパイじゃないかと疑っている”ってことですか?」
風間首相は、悪びれもせず言う。
「そう捉えてもらってもかまわない。なんせ、日本の未来に直結することだからね。国家を背負う身として、この点を曖昧にはできない」
――そりゃそうなんだろうけど……。
友人がスパイじゃないかと疑われているのだ。正直、相手が一国の総理と言えど、気分は良くない。
……とはいえ、ジェラルドがスパイだということを、1ミリも気づけなかったわたしが言えた義理じゃないかもしれない。
そんなわたしの戸惑いを感じ取ってくれたんだろう。
創さんが代りに口を開く。
「”トロン”のことを、まだ引き摺られているんですね」
風間首相は、毒気を抜かれたように軽く肩をすくめた。
「……君には敵わないな。ああ、あれこそは日本の経済政策上、最大の失敗の一つだと思っている。あそこで、日本政府と通商産業省が踏みとどまれていれば、今ごろ日本が世界のネット産業を牽引できていたはずだ」
「トロンって、何?」
わたしは、星にこっそりと訊ねる。
「トロンは、日本の坂村博士によって1980年代に開発されたコンピューターOSのことだよ。かつて、国際標準のOSになり得る潜在性を持ったね。ただ、それを恐れた米国の経済界と政府から圧力をかけられて、海外展開の撤回を余儀なくされたと言われているんだ」
――全く知らなかった。
世界標準のOSといえば、Windows、iOS、アンドロイド、それに、最近ならまさにアイロニクスOSくらいしか思い浮かばない。そして、それはいずれも米国製だ。
「当時は、バブル真っ最中でね。世界の企業時価総額ランキングを日本企業が大半を占めていた時期でもあった。”ジャパンアズナンバーワン”って本も売れまくっていた時期だ」
風間首相が、どこか遠い目をして言う。
「だから、技術や情報を盗もうと、世界中のスパイが東京に集まっていたものさ。当然、”トロン”もその対象だった」
――バブル時代なんて、歴史の教科書でしかみたことがない。
「私の父も、当時の通商産業省の官僚で、この件に中心的に携わっていたんだ。もう90歳を超えるのに、いまだに私に言っているよ。『あの時情報戦に勝ち、圧力に抗してでもトロンを世界に広められていれば、失われた30年も無かった。お前はその轍を踏むな』とね」
そこにいたのは、いつもの”明るくてスマートな風間首相”像とは異なる、一人の息子としての姿だった。
――これだけ優秀な人が、一国の首相になってもなお、やはり親の影響を受け続けているんだ。
思えばわたしもそうだ。
亡くなったお母さんのことは、ずっとずっと気に掛かり続けていた。
そして、おそらくカイもまた、親からの呪縛から逃れられていない。
わたしは、意を決して口を開く。
「やっぱり、カイは、アメリカのスパイなんかじゃないと思います」
ほう、と風間首相は言う。
「自信ありげだね。で、その根拠は?」
わたしはきっぱりと言い切った。
「ただの直観です」




