第3話:攻殻の沼
――あ、意外に美味しい。
香ばしいけど、やたら歯応えのある謎肉―どうやら巨大ダチョウらしい―を噛みしめながら、カイに訊く。
「で、初めて観た日本のアニメ、どうだった?」
12歳のカイは、年相応の悔し気な表情を浮かべつつも、こう答えた。
「確かに、攻殻機動隊はすごかったよ。まるで預言書を観ているみたいだった。1995年に創られたというのが、いまだ信じられないくらいだ」
――お、意外に素直だ。……と思いきや。
「でも一作だけで、日本アニメは語れない。アートなんて、1つの傑作の裏に100の駄作が潜んでいるものだからね」
ちっきり憎まれ口を叩くのも忘れない。
それを聞いた星が、我が意を得たりとばかりに、身を乗り出してくる。
「その通りだよ!確かに一作目だけじゃわからない。原作は当然必読だし、アニメももっと見せたいシリーズがあるんだ」
「あ、ああ……」
その余りの熱量に思わず、頷かされてしまうカイ。
――あ、これって……。
わたしがハマらされた時と、まったく同じパターンだ。
カイはまだ知らない。
さっき観たのは、広大な攻殻機動隊の世界のほんの入り口で、この後さら深い沼が待ち受けていることに。
「あ、そうだ。明日は土曜日だし、うちの道場で、もう一つの日本文化も体験してみない?」
そう言ってわたしは、壁に立てかけてある竹刀を指差す。
「あの木の刀みたいなのって、何?」
少しだけ関心を持ったようだ。
「竹刀っていうの。剣道っていう日本の武道で、あれを使って相手の頭や手、胴なんかを斬れば勝ちっていうルール。やってみる?」
「ふーん」
といって、カイは自信満々に言う。
「棒遊びみたいなもんだね。なら、絶対僕が勝つよ。フェンシング、家庭教師からずっと習っていたから」
――へーえ、棒遊びとか言っちゃうんだ。
わたしが、剣道場でカイを半泣きにさせたのは、翌朝のことだ。
**********
あれから7年。わたしは改めて今のカイを見つめる。
剣道で打ちのめされて、悔し涙を流していたときは、まだ細身で頼りなさを残していた。でも、19歳となった今は、一回り大きくなった骨格に、しなやかで無駄のない筋肉をまとっている。身長も、わたしより頭一つは高い。
カイがアメリカに帰国した後も、ときどきはビデオ通話はしていたけど、こうした三次元的な変化は、会ってみて初めて気づくものだ。
”からん”という音が鳴り、ふいに、カイのプラチナブロンドが、風にたなびいた。誰かがカフェのドアが開け、冷風が吹き込んできたようだ。
二人組の女性がカフェに入店してくる。
まるでモデルのようにすらっとした長身の白人と、やたらと開放的な格好をした肉感的な南米系美女だ。
春とはいえ、大学のあるボストンの気温は10度にも満たない。
――胸元、寒くないんだろうか……なんて、余計な心配をしてしまう。
そんな美女二人が、わたし達の席をすれ違う瞬間、視線がカイと星に釘付けになるのが見て取れた。
「What’s up? Wanna go get some drinks?」
――?
突然、金髪の美女が、いきなりカイに声をかけてきた。速くて聞き取れない。
「”どう、どっかで、飲まない?”だって」
サラがすかさず訳してくれる。
――さすがアメリカ。何だか色々積極的だ。
ただ、当のカイは完全無視で、一瞥さえしない。たぶん、口説かれることなんて日常茶飯事なんだろう。
すると、もう一人の褐色の肌の美女の方が、今度は星に声をかけてきた。
「素敵な瞳ね。名前、なんていうの?」
そう言いながら、明るい茶色のかったロングウェーブの髪をゆらめかせながら聞いてくる。
……え、ちょっと待って。星にも来るの?
一瞬、心臓の鼓動が高まった。ついつい目が二人を追ってしまう。
星は、申し訳なさそうに「Sorry, we’re busy right now.(ごめんね、いまちょっと忙しんだ)」と答える。
だけど、南米美女は止まらない。
その手を星の肩に置き、吐息が耳にかかるくらいの近さまでその唇を近づけ、何かを星に囁く。しかも、ちらりと私の方を見ながら。
絡みつくような、挑発的な視線。
――な、なんか、ケンカを売られている気がする。
こんなとき、とっさに英語が口からは出てこないのが悔しい。
星は少しだけ真剣な表情になり、ただきっぱり彼女に言った。
「I have feelings for someone else(気になっている人がいるんだ)」
わたしの心臓が、ふたたび波打った。
―― 意識しちゃだめだ。
そう、自分に言い聞かせる。それは、わたしではありえないのだから。
「そ、なら仕方ないわね」
南米美女は肩をすくめ、やがて、白人の友人と一緒に店の奥へと去っていく。
わたしの感情など知るよしもなく、星とカイは、再び二人だけの世界に入り込む。
「でも、その人工頭脳開発って、AI倫理規制をクリアできるの?」
やや星が声を落とす。
――AI倫理規制。
最近、SNSを騒がしていたので、この言葉は聞いたことがある。たしかAI開発を制限するためのルールか何かだった。
わたしはふたたびサラに問いかける。
「AI倫理規制って、どうして出来たんだっけ?ざっくり教えて」
「にぁー」
語尾がちょっと伸びた。ちょっと時間がかかるかも、という合図だ。
こうした場合、何かと意見が割れているテーマが多い。
「こんな感じかなぁ」
……とはいえ、10秒もすると、答えが画面に表れる。
私はスワイプしながら、内容を読みこむ。
2020年代前半から普及し、世界を席巻した生成AIは、その革新的な技術でユーザーに驚きを与えるとともに、深刻な論争を生み出した。
論争の内容は、クリエーターによる著作権への懸念から、「AIに仕事を奪われるのでは問題」まで様々だった。ただ、やはり最も口の端に上ったのが、”シンギュラリティ”だった。
「2045年には、技術的特異点が発生し、人間を圧倒的に凌駕する頭脳が登場する」という言説は、長らく地球の主導権を握ってきた人類に対する、ある種の挑戦状みたいなものだった。
ただ、わたしには正直、この2045年という年が、何を指すのかが良く分からない。
わたしだって、この不景気に、仕事を奪われて就職出来ないのはもちろん困る。
でも例えば、ロボットの物理的な力は人間を遥かに上回っているし、チェスや将棋でも、AIがとっくに人間のチャンピオンを倒している。
今でさえ、サラはわたしなんかよりずっと賢い。
……だとすれば一体、2045年には、人間の何を超えるというのだろう。そしてそもそも、それは止められる性質のものなんだろうか?
そうした危機感を背景に、昨年末にEUは、AI開発を抑制するガイドラインを批准した。それが、「AI倫理コード」だ。
つまり、「AI開発企業は、これとこれをやってはいけませんよ。もしやるならEUではビジネスさせませんから!」という押し付けのルールようなものだ。そして、EUは世界にもそのルールを強要し始めた。
この分野で先頭を走るアメリカのトップ企業は、当然強い抵抗を示していた。アイロニクス社がその筆頭格だ。
だけど、莫大な利益を独占する巨大プラットフォーマ―に対する世界中の貧困層の不満の声に押され、ついにアメリカまでも独自の倫理コードを発表するに至ったというわけだ。
「このままじゃ、世界のAIは10年は遅れるよ」
そのニュースを聞いたとき、カイも不快感をあらわにしていた。この倫理コードにより、人工頭脳開発も、極めて厳しい政府の干渉を受けることになるからだ。
「アメリカも、EUもダメってなると……」。
星はしばし考え込む。わたしの脳裏にふとひらめくものがあった。
もしかして……。
「日本で?」
わたしと星はほぼ同時に答える。
確かに、日本は、先進国の中で圧倒的にAIの法的規制が緩い。そして、物理的な「人工頭脳」を作りうる技術集積がある国と言えば、日本くらいしか思い浮かばない。
「でも、カイが作りたいのって、人工「知能」じゃなくて、物理的な「頭脳」そのものなんでしょ?大学生の、どこにそんなお金あるの?」
わたしは、素朴な疑問を口にする。ド素人の私でも、それに天文学的なお金と、途方もない技術が必要なことくらいは想像できる。
突然カイは、疑惑の目を向けるわたしのスマホを取り上げた。
「ちょ、ちょっと何すんのよ!」
そんな抗議を無視して、「ハイ、サラ」と発声する。
お休みモードに入っていたサラが再び起動する。
――ちょっと、わたしのサラに勝手に話しかけないでよ!
そんなの反応を無視し、カイはサラにこう尋ねた。
「アイロニクス社の創設者は誰?」
「ルカ・ローゼンバーグ氏です」
へー、初めて聞くけど、そんな名前なんだ。
ん?……って、ローゼンバーグ?
「では、サラ。君自身を生み出したのは?」
「……一般には公開されていない情報ですが」
めずらしく、サラの反応が鈍い。
それに敬語のせいなのか、声色は変わってないはずなのに、いつもよりだいぶ無機質に響く。
「大丈夫。この二人になら、伝えても」
その言葉を受け、サラはやがてこう答えた。
「カイ・ローゼンバーグ、あなたです」
――へ⁉ サラを生んだのが、このカイ?
なんせ、ハーバード史上最高と呼ばれているらしい天才のことだ。
もしかしたら、技術的には可能なのかもしれない。
――で、でも、可愛いサラの生みの親が、この生意気すぎる男だなんて、到底信じられない。いや、信じたくない。
わたしの動揺を楽しむかのように、カイはこう言った。
「ちょっと、世界を変えるバイトをしてみないか?」
――は?
世界を変える……バイト?
「日本のとある場所に、世界最先端のAI研究所を立ち上げるんだ」
そう言って、カイはわたしと星の目をまっすぐに見る。
「研究所で、人工頭脳を搭載した、世界初の実体を持つアバターを生み出したい。アイロニクス社の技術と資金を、全力でぶちこんでね」