第280話:分筋擒拿
「も、もう動けない……」
アバターを回収するために、張家界の岩峰に降り立ったわたし達は、あおむけになりながら、空に瞬く北斗七星を見つめていた。
張家界の夜の気温は零度に近い。
けれど、その夜風さえも心地よいほどに、体が火照っているのが分かる。
これもまた、気が全身に満ちていることの影響なのだろうか。
この三日間、酸素ポッドでの睡眠と非常食を食べている時間以外は、ひたすら夢華との戦いに明け暮れていた。
結局一度も夢華に致命的打撃は与えられなかったけど、それでも精魂尽き果てるまで、やりきったという実感はあった。
「二人とも、すさまじい進歩ですね。特に、反射速度の伸びが尋常じゃありません」
パッドでデータをいじりながら、建峰が言う。
「ま、途中から少しづつ、打撃速度を上げていったからね。最後の三環套月は、生身の2倍の速度だったわ」
夢華が身を起こしながら言う。
――え、そうなの?
「人間の反射神経っていうのは、そんなもんよ。初めて車を運転したとき、時速100kmでも速いと思ったのに、慣れれば200kmだって300kmだって平気になるでしょ?」
言わんとしていることは分かる。
とはいえ、300kmが平気なのは夢華だけだとは思うけど……。
アレクもゆらりと身を起こすと、ゆっくりと夢華に近づいていく。
そして、夢華の両肩を両の掌で掴んだ。
「は? なにすんのよ?」
夢華の肘が、再びアレクの胸骨に突き刺さろうとする一瞬前。
「夢華、私と一緒に、スペインに来てくれないか?」
珍しく照れたような表情で、アレクが言う。
「……その、両親を紹介したいんだ」
――え!? それって……。
まさかの突然のプロポーズに、勝手にわたしの心拍数が跳ね上がる。
ひたすらパソコンの画面を見続けていた建峰も、思わず目を上げた。
夢華が、珍しく沈黙する。
逡巡の表情がその横顔に浮かんだ――気がした。
ただ、その口から出た言葉は、意外なものだった。
「スペインの人口ってどれくらいかしら?」
唐突な質問に、怪訝そうにアレクが答える。
「5000万人くらいだと思うが‥‥」
「中国は14億人よ。私には、その未来を背負う義務がある」
夢華は、まっすぐにアレクの目を見ていった。
「災厄を前に、皆を置いて他国には行けないわ」
言葉が出なかった。
――スペインの30倍、日本の12倍の人口を抱える、中国の未来を背負う。
その重みは、この先も決して私たちには分からない気がする。
明らかに落胆しているアレクの顔を見て、夢華は短く息を吐いた。
「あなたのことは、嫌いじゃないわ」
そういって、夢華は、自らの肩に添えられたアレクの腕に、自分の手をそっと添えようとする。
アレクの顔にわずかな希望に光が差す。
次の瞬間。
夢華が左手でアレクの右腕を掴むと、体全体を捻りながら沈ませる。
その回転に巻き込まれ、一回り大きいはずのアレクの体がふわりと浮き、地面へと叩きつけられそうになる――。寸前、夢華がその腕をアレクの背と膝裏に回し、その体を抱きかかえた。
――!!!
まさかの、夢華による逆お姫様だっこだった。
彼女は、まるで王子様のような口調で言った。
「分筋擒拿の応用技よ。これくらいできるようになったら、話の続きを聞いてあげる」




