第278話:三日三晩
気が付くと、張家界全体を覆っていた朝靄が晴れ、朝日が昇り始めていた。
視界が晴れると、今まで敢えて意識しないようにしていた、数百メートルという高さが現実感をもって迫ってくる。
――下を見ちゃだめだ。
わたしは自分に言い聞かせる。
足場がしっかりとした、約十メートル四方のこの岩盤の上にとどまっている限り、墜落しないのは分かっている。
それでもなお、自分自身の心拍数が高まっていくのが感じ取れる。それほどまでに、VRを通して目に映るこの景色は、リアリティーに溢れている。
「まずは、自分自身と目の前の相手に集中しなさい。それによって、自ずと周りも見えてくるから」
断崖を背にしてなお、夢華の動きは、地上でのそれと全く変わらない。
まるで、ヒマラヤの高山を軽やかに跳ねまわる雪豹のように、その身こなしは優雅ささえ感じさせる。
「さあ、とっとと立ちなさい。伝授しなきゃいけない型は、まだまだあるんだから」
「型って、一体、どれくらいあるの?」
夢華は考えながら答える。
「記録上は700以上、拳術単体でも170くらいかしらね。もっとも、少林寺武術は、主な流派だけでも5つに分かれているから、細分化したらもっとあるかもしれない」
「え、今やっている大洪拳だけじゃないのかい?」
今度はアレクが問い返す。
「大洪拳は、5つの主流派の内の『洪拳』の一種にすぎないわ。他にも、長距離戦闘向けの『太祖長拳』、腕の連動を活かした『通臂拳』、防御と反撃を主とした『羅漢拳』、そして敏捷性を重視した『七星拳』があるの」
困惑する表情のわたしの表情を見て、夢華が言葉を継ぐ。
「もちろん、その全てを覚えることなんてできはしないわ。でも、個々の技を自ら体感することで、そこに通底する”核心”を掴むことが大切なの」
そう言って、再び大洪拳の姿勢に戻る。
「さ、まだまだ1日は始まったばかりよ。構えなさい」
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それから、わたしとアレクが身をもって体験した技の数々は、到底覚えきれないものだった。
摆拳 、崩拳、劈拳、撩拳といった拳技はまよかった。
こと、蹴りに至っては、 喜鶯上枝、 白馬呈蹄、 黄鶯飲水など、まるで詩のタイトルのような技ばかりだった。
長時間、脳波と気を飛ばすだけでも、体力と気力が奪われていく。
――その上に、頭が痛くなるような技名を覚えるなんて。
それでも何とか戦い続けて2時間。
「ま、少しだけ休憩しましょうか」
夢華がようやく休みの許可をくれる。
わたしとアレクはほっとして、VR機器を外し、アバターとのリンクを切る。
意識が、張家界の上空を飛ぶヘリの中の自分に戻る。
こんなにも長時間、アバターとリンクされていたのははじめてだった。
だから、生身の自分に意識が戻ったとき、むしろそっちに違和感を感じたくらいだった。
建峰が、水のペットボトルを渡してくれる。
振るえる手で受け取り、喉に流し込むと、体を甘露が駆け巡る。
わたしが建峰にお礼を伝えると、彼は当然のことのようにこう言った。
「本体の方も、栄養と水はきちんと取ってくださいね。今から三日三晩戦い続けるんですから」




