第267話:志虎
――さ、寒い。
それが、2日目の朝の、偽らざる感想だった。
小林寺の武僧の朝は早い。
朝5時には起床し、まず掃除を行う。
温度計は氷点下5度を指している。
当然、雑巾がけでもしようものなら、指の先が凍るように冷たくなる。
ただ、意外だったのが、いかにもこうしたことが嫌いそうな志虎が、黙々と作業に取り組んでいることだ。
「寺に来た頃、朱飛大師に、こっぴどく絞られたからな」
手慣れた手つきで八宝粥を作りながら、志虎が言う。
「いつ頃、ここに来たの?」
「5年前だ。はじめは道場破りのつもりで来たんだ。高校を中退して、地元じゃ喧嘩で負けしらずだったからな」
「え、そんな人も僧侶になれるの?」
わたしの率直な質問に、志虎は苦笑する。
「ま、俺の家は特殊だよ。父親はかつて有名なアクション俳優で、俺に幼少期から色んな格闘技を習わせていたんだ。けど、体がボロボロになって引退した後は、俺に暴力を振るうようになった。高校を中退してグレ出した俺を見かねた母親が、少林寺に送りこんだってわけ」
――グレていたとはいえ、寺に送り込むっていうのも相当だ。
「寺になんか全く興味はなかったけど、武術の聖地としての少林寺には関心があった。ただ、そこで初めて見たのが、観光者向けの無駄な動きだらけの演武だったからな。実戦を求めていた俺は、いきなりそいつをぶん殴ったんだんだ」
――は?
「で、その時出てきたのが、朱飛大師だったわけ」
「で、ボコボコにされたの?」
「いや、そうじゃない。大師はこう言ったんだ。『私の好きなところを殴ってみるといい』と。舐められたと感じた俺は全力で殴りまくったよ。朱飛大師は、それを避けようともしなかった」
朱飛のあの実力があれば、格闘崩れの志虎の打撃など、完全封殺できるはずだ。
それを敢えて受けたということは――。
案の定、志虎は溜息交じりにこう言った。
「朱飛大師の体は、微動だにしなかった。いくら叩いても、まるで岩でも叩いているかのようにこっちの拳が痛くなるだけだった。今なら、あれが硬気功だって分かるけど、あの時は魔法でもかけられたような気がしたもんだよ」
アレクも同調する。
「確かに、硬気功を施した指で頑強な木の幹を貫けるなら、その”気”を叩く場所に移動させれば、この上ない防御になるはずだ」
――気を移動させる?
気の正体さえいまだに分からないのに、そんなことが可能なんだろうか?
「で、その場で朱飛大師に弟子入りを申し出たってわけ。その言葉を言った瞬間、朱飛大師の右掌底を喰らって、気絶させられたけどな」
聞けば、少林寺には、武僧と呼ばれる寺の中枢で修行をする僧だけでも数百名、一般人や外国人の受け入れまでしている武術学校も合わせると、数万人の生徒がいるらしい。
「本当は、お前らは、俺みたいに武術学校の下っ端から始めるべきなんだよ。いくら、李夢華の紹介だとは言え、いきなり朱飛大師直々の修行が受けられるなんて、チートもいいとこじゃねぇか」
ようやく、彼がわたしたちに突っかかってきた理由が分かった。
けど、ここで引き下がるわけにはいかない。ここで、”操気法”とやらを体得しない限り、一生夢華との差は埋まらないから。
わたしたちが朝餉を終え宿舎から出ると、寺院は朝焼けに包まれ始めていた。
まるで、これからの修行の厳しさを暗示するかのように、血のように赤い朝焼けだった。




