第253話:中華の愉悦
「ようこそ、上海へ」
かつて、イギリス女王からチャップリン、そして各国の首脳が泊ってきたという、上海随一の歴史を誇るホテル・和平飯店。その8階に位置する中華料理店『Dragon Phoenix』の個室に入ると、夢華が立ち上がって出迎えてくれた。
深い藍色のチャイナドレスをまとった夢華は、その豪奢な部屋にふさわしい、凛とした美しさを湛えていた。肩から裾へと伸びる繊細な刺繍が、光を浴びてキラキラと輝いている。
「おぉ、夢華!」
その姿に見惚れて一瞬動きが止まったアレクが、両手を大きく広げ、夢華をハグしようとする。
まるで蝶が舞うかのように、夢華はひらりとアレクの腕をくぐりぬけ、わたしの前に立つ。
しばらくじっとわたしの目を見て、やがてこう言った。
「どうやら、『正しい方向』に修行を積んできたみたいね。でも、少し迷いが見えるわ」
――わたし、本当に正しい方向に進んでいるんだろうか。
そう聞き返そうとしたわたしに、夢華が席を進める。
「ま、何にせよ、まずは食べましょう。中国には、民以食為天という諺もあるしね」
「ぱんっ」と夢華が手を叩くと、ドアが開き、シェフや従業員が入ってくる。
大きすぎると思われた円形のテーブルの上が、瞬く間に料理で埋まっていく。
「こっちが、四喜丸子。四つの大きな肉団子で、幸福、繁栄、長寿、喜びを象徴しているの。これは、涼拌海蜇はクラゲの冷菜、醉鶏はお酒に漬けた鶏肉よ。 スープは燕の巣を用意しているわ。それにこっちは小籠包で……」
夢華がよどみなく説明してくれるけれど、正直、とても覚えられない。
とりあえず、写真を撮っておいて、あとでサラに教えてもらおう。
「紹興酒は20年ものを用意したわ。あなたが生まれた歳のね」
そういって、濃い琥珀色の液体を小さなグラスに注いでくれる。
「アレクは、赤ワインかしら?」
「ああ、覚えていてくれたんだね」
夢華にハグを避けられて、心なしかシュンとしていたアレクが、満面の笑顔で頷く。
「ちょうど雲南省に行ったときに買ってきたの」
器用にワインのコルクを抜くと、深紅の液体を、ワイングラスになみなみと注ぐ。
夢華は自分のグラスにもワインを注ぐ。
「再会を祝して」
そう言って、わたしたちはグラスを重ね合わせる。
うわっ、濃い!
中華料理チェーンなんかでしか飲んだことがなかったけど、紹興酒ってなんとなく薄くて甘いお酒ってイメージだった。
けど、これは香りも味も圧倒的に濃厚で、喉を通ってもなお、舌の上に余韻が残っている。
まあ、人が生まれて大人になる20年もの間、甕の中で熟成されてたっていうんだから、当たり前なのかもしれないけど。
「この赤ワインも、最高だね」
アレクが愉悦の表情を浮かべる。
「標高2000メートル超の、雲南省・香格里拉の高地で育ったワインだからね。スペインワインにも決して劣っていないはずよ」
相変わらずの負けず嫌いが垣間見え、ちょっと笑ってしまう。
「このワインに、最高に合う料理を用意したの」
ガラガラと音を立てながら、豪華な北京ダックが丸ごと運び込まれてくる。
けれど、わたしの目を奪ったのはそこではなかった。
料理人の後ろについてきた、一人の男の顔を見たとき、わたしは思わず、紹興酒を吹きこぼしそうになった。




